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土曜日の朝、私はゆっくりと目を覚ました。
枕元の時計で時間を確認し、机の上で開きっ放しにしているノートと参考書に目を遣る。はあ、と溜め息をついて身を起こした。
(昨日の夜は思うように進まなかった…)
だから、今日は頑張らなければ。想定していた進度で受験勉強が進んでいない。
まだ志望校に迷いはある。
だけど、時間はない。兎に角問題を一問でも多く解いて、都立東と秀徳、どちらの選択肢にも可能性を残しておく必要がある。
しかし最近は疲れが強く、受験勉強って思っていたよりもずっときついことを再認識。お兄ちゃんにも気を使わせてしまっているし。
本当はもう少し寝ていたいけど、そんな余裕はない。
息抜きなんて、日頃からちゃんと順調に勉強が出来ている人がするものだ。

着替えを済ませてキッチンへ行くと、お兄ちゃんが朝食を摂っていた。いつもならもうとっくに部活に行っているはず。
「おはようございます、みずき」
「おはよう。お兄ちゃん、今日部活は?」
随分と余裕げにトーストを齧っているので、思わず首を傾げながら尋ねた。
「設備点検で、今日は午後からなんです」
なので、午前中は火神さんとストバスのコートでお昼までバスケをするらしい。
熱心なことだ。
高校受験は大変だけど、入学したら楽しいんだろうな。いきいき語るお兄ちゃんが羨ましくなる。
「そっか。お昼ごはんはどうするの?」
なにか作ろうか、と冷蔵庫を開けながら聞いたが、それはちゃんとお母さんがいつも通り作ってくれたのだという。

「みずきは受験生ですから、気を使わなくても大丈夫です。自分のことに集中してていいんですよ」

受験の荒波を乗り越えたばかりのお兄ちゃんは、その大変さを知っている。だから、そのことばは、お兄ちゃんの気遣いで、優しさで。
ありがたいはず、なのに。
「……うん」
胸が、ずんと重くなる。
苺ジャムの瓶を持った手に、無意識に力が入った。

食パンが焼き上がるのを待ちながらマグカップに牛乳を注いでいると、テーブルに置いた携帯電話が軽い音を鳴らした。
「?」
最近はめっきり友達とのメールも減ったし、誰からだろう。
私は端末を手に取って開く。
送り主の名前を見て、少なからず驚いた。なんとも珍しい人からメールが来たものだ。
私のその表情の変化を見逃さなかったお兄ちゃんが「どうしたんですか」と訊いてくる。

「黄瀬先輩から」

今日は午前中で部活が終わるので、午後から渋谷の方でお買い物しようと思っているとのこと。
「それで、『久々に会えないっスか』という訳ですね」
「うん」
私が頷くと、お兄ちゃんは無言で自分の携帯を操作し始め、耳に当てた。
これまでの経験から、なんとなく予想はつくけれど。

「もしもし黄瀬くん。今みずきは受験生なんですよ。大事な時期なんです。勝手に遊びに誘わないで下さい」

それだけすらすらと伝えると、電話の向こうの返事も聞かず通話を切った。
「これで大丈夫でしょう」
そして、にこりと笑う。
先に食べ終わったお兄ちゃんは、お皿やマグカップを流し台に置いて出て行った。


黄瀬先輩からのお誘いは、帝光時代からお兄ちゃんが断っている。恐らく受験云々は関係ない。
お兄ちゃんも征十郎先輩も心配性だ。
それでも黄瀬先輩がお出かけしたいと行ったときは、二人は危ないからと必ず大人数だった。私は楽しくてよかったけれど、その為に予定を変更させられることもあったという緑間先輩や紫原先輩、青峰先輩には未だに申し訳なく思っている。

トースターが鳴って、食パンがこんがり焼き上がった。苺ジャムを多めに塗って齧りながら、当時のことをぼんやり思い出す。

さつき先輩にショッピングに誘われたときもそんなだったな。
確かにさつき先輩は如何にもナンパされそうだから、青峰先輩に一緒に来てもらったときは安心感があったのは事実だけれど。
でも青峰先輩って今でも少し怖い。
緑間先輩も黄瀬先輩も紫原先輩も、最初は怖くて仕方がなかった。
だけど、征十郎先輩を始めバスケの先輩にはとても良くしてもらった。部活に入ってもいないのに、征十郎先輩は得にお兄ちゃんと同じように世話をやいて下さったし、今でもときどきメールをもらう。
先輩方に会いたいな、とふと思うときがある。
だから、この前の緑間先輩との件は本当に幸運だった。
まさか、高尾さんともお会いして話まで出来るなんて夢にも思っていなかった。
お兄ちゃんには内緒にしているけれど、この前は二人で会っちゃったし。
だけど、メールはしていない。出来ない。なんて打てばいいのか解らないから。
私のメールアドレスを教えた一回きりだ。
勿論、それ以降会ってもいない。


朝食を食べ終えると、私は黄瀬先輩に謝罪のメールを送った。
(ちょっと残念…)
黄瀬先輩にも、久し振りにお会いしたかった。
バスケ部の先輩で一番最初に出会ったのは征十郎先輩で、そのあと他のみなさんと顔を合わせた。征十郎先輩を除き、黄瀬先輩は比較的すぐに話せるようになった先輩だったのだ。
少しお調子者なところもあったけれど、フレンドリーな人柄だった。
だから、黄瀬先輩になら高尾さんのことも相談が出来るかと思ったのだけれど。


「ではみずき、僕はもう出ますね」
大きなエナメルバッグを肩に掛けたお兄ちゃんが、廊下から告げてきた。
私は慌てて、見送りの為に椅子から立ち上がる。
一人なんですから、ちゃんと戸締まりはしていて下さいね、と靴を履いたお兄ちゃんは私の頭を撫でた。
「うん。頑張ってね」
いつも通りに小さく手を振って私は応える。
「はい。みずきも」
お兄ちゃんが満足そうに笑って出て行った。

「……“頑張って”、か…」

言うんじゃなかった。
自分に返ってくるのであれば。

(お兄ちゃんに悪意はない、慣用句だもの)

私はふっと涌いた嫌な考えを頭から振り払う。
それでも漏れた溜め息は戻せなかった。

重い足取りでキッチンに戻り、食器類を片付ける。携帯電話を持って部屋に戻ろうとしたとき、またしてもメールマークが光っていることに気付いた。
廊下を歩きながら端末を操作してメールを開く。

「!」

そこには『From:高尾さん』の文字。
家には誰もいないというのに、部屋に駆け込んで画面を凝視した。


久し振り。
いきなりメールしちゃってごめんね。
今日オレ部活が午前中だけなんだけど、ちょっとだけ会えないかな。
受験生だから忙しいのは解ってるんだけど。


優しくて、控え目な文面に一人赤面する。
高尾さんからメールが来たことが嬉しくて。
「会えないかな」なんてお誘いが嬉しくて。

高尾さんに会いたくて。

力が抜けてずるずると座り込み、ドアに背を預ける。小さく震える手で携帯電話を握り締めた。家の静寂に耳を澄ませ、息を潜めてみる。
本当の本当に、誰もいない。
(少しくらいなら、いいよね…)
自分に嘘は吐けず、返信メール作成のページを開いた。

(私も、会いたいです)

近くのファミレスで、会うだけ。
時間だって、ほんのちょっとだけ。
お昼ご飯を、食べるだけ。
服装に、そんなに気合いを入れる必要なんてない。なのに、ベッドに広げたり手にしてみた服は無意識にお気に入りのものばかり。
受験生なのに遊んでいるだとか、不真面目だなんて思われたくないのに。
今までは二回とも制服だったから、いざ会うとなるとどういう格好が相応しいのか迷ってしまう。

悩みに悩んで、お気に入りのスカートとなんの変哲もない白いブラウスに、薄手のニットを合わせることにした。
これくらいのチェック柄なら、派手じゃないはず。

私はそわそわしながら何度も時計を確認し、結局決めていた時間より十分も早く家を出てしまった。
一応緑間先輩にもらった参考書を鞄に忍ばせてきたが、どうせ形だけ。
道中、ずっと高尾さんの顔が浮かんできて離れないのだ。
まずなんて挨拶しよう、どんな話をしよう、高尾さんはどんな話をしてくれるのだろう。


浮かれて、浮かれて、気付けば握り締めた掌に爪が食い込んでいた。
案の定、私がファミレスに着いたときにまだ高尾さんは来ていなかった。
入口から少し離れた窓際に席をとって、参考書を開く。傍らの携帯電話で時折時間を確認しながら、ぼうっと文字列を追った。緊張の所為か喉が渇き、お冷やを何度か口にする。全くページが進まない。
緑間先輩の字はきれいだな、なんて関係のないことすら考えてしまう始末。
一旦参考書を閉じて深呼吸をする。
(まずは、部活お疲れ様ですって挨拶をして、この間のお礼も言って、それから…)

「みずきちゃん」

「ひゃいっ」
背後からぽんと肩を叩かれ、身体が跳ねた。
「ぶっは」
振り返ると、高尾さんがお腹を抱えて笑っていた。
「た、高尾さん!」
慌てて立ち上がるが、高尾さんの笑いはなかなか収まりそうにない。
反射で出た間抜けな声が余程面白かったらしい。
「あんまり、笑わないで下さい…」
「ごめんごめん、驚かせるつもりはなかったんだけど」
待たせてごめんね、と重ねて謝り座るように勧められる。
二人で改めて向かい合うと、この前と空気が少し違うように感じた。
「急に、呼び出してごめんな」
さっきから謝ってばかりの高尾さんに、ぶんぶんと首を横に振る。
「い、いえ…部活、お疲れ様です」
「あ、ありがとう」
「……」
「……」
「……」
「……」

吃り気味だった会話が、途切れてしまった。
部活お疲れ様ですのあとは、なに言おうとしてたんだっけ。
高尾さんも、少し目線を下げながら左右に揺らしている。
私も目を泳がせていると、テーブルの端に立ててあるメニューが視界に入った。お昼ご飯を食べるという本来の目的を思い出して、それを手に取る。
「取り敢えず、なにか注文しましょうか」
「そ、そうだな」
高尾さんの方に向けてメニューを広げると、みずきちゃんが見なよ、とこちらに向けられた。高尾さんは肘をついて少し身を乗り出して覗き込む形になり、近付いた距離に心臓が跳ねた。
「みずきちゃんはなににするー?」
「えっと、あの、」
「ゆっくりでいいよ」
何度かページを捲り少し悩んだあと、
「これで」
とBランチを指差す。
「じゃあ俺は、こっちにしよっと。あとはドリンクバーでいい?」
高尾さんがAランチの方を指でとんとんと示してから、顔を上げた。
「はい」
私が頷くと、ボタンで店員さんを呼んで注文してくれる。
メニューを閉じると、高尾さんは立ち上がった。
「みずきちゃんなに飲む?持ってくるよ」
そんなの悪いです、と立ち上がろうとしたが、にっと笑って制される。

「こういうのは男がやるもんなの!みずきちゃんは座ってて」

高尾さんのことばに甘えて、私は座り直した。
「では…烏龍茶で」
「了解!」
軽い足取りで歩いていった高尾さんを首で振り返りながら、そっと頬に触れてみた。

(熱い…)


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