16



敦くん、敦くん。
彼の名を呼ぶ声が、喉から溢れそうだった。



私のヒーロー


角を曲がったところで、地面になにか落ちているのを遠目に見つけた。
少し視線を上にやれば、

「伊緒ちん!!!」

窓から身を乗り出している、ずっとずっと捜していた伊緒ちんの姿があった。



名前を呼ばれた。
それは、強く望んでいた声で。幻聴かとも思った。
左足を掴まれながらなんとか窓枠に右足で留まっている状態で、呼ばれた方へ首を捻る。
殆ど最後の気力で、彼の名前を叫んだ。

「―――――敦くん!!!」

彼が、走ってくる。
今まで見たことない程、取り乱している。
練習中以上に汗だくで、髪もぼさぼさにして。

(私を、捜しにきてくれたの?)

「ああ?アツシだあ?」
灰崎が一層手に力を込め、庫内に引き戻されそうになる。
「……離して」
「無理な相談だな。てめえは一発でも殴っとかねえと気が済まねえ」
あんたのそんな事情なんか知らん。
私だって殴りたくて殴ったんじゃない。力をこんな風になんて使いたくなかった。
もう、本当に今の状況が嫌だった。

「伊緒ちん飛び降りて!」

遂に窓の下まで来てくれた敦くんが、私に向かって両手を広げる。

(敦くんっ…)

助けてくれるのは、これで最後でいいからね。

「離せって……言ってるでしょ!」

渾身の力を振り絞って左足を振り回し、灰崎の顎を掠る。
「くっ…」
怯んだ隙に解いて、飛び降りた。


衝撃に備え閉じていた目を恐る恐る開ける。敦くんは、上手く私の身体を受け止めてくれていた。
彼に触れて温かい体温を感じると、全身から力が抜けていくのを感じる。

(疲れた…)

「伊緒ちん大丈夫!?何処か怪我してない!?」
表情を酷く歪めた敦くんが、私を抱えたまま、顔を覗き込んできた。
「敦くん…私、敦くんを頼ってばっかじゃだめだって…自分でなんとかしないとって…」
でも、来てくれてよかった。
「敦くんが、来てくれたらって…ずっと思ってた…」
やっぱり、彼が私のヒーローなのは揺るぎない事実のようだ。

「伊緒ちん…」

敦くんは、私をそっと抱き締めてくれた。

「おいてめえら!こんなことしてタダで済むと思うなよ!」


灰崎が小窓から顔を出し剣幕で怒鳴る。
どうやらあの体格ではそこから出られないらしく、なんとも間抜けな図だ。
しかし、私はそれより『てめえら』という単語が聞き捨てならない。

「ふざけないでよ、敦くんに、んっ」

手を出したら絶対許さない。
そう言おうとして、出来なかった。
敦くんが、頭を抱き締めるようにして私の顔を自身の肩口に押し付けたからだ。

「誰に向かってそんなこと言ってんだよ」

底冷えを覚えるような声だった。
そのことばを発したのが敦くんだと理解するのが一瞬遅れる程。

(あ、敦くん…?)

「伊緒ちんをこんな目に合わせて…今すぐ捻り潰してやる」
彼が尋常じゃなく殺気立っていくのが解った。
やめて、敦くん。

(私なら平気だから)

制止の意味を込めて彼の胸をとんとん叩いた。
敦くんはなにもしないで。誰も傷付けないで。
いつも私の為に怒ってくれる優しい彼だからこそ、問題など起こしてほしくない。
どうにか、その震える手に触れたい。

(なんで、なんでこんなことに…)

思いとは反比例して、私には打開出来ない状況に陥っていく。


「その辺にしておけ」

そんな膠着状態に、突如メスが入った。
「……赤ちん」
「赤司くん?」
どう事情を聞き付けたのか、赤司くんまで来てしまった。
既に事態を把握しているらしい彼は、歩み寄ってくると、はっきりと言い放つ。

「灰崎、どうせまだ協力者が近くにいるのだろう。そこから出て今日はさっさと帰れ。加担した人間などすぐに特定出来るのだからな」

彼のことばの後半は、まだ近くにいるらしいマネージャーへ向けられたものだった。
暫くしてから、中から舌打ちが聞こえ、そして黙った。
「ちょっとなに言ってるの赤ちん。こいつは伊緒ちんを、」
納得のいかないらしい敦くんは、赤司を睨みつける。
赤司くんは全く動じることなく、一軍体育館に戻るよう、私たちに促した。
「落ち着け敦。今は真田の手当てが第一だ」
「……っ」
敦くんが、ぎり、と歯を咬み縛る。
肩に触れられている手が、震えていて、熱くて、痛くて―――胸が潰れそうになった。
私の為に、敦くんが感情を揺らす必要など何処にもないのに。
「敦くん、下ろして」
彼の腕の中で、僅かに身を捩る。
「でも、」
「大丈夫、歩けるよ。それに、私汚れてるから」
散々暴れたのだ、私のジャージはところどころ埃を被っていた。そんなこと気にしないし、と敦くんは渋ったけれど、私はゆっくり地に足を下ろす。
それを確認すると、赤司くんはすたすた歩き出した。
「戻ろう、敦くん」
「……」
「荷物置きっぱなしだし。取りに行ったら、私もう帰るから」

気にせず練習続けてね、というつもりだったのだが彼からの返事はなかった。



「一先ず、こっちだ」
赤司くんに、部室に通される。
当たり前だが、部活はちゃんと行われていた。それでも赤司くんや敦くんが不在であるのはよくないと思う。
このまま帰してくれていいのに。
赤司くんがドアを開けると、

「伊緒ちゃん!」

救急箱とタオルをその腕に抱えたさつきちゃんが、立ち上がるのが彼越しに見えた。
彼女だけではない、黒子くんや青峰くん、黄瀬くんと緑間くんが、揃いも揃って沈んだ顔をして佇んでいる。
まるで告別式状態だ。
「お前ら…練習を続けていろと言ったはずだが」
どうやら、赤司くんの意に反してのことらしい。

「だって、」

さつきちゃんまで泣きそうな顔をして、駆け寄ってくる。
私も、その伸ばされた手に応えようとした。

しかし。


「触るな!」


湿っぽい空気を更に凍らせるように激しく発せられた声。
「あつし、くん…」
私は驚いて見上げる。
否、その場にいた全員が驚いていただろう。
赤司くんでさえ、彼を振り返っている。


「誰も伊緒ちんに触るな!!!!」


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