孤独をわけあった二人
パスケースに挟んだ家族写真を眺めながら、そっと指で触れてみた。
そこに温もりなど一つもない。
親の希望通りの大学に進めなかった私は、両親の冷たい目から逃れる為に家を飛び出してきた。
そんな野良猫のような私を受け入れてくれたのは、恋人の大輝だった。
彼はなんでもなさそうに、
「行くとこがねえっつうか、元から俺のとこ以外あったのかよ」
そう言ったのだった。
急拵えの二人の住処はまだものが少なく、未来の不安定さを表しているように見える。
親元を離れたと言ってもまだ学生で、他の誰かを養うなんてとても無理な話だ。
例え仕送りを受けていたとしても、経済力の乏しい学生の同居は現実的には厳しい。
私は、大輝にとんでもない決断を強いたのではなかろうか。
ここに来てからというもの、一人になると何度も考える。
けれど、大輝は私の唯一の拠り所であり、離れる勇気を持てないでいた。
彼から突き放されない限りは、その腕に縋ったままなのだろう。
自分の情けなさに嫌気が差す。
何故私には何も出来ない。
何故身体がいうことを聞かない。
あと数日で入学式を迎える。
大輝が今もコンビニでバイトに勤しんでいる一方、私は時間を惰性に任せて過ごしていた。
バイトをしたいという話はした。けれど、大輝は私の体調が良くなり、大学の講義も始まって生活リズムが出来るまでは駄目だと反対した。
全く嫌になる。
消えてしまいたい。
夜になると塞ぎ込んだ気持ちは益々重くなる。
今日もなにも出来なかったと、ただ嘆くのだ。
(大輝…早く帰ってきて)
ぎりぎりまで磨り減った神経では、大切な恋人さえ思いやれない。
私は醜い程自分本位な人間になっていた。
誰もいない部屋で座り込み、動かずそこでただ大輝の帰りを待つ。背中の螺子を失ったブリキのおもちゃ宛らの様から、日がな一日抜け出せないでいる。
なにもしていなくても時計は巡り、やがてしらしらと夜が明け始めた。
無音の世界に外界から足音が響いてくる。
「っ!」
大輝、大輝だ。
私はさっきの脱力感が嘘のように立ち上がり、玄関へ向かった。
どんどんと、足音は近付いてくる。
「…?」
しかし今日の足音は一人分ではない。なにやら話し声も聞こえる。
この距離と隔たりで聞こえてくるということは、もしかしたら怒鳴っている?
遂にそれはドアのすぐ向こうまで来た。
ノブに手を遣りながら、私は耳を欹てる。
「だから今何時だと思ってんだ、帰れよ。こっちは疲れてんだ」
「いーや帰らないっス!今日こそは考え直してもらうっス!」
「何度も何度もうぜえんだよ、言ってんだろ。俺の中でもうその話はとっくに終わってんだよ」
「納得いかないっス!おかしいっスよ、青峰っちがアメリカ行かないなんて―――」
なにそれ。
「アメリカ…?」
私はほぼ無意識にドアを開けた。
大輝と口論していたのは、彼の中学時代のチームメイト黄瀬くんだった。
否、そんなことより。
アメリカへ行く?
終わった話?
そんなこと、私は一言も聞いていない。
「どういうことなの、大輝…」
私は呆然としながら問った。
「織子!」
大輝がぎょっとして私をドアの中に押し込もうとする。
「あんた、波塚織子?なんでここにっ、」
黄瀬くんの表情が一層険しくなり、私を指差した。
「黄瀬、てめえ今すぐ帰れ」
お腹に響くような低い声で、大輝は黄瀬くんに言い放つ。
私は大輝の腕を掴んで、ドアから身を乗り出した。
「大輝!アメリカって、なんのこと!?ねえ!」
「っ……」
大輝は苦虫を噛み潰したような顔をするだけでなにも言わない。
答えたのは、黄瀬くんだった。
「あんた知らないんスか、青峰っちにアメリカからのスカウトが来てたこと」
「え…」
アメリカからの…スカウト?
つまり、アメリカでバスケをしないか、っていう話のこと?
「黙れ黄瀬」
「嘘!大輝…」
大輝は私と目を会わせようとしない。
「嘘じゃねえっスよ。でも青峰っちはそれを断った。だから今ここにいる」
うそ、うそ。
そんな話一言も言わなかった。
「黙れっつってんだろ!」
大輝は、声を荒げてもう片方の腕で黄瀬くんの胸倉を掴む。
彼は怯むことなく、酷く歪んだ笑みで私を見下ろした。
「あんたが原因っスか。そんなことも知らず部屋にまで転がり込んで、お気楽な上に図々しいっスね、随分と」
頭が真っ白になる。
脚の力がふっと抜け、私はその場に膝から崩れ落ちた。
「てめえ…っ!」
大輝が拳を握って振りかぶる。
「やめて大輝!」
はっと我に返り、止めようとしたが間に合わなかった。
ごっ、と鈍い音がして黄瀬くんは尻餅をつく。
大輝が、彼を殴ってしまった。
「き、黄瀬くん…?」
私が黄瀬くんに手を伸ばそうとすると、大輝が「やめろ」と私を抱き起こす。
そのまま後ろ手にドアを閉める間際、俯いたままの黄瀬くんが恨み言のように私に言った。
「なんであんたが青峰っちの邪魔するんだよ」
大輝は荒々しく錠を下ろした。
彼のことばは私の心臓を突き刺した。
身体のメカニズムが乱れ始める。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
止まらない涙を拭うこともせず、私は只管謝り続けた。
息が苦しいのも、手足の痺れも関係なかった。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
私が、第一志望に受かっていたら。
こんな、こんな、大輝の人生を狂わせることもなかった。
大輝は私の背中をさすり、やめろ、謝るなと宥めてくれた。
バイト帰りの早朝で、疲れているのに。
本当に、私はなにをしているのだろう。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
この先、どれだけ謝っても足りることはないだろう。
「やめろ、織子。喋るな。ゆっくり息しろ、ほら」
大輝が紙袋を私の口元に宛った。
ごめんなさい、ごめんなさい。
いつの間にか眠りに落ちていた私は、夢の中でも大輝に謝っていた。
「…ん、」
目が覚めて、重い瞼をゆっくり持ち上げる。
身動ぎが出来ないと思ったら、隣で寝ている大輝に抱き締められていた。二人してラグの上で毛布にくるまっている。
温かい。
幸せが、辛い。
「大輝…」
愛しい人の名前を呟いてみる。
起こすつもりはなかったのだが、恐る恐る頬に手を触れると閉じられていた目が開いた。
「織子」
「起こしたね、ごめん」
「いや、いい」
大輝は大きな手で私の頭を撫でた。その手の動きは緩慢で、眠気を帯びている。
「今何時だ…」
私の髪を梳く手は止めず、再び瞼を下ろして訊ねてきた。
なんとか首を動かして掛け時計を確認する。
「に、二時…午後二時っ?」
一体どれだけ寝ていたのか。
慌てて大輝を起こそうとしたが、彼は笑った。
「あーいいよ。どうせ休みだからよ」
「本当?」
「ああ」
それより、と大輝は私を抱き寄せる。
「お前また寝てねーし、食ってねーだろ」
「……」
なんでばれているのだろう。
「俺に隠しごとしようなんざ百年早えよ」
起きたら適当でいいからよ、なんか作って食おうぜ、つか食えよ。
き、と私を睨んだ。
「大輝だって、私に隠してたじゃない……」
「あ?」
「アメリカの話」
「あー」
じわり、とまた目の縁に涙が溜まり始める。
「泣くなよ。別にいいじゃねえか。俺が織子と離れたくなかったんだからよ」
「うそ」
「本当だっつの」
「私が、こんなだから」
唇を咬み縛ると、大輝がそっとそこをなぞった。
「それもなくはねーけど。当たり前だろ?」
唇の端にキスが降ってくる。
「つか、そんだけ愛されてる自覚があんなら、」
いい加減笑えよ。
折角一緒に住んでんのに寂しいじゃねえか、と大輝は拗ねたように唇を尖らせる。
その表情が可愛らしくて、私は両手で彼の頬に触れた。
「織子には俺しかいねえ。俺にも、織子しかいねえ」
「大輝、」
大輝は私の為に多くを失ったのだ。彼の周りにいた人たちの顔を思い浮かべれば想像に難くない。
それなのに、彼が私を一切責めない理由がこのときは解らなかった。
しかし、私はそれを時間をかけて一つずつ拾い集めていくことになる。
二人で、ゆっくりやってこうぜ。
楽しいことも、嬉しいことも―――嫌なことも。
これが、これから何度もぶつかっては確認しあう約束を結んだ最初だった。
小さく身を寄せ合った、小さなこの部屋で。
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