完
「そろそろ行こうか。大輝、忘れ物ない?」
「…ああ」
遂にこの日が来た。
天気は晴れ。
空っぽの部屋にありがとうと呟けば、鼻の奥がつんとした。
私たちの生活の影も形もない、やけに明るい室内が胸を切なくさせる。
もう、二人の帰る場所はなくなったのだ。
目の縁に涙が溜まって、私は無意識にぎゅっと瞼を固く閉じる。
「織子」
ドアノブを捻ろうと伸ばした私の手を、大輝がそっと握った。
「大輝、」
もう片方の手は頬に添えられて、大輝の顔が近付いてくる。
私も大輝の首に腕を回し、時間をかけてキスをした。
(時間が止まればいいのに)
抱いてはいけない願いが、私の呼吸を詰まらせる。
ガチャリ、と聞き慣れたはずの音が耳に鋭く突き刺さり、私たちの四年に鍵がかかった。
(これで、いいの。間違ってなんかいない)
これで、小さな檻から大輝を放してやれたのだ。
大輝は、夕方の便で旅立つ。
アパートの鍵を返し、二人で最後のデートをすることにした。
といっても、特別なことはしない。
ただストバスのコートで遊ぶだけ。
マジバでハンバーガーを食べるだけ。
高校・大学と行動範囲が広がっていっても、時折こんな風に遊んでいた。こんなことが、なんでもない最上の幸せだと、今はより一層強く感じられる。
私たちの中心には必ず大輝のバスケがあった。ずっと中学のときから。
(そうして、私たちは一緒に年を重ねてきたんだね。
私たちは、道を分かつ程、大人になったんだね)
変わらないことだって、あると信じていた。
なんだってそうだ、馴染んだものの変化には、最初は誰だって臆病になるもの。
私たちは、新しい一歩を自分で踏み出していくのだ。
騒がしい空港で、いよいよ最後のときを迎えた。
「それじゃあね。くれぐれも身体には気をつけて」
「ああ」
「ちょっと活躍したからって、調子に乗ったりしないこと」
「乗らねえよ」
「観客席にもう私はいないんだから、捜さないで。しっかり試合に集中すること」
「…わあってるよ」
それからそれから、と指折り小言を零す私の頭を大輝が小突く。
「いた」
「余計な心配してんじゃねえよ」
俺の方が心配してるっつの、なんて表情を曇らせるから、明るく振る舞おうと張っていた気が緩みそうになった。
大輝が、ぽつりと呟く。
「ずっと考えてたんだ」
「…なにを?」
「俺がアメリカに行ったら、俺は一生織子を失っちまうのかって」
「……」
私は、紫原くんのことばを思い出す。
“ずっと離れ離れ”とは、今生の別れのことで、お互いの道がもう交わらないことを指すのだろう。
それは、いずれそれぞれにパートナーを見つけて、全く別の生活を営んでいくということ。
(私が大輝以外の人と暮らし、人生を分かち合う…?)
そんなことが、出来るのか。
(大輝も、私以外の人を愛して…年をとっていく…?)
脳裏をちらりと掠めては、意図的に考えないようにしていたことだった。
大輝の声も、ことばも、手も、心も、人生も―――他の誰かのものになる。
この別れは、そういう別れなんだ。
(覚悟は、してたはずなのに)
私はことばを失って、思わず押し寄せた吐き気に口元を押さえた。
どうしようもなく、嫌だった。
俯いてしまってた頭に、大輝のことばが降りてくる。
「織子、お前は俺が我が儘だって知ってるよな」
「…?」
「俺の心を、お前のとこに置いていきたい」
「え?」
意味が解らず、顔をふっと上げた。
「いつかは約束出来ねえ。それでも、俺の遠い将来を、織子に預けておきたい」
「それって……」
「必ず帰ってくる。織子のところに」
そしたら、今度こそ織子から離れたりしねえ。
だから。
「受け取ってくれ」
左手に載せられた小箱。
大輝によって開かれていき、眩しく光る指輪が現れた。
漸く大輝のことばの意味を全て理解し、手の平で輝くそれが一瞬で滲む。
「大輝のばか!あほ!我が儘!横暴!」
堪え切れず、散々罵りながら抱き着いた。
「おう。言ったろ」
大輝はそれをしっかり受け止めて、今までで一番といってもいい程やわらかく私の頭を撫でた。
沢山、傍にいてくれてありがとう。
沢山、慰めてくれてありがとう。
沢山、笑わせてくれてありがとう。
沢山、泣かせてくれてありがとう。
四年前のあのときから今日まで、大輝は自分の時間を全て私にくれた。
十分すぎる程の時間だった。
それがどんなに尊いものであったことか。優しさは、既に私を覆い隠すくらい降り積もった。
だから、今度は私が、
「待つよ。何年でも」
大輝の帰る場所になる。
左手の薬指に、約束が灯った。
(今はただ、)
さよならだいすきなひと。
END
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