これの続き


「え…一人暮らし?真太郎が?」
持っていたスプーンを落としかけ、母の背中にそうよ、と母は頷いた。
「来月から、学校の近くにアパート借りるんですって」


二人分の運命


「なんでまた」
「大学が忙しくて、通学時間が惜しいって言ってたらしいわ」
さすが真くんね、と何故か母が自慢げだ。
講義に研究にバスケにと確かに忙しそうにはしていた。隣に住んでいても最近は滅多に会わないが、まさかそれ程だったとは。
帰ってきたら聞いてみよう。
(料理出来ないのに大丈夫かしら…)


否、そんなものは愚問かもしれない。
部屋に戻って考え直す。
私が実家に帰ってきてからもう何度も会っているが、真太郎は“あのこと”について一切触れてこない。彼は昔と変わらない接し方で、なにごともなかったかのようだ。
もしかしたらあれは一時の気の迷いで、もう彼女がいることは十二分に有り得る。
(私をすきだなんて、おかしいもんね)
優しい真太郎が、馬鹿な幼馴染みを連れ戻す為の究極の嘘を吐いた可能性だってある。

「そんな訳ないか…」

確かに真太郎をすきになる女の子は多いだろう。
でも彼自身は、そんな器用に私に嘘は吐かないと思う。そうしたところでなんの得にもならないし。
解っている、本当は。
(それでも、真太郎にはちゃんとした女の子と幸せになってほしい)
その気持ちは嘘じゃない。
(……違う)

私が、真太郎を信じていないだけ。

大切にされる資格なんかないと解っているから。
私は本当に酷い人間だ。
真太郎も薄々は気付いているはずなのに。

その夜、結局真太郎の家に行こうかどうかぐだぐだ迷っている間に、彼の方から来てしまった。
部屋をノックされ母かと思って適当に返事をしたら、
「入るのだよ」
「…真太郎」
ドアを開けたのは彼だった。
「夜遅くにすまない」
「ううん、どうぞ入って。お茶持ってくるね」
真太郎を部屋に通し、入れ違いで一階へ下りる。母に訊ねると、彼はおばさんのお遣いで来たらしい。
お盆にお茶とお菓子を乗せて部屋に戻った。
「ちょっと久し振りだよね。大学、忙しそうだね」
「ああ、それなりには」
お茶を啜った彼はそれきり黙ってしまう。
(聞いて、いいのかな)
家を出ていくこと。
(聞こうかな)
マグカップを持ったままちらちらと真太郎を見ていると、ふいにばちりと目が合った。
別に一人暮らしをするなんて後ろ暗い話ではない。訊くなら今だ。
「真太郎」
「みはな」
顔を上げると、声まで重なった。
「なんだ」
「真太郎こそ、なに」
「みはなが先に言え」
「そっちが先に言ってよ」
譲り合いというより擦り合い。
「……」
「……」
これでは埒が明かない。カップをテーブルに置いて、私から口火を切った。
「家出て、一人暮らしするんだってね」
肯定の返事をほんの少し恐れながら、彼の顔を窺う。
「ああ。少し前からアパートは探していたのだよ」
「そうだったんだ。学校の近くなんでしょ」
よかったねと笑いかけると、真太郎は首を横に振った。
「いや、寮に入るのだよ」
「え、寮?」


誤報に早とちり、杞憂。
(お母さんめ…)
真太郎から語られた真相はなんでもないものだった。
忙しさに追われ、通学時間が惜しいと思っていたのは本当らしい。そこで、かなり前から学校の学生寮の入居を希望し空きを待っていたのだという。しかしなかなか退去者は現れず、遂に彼はアパートを探し始めていた。
「そこへ先日、漸く空室が出たと連絡がきたのだよ」
だから、そちらへの入居をすることを決めたとのことだった。
「そうだったんだ」
「そうだったのだよ」
膝の上でぎゅっと手を握り、私は口を噤む。
(それで?)
私はなにを言いたいの。
“たまにしか会えなくなるね”とでも?
そもそも真太郎とは、家が隣だったからここまでこうやって幼馴染みをやってこられただけ。
高校も大学も今は違うのだから、関係が薄れていってもなんら不自然ではない。

「大変そうだけど、頑張ってね」
寧ろ喜ばしいことなのだ。真太郎はちゃんと自分のことを優先した。私が妨げにならなくて本当によかった。
「ああ」
烏滸がましいけれど、応援するくらいなら許されるはず。
「お茶のお代わり持ってこようか」
話を自らの耳で聞けてすっきりした私は、立ち上がりお盆に手を伸ばす。
「みはな」
その手を、ふいに真太郎に掴まれた。
「真太郎…?」
彼の腕を辿り、視線は深い緑の瞳の中へ。
「一つ、困っていることがあるのだよ」
唐突に、真太郎が切り出す。
「一人暮らしで?」
訊ね返すと、彼は首肯した。私にどうにか出来ることなのだろうか。
「どうしたの」
そして私の手を掴む必要があったのだろうか。
どぎまぎしながら真太郎のそれを見つめ、更に問う。

「今よりもっと、みはなに会えなくなる」

「え、ちょっ…」
不意を突いてぐいと緩く腕を引かれ、私は床に再び膝をついた。
小さな声なのに、確かに私の頬を熱くする彼のことば。
(まさか)
ふと思い出す、ついさっきのこと。
「真太郎が言おうとしてたのって…」
至近距離で見つめた真太郎が頷いた。

彼は、一つも嘘など吐いていない。

もうずっと昔から、真太郎は私に心を砕いてくれていた。私の過去は消えないけれど、彼の想いに応えてもいいのだろうか。
こんなにも近くにいるのに手を伸ばす勇気が出ないのは、遠慮なんかじゃない。
真太郎を傷付けたくない一心で、距離を置こうとしているのだ。
なのに、少しでも遠くへ行ってしまうのが嫌で、引き留めたいなんて考えている。
(私も、会えなくなるのは寂しい)
いなくならないで欲しいなんて、卑怯なことを。
もっと最初から、彼のことを大切に出来ていたらよかったのに。
「そう、だね…」
それ以上のことは言えなかった。
真太郎は少し表情を曇らせ、しかし半ば解っていたかのようにあっさりと立ち上がる。
「帰るのだよ」
「…うん」


真太郎はいいと言ってくれたが、見送る為に私も外へ出た。門扉に手をかけた彼の背中に声をかける。
「引っ越し、なにか手伝えることがあったら言ってね」
私がこの家に帰ってくるときに、真太郎には随分助けられた。だから今度は私が。
「みはなも忙しいだろう」
今年度は比較的講義も少なく、バイトの時間以外は殆ど家にいる。私は首を横に振った。
「そんなには。結構暇してるから」
「そうか」
「うん」
ひらひらと手を振ると、彼も軽く口角を持ち上げる。
「!」
もうお互いに大人になったけれど、昔からふいに見せるその優しい表情が、私は。

(だいすきだった)

ぽろりと涙が一粒零れる。
「真太郎っ…!」
押し殺した声で名前を呼ぶと、嗚咽が溢れ出した。
いつも私を見てくれていた目を、私は知っていたのだ。何故、彼のことばを信じようとしなかったのか。膝から崩れ落ちると、それに気付いた真太郎が駆け寄ってきてくれる。
「みはな!どうしたのだよ」
取り乱した様子で、肩を摩ってくれた。その手に、そっと自分のそれを重ねる。
何度葛藤しても、自制などもう出来ない。
「あのね、真太郎…」
すき。真太郎のことが、だいすき。
そう口を開こうとした。
しかしそれは、門前に現れた人物によって遮られる。

「みはな?」

久しく耳にしていなかった、彼の声。
はっとさせられる程、覚えていた。
顔をゆっくりと上げ、薄暗い中に彼の姿を見付ける。
「りょ……黄瀬、くん」


私を背に立ち上がった真太郎は、不快を顕わにした声で黄瀬くんに問った。
「なんの用だ、黄瀬」
しかし彼は「緑間っちに用じゃないっスよ」と軽い調子でそれを躱す。
屈んだ彼が、「久し振り」と私の顔を覗き込んだ。じっと真っ直ぐ目を見つめられ、私は焦点を少しずらす。
「な、なに…」
しどろもどろになりながら訊ねると、黄瀬くんはにっこり笑った。
「単刀直入に言うっス」
溜めのない率直さに、身体を固くする。

「みはな、やり直さないっスか」

「ちょっ、わっ」
手を掴まれ、私は立ち上がる。真太郎が息を飲むのが解った。
それを知ってか知らずか、彼は構わず続ける。
「みはなが出ていってから何人か付き合ったんスけど、俺やっと気付いたんスよ」
「?」
「みはな程付き合い易い子なんていない、って」
付き合い易いってなんだろう、と頭の中で彼のことばを繰り返した。
「黄瀬…お前…!」
真太郎が握っていた手を離させ、私を後ろに下がらせる。しかし意に介さず、彼は尚も私と目線の高さを合わせてきた。
「みんな我が儘なんスよ。それに引き換えみはなは聞き分けがよくて助かってたなー」
無邪気な笑顔だった。
私がすきになった眩しいきれいな笑い方。ずっと欲しがっていた、涼太もとい“黄瀬くん”のそれ。
(痛い…)
なのに何故か胸に突き刺さった。
「ふざけるのも大概にしろ!」
「真太郎!?」
視界がぐらりと揺らぐ中、真太郎が黄瀬くんに掴み掛かる。
「緑間っちはみはなの一体なに?ただの幼馴染みが出しゃばらないでほしいんスけど」
「黙れ。みはなの苦しみが解らない奴にみはなが渡せるか」
「はあ?なんか意味わかんねっス。みはな、来るっしょ?」
憧れて憧れて、想いが通じ合ったはずの人。けれど今は。
(黄瀬くんが解らない…)
否、どれほど彼を理解しただろう。どれほど彼に理解されただろう。
一緒にいても漠然と不安はいつもあって、傍にいても遠いと感じることも少なくなかった。
「き、黄瀬くん、といた頃は…泣いたらだめで…泣いたら、終わりだと思ってた」
私の今の、彼への想いとは。
喉の奥が熱い。震える声が涙腺を刺激した。
「私は、本当にだめなとこばっかで…知られたくなくて、隠さなきゃ隣に並べなかった」
私は、自分勝手で短絡的で、未熟で迷って間違って。
繕えなくなって涼太の元を離れたのだ。
愛されてないと気付いてしまったから、傍にはいられなくなったのだ。
(…戻ったところで、同じ過ちを繰り返すだけ)
だからもう、戻れないよ。
おかしいよね、あんなにもすきだったはずなのに。
黄瀬くんとは、もう一緒には行けない。
「は、なに言ってんスかみはな。んな難しいこと考えなくていいじゃん。俺が迎えに来てやったんスよ?」
私は静かに首を横に振る。
いよいよ気分を害した黄瀬くんは、大袈裟に溜め息を吐いた。
「なにが気に入らねえんすか。相性よかったっしょ―――色々と」
鬱陶しそうな表情から一転、にいと目を細めて彼が語尾に含みを持たせる。
ひくりと気道が絞まった。
「このっ…下種が!」
真太郎が掴んでいた黄瀬くんの襟元を更に掴み上げるが、彼は益々笑みを濃くするだけ。
その目に、忘れようとした過去が抉り出されて涙がまた溢れ出した。けれどさっきのものとは全然違う。その正体は、自分に対する嫌悪感。自分がどうしようもなく汚らわしく感じた。
(消えたい、消えてしまいたい)
真太郎は、遂に幻滅しただろう。
(どうして、私はこんなにも間違えてしまったのだろう)
あの頃は本当にすきだった。だけど黄瀬くんのところには戻らない。
(でも、もう真太郎にも…)
ゆっくりと、その背中を見上げた。
私は、黄瀬くんが言ったような聞き分けの良さなど持ち合わせていない。
(ねえ、真太郎)
こんなにだめな私のこと、今まで大切にしてくれてありがとう。
叶わなくてもいい。
「私は…真太郎が…」
すきだよ。
傍にいたいよ。
出来ることなら、私も同じ気持ちをもらった以上に返したいと思ったよ。
「みはな」
真太郎も私を振り返る。
驚いた彼の顔がぼんやりと滲んだ。
だめな自分を晒すことになったとしても、全部全部知っていてほしいと願ったのは他でもない彼だけだ。
手の甲でごしごしと目元を拭う。
「泣いたって真太郎の傍にいたいと思った」
黄瀬くんのことを、私はなにも知らなかった。踏み込んじゃいけないって、弁えてる気になってた。
でもそんなの、知ろうとしてないのと一緒だったよね。
(勘違いしてたんだ)
想いを通わせることが出来るのなら、真太郎といられるなら、どれだけだって強くなるよ。そう覚悟が出来るくらいに、真太郎のことを想うよ。
「黄瀬くんに…不誠実だったことは謝る。ごめんなさい」
頭を下げると、真太郎も黄瀬くんを離した。
「だけど、楽しい瞬間もあったのは本当だったよ」
漸く、断ち切れる。
私も多分、黄瀬くんに憧れる他の女の子と同じ。彼の望むものは、私とでは築けない。
「ありがとう」
真太郎の腕を引いて彼から下がらせた。
「なんっ、スか…それ」
苦虫を噛み潰したような表情で、黄瀬くんは私を睨む。もういいっスわ、と冷めた目で踵を返していった。


結局二人ともに嫌な思いをさせた。
黄瀬くんは去り、残された真太郎はこちらを見ようとしない。
ほら、こんな私は嫌でしょう。
それはそうに決まってる。
(…今更後悔したってなんにもならない)
自己嫌悪とは、斯くも胸が焼け付くような感情であったのか。
「…また迷惑かけてごめん。じゃあね、真太郎」
下唇を強く咬み込んで私も彼に背を向けた。

「言い逃げか」

真太郎が、私の手首を掴んだ。何度目だろう、痛くはないけど振り解けない。
「俺は言ったはずなのだよ。どんなみはなも受け入れると」
付き合ってあげるとか、付き合ってもらうとか、どちらかが優位に立つような関係ではない。もっと思いやって歩み寄れたらどんなにいいだろう。
果たして、私にそれが出来るのか。
どうしても自信がない。きっと引け目を感じるし、卑屈にもなる。
起こってもいない不安をこんなに抱えて、真太郎と付き合えるのか。
「黄瀬とのことがトラウマなのは解っている。今更焦ったりもしないのだよ」
彼が、私を振り向かせた。

「ただ、みはなの本当の今の気持ちが知りたい」

(私の、気持ち…)
今、彼に伝えたいことなんて一つに決まっている。

「すき…」

ぽろりと、口から零れ出した。
あ、と思うまで無意識だった。
「真太郎…すき」
「みはな」
彼が私の腕を掴む。真太郎の手は、いつも私を落ち着かせてくれた。
でも今は、どんどんと私の体温を高めていく。彼が私に触れていると、意識してしまった。
「だけど、こんな虫のいい話なんてないでしょう?」
身勝手な人間が救われるなんて。
「なにをそんなに心配することがあるのだよ」
真太郎は眉根を寄せる。
「答えは出ている。ただ頷けばいい」
信じるのは怖いし、信じてもらうのは難しい。期待することとされることに似ている。ことばにしなくても応えて欲しいと欲張ってしまうし、ことばがなくても読み取って応えたい。

「でなければ、俺の方が報われないのだよ」

一変して弱々しく戯けた表情は、駄目押しだった。

「…真太郎」
ただ彼にだけ、私は応えたい。
首をゆっくりと、縦に下ろした。
真太郎の微笑みが、きっと私の不格好な歩みを正してくれる。
そして私は、彼に寄り添って精一杯の想いを注ぐだろう。



重ね合った掌に



今夜、誓います


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