「やっぱり、緑間くんの差し金だったのね」
目を覚ました櫻本は、やはり無表情で言った。


海へ行かないか(後編)


「ばれてたか」
俺は肩を竦めて見せる。しかし櫻本だって半ば解って着いてきたのだから、それ以上責められることはなかった。
「真ちゃん、心配してたんだよ。櫻本のこと」
断ろうと思えば断れたけど、それをしなかった俺の意志は置いといて。
「解ってる」
窓をもう少し開けてもらってもいい?と頼まれ、俺は差したままだったキーを回した。
結局全開にして、彼女はそこに肘をつく。上体を捻って海を眺めるその細い背中を、俺は暫し見つめた。
真っ黒なショートヘアが時折煽られると、その後頭部へ手を伸ばしそうになる。
撫でたい、などと。
(意味不明だ)


「あのラボは」
櫻本が徐に切り出した。

「祖父のものだった」

彼女が言うには、研究所は山奥深くの生態系の解明を目的として作られたらしい。なんでもあの場所は特別な土地で、流れている川も含めて多くの謎が秘められているとか、未確認生物がいるとか。
そのとき所長に着任したのが櫻本の祖父だった。地中水中問わずまだ明らかになっていない自然の営みを調査し、動植物を始めとして微生物の進化や退化を辿っていく。そんな果てしない研究を行っていたという。
「あのありのままの環境が、どんな歴史を辿ってどんなものから構成されているのか、それらをどう維持して生き抜くのか、それを解き明かしていたの」
その饒舌さから、櫻本がどれほど研究に熱を注いでいたかがよく解った。
その手の学識はさっぱりだが、寝食を忘れるほど熱中する気持ちは知っている。
「ラボに入りたくて、祖父が特別講師を務めていた大学に進んだしゼミも受講した。緑間くんと一緒になったのは偶然だったけれど」
緑間も櫻本氏の生態学に強い関心を持ち、二人は優秀な成績を修めて晴れて研究所に就職を果たした。櫻本氏もそんな彼等を大層可愛がっていたらしく、熱心な指導の下二人はいくつか論文を発表したという。
「けれど二年前、祖父は亡くなった。そのことで研究は失速すると見通しが立てられ、本部からは大幅に予算を削減された」
櫻本氏は小さい研究所に詰めながらも分野の権威であり、そのお陰であそこは予算が保障されていたらしい。つまり、本部は研究所に対し櫻本氏ありきという認識を持っていたのだろう。
「まるで沈む泥船ね。見捨てられたのよ、採算がとれないからと」
「だから、研究員の人たちも異動じゃなくて新たな就職先が必要って訳か」
「それもあるけれど。みんな祖父を慕ってくれていたから、本部に不信感を抱いたというのが本音のようよ」
まあ、本部の判断も強ち間違いではないだろうけど、と自嘲した。
「どういうこと」
「だってそうでしょう。私や緑間くんも天才と持て囃されてはいるけれど、二人がかりでも祖父には遠く及ばない」
頬杖をついていた櫻本が、久し振りにこちらを見る。逆光の中に歪んだ笑みが浮かび上がった。

「赤司征十郎って知ってる?」

薮から棒に、これまた曰く付きの名。
俺は少々面喰らって「まあ、一応」と吃りながら頷く。
「研究員の殆ど、いえ、器械や検体も多くが彼のグループ企業が引き取る手筈になっているわ」
維持費が馬鹿にならない為に、それくらい規模の会社でないと引き取り手がいないのよ、と更に口元を歪めた。
「悔しい」
震えた声が零れ、頬に一筋の涙が伝う。

「私に彼程の才能があれば、研究所をなくさずに済む発見が出来たかも知れないのに…!」

悲愴だった。
疲れきった心の叫びだった。
俺は唇を固く噛む。
大事な仲間の転職先や研究所の器材、資料の引き取り手を誰より案じていたのは間違いない。路頭に迷ったり廃棄になったりすることがないと決まれば安心したはず。
けれど、行く宛てのない並々ならぬ愛着はどうすればいい。
緑間が言っていた、「櫻本が最も研究所に一番の思い入れを持っている」の意味を知ってしまった。尊敬する祖父の残したもの、弱冠二十代半ばで自ら信頼する同期とトップに立ってやってきたこの数年。
あと少し、時間があればと。
己の非力さが腹立たしくて仕方ないだろう。
(これは、俺が安請け合いだったかな…)
しかし今頃悔いたところでもう遅い。
「緑間くんに言われたわ。お前は研究者を辞めるつもりなのではないかってね」
「どうするつもりなんだ」
「…解らない。答えられなかったの。叱られたわ。櫻本のような人間が研究を止めてしまうなど許さないと」
未だ彼女は葛藤している。
多分、緑間も赤司のところへ行くのだ。そしてそれを、決して軽い気持ちではなく暗に櫻本にも勧めているのだろう。
彼女は続ける。
「馬鹿だと思われても構わない。祖父の残したあのラボでないと意味がないのよ」
小さく嗚咽しながら遂に櫻本は両掌に顔を埋めた。
「ちょっと、外に出よっか」


降車を促し、数段のコンクリート階段を下りる。
「足元気をつけて」
白い砂浜に踏み出した櫻本の足取りが心配で、俺はその手をとった。嫌がる様子もないし、このままでいいだろう。目的も理由もなく波打ち際に沿って少し歩いた。車から百メートル程離れた頃、
「待って。靴の中が砂だらけになったわ」
櫻本が手を離して立ち止まったかと思うと座り込む。靴を脱いで膝を抱えたその横に、俺も腰を下ろした。
不躾で悪いんだけど、と俺は前置きをして尋ねる。
「なんで、櫻本は赤司のところに行かないんだ」
すると、鋭い勢いで彼女は俺を睨み上げてきた。
「え、な、なに」
狼狽えて思わず背が僅かに反る。

「あなたも女の幸せは結婚だと思ってるの!」

それは、肩を怒らせ興奮気味に言い放たれた。
「は?結婚?なんの話…」
俺から話を振ったはずなのに、文脈が見えない。どうどう、と落ち着かせると櫻本は目を丸くした。
「え?」
「え?」
二人して首を捻る。
数秒後我に返った彼女は、怒りの訳を語った。


「赤司から求婚、ねえ」
赤司の会社に就職する、と赤司の家に嫁ぐ、のことばの文である。ナーバスになっているのだから致し方ない勘違いであった。
「ラボの閉鎖が公になってから、真っ先に連絡を寄越したわ。まるごと引き受けて研究も続けられるようにするからと条件を出してきたの」
きったねえ。
しかしさすがは赤司と言わざるを得ない。
「答えを渋ってる間に、みんな赤司の会社と仮契約まで話が進んで…実質残ってるのはあの建物くらいよ」
櫻本に結婚の意志は全くない。しかし赤司が買収しなければ、あの研究所は廃れて取り壊されるのを待つのみ。
彼女に赤司を利用する程の狡猾さがあれば、こんなには苦しまない。緑間に相談出来る程の器用さがあれば、ここまで追い詰められない。
ということは、このことを知っているのは生粋の部外者である俺だけ。
どうともならないと解っていて、話してくれたのだ。
それもなんだかなあと複雑な気もするが。
(あ、こういうのって)
解った。

放っとけないっていうんだ。

今にも消え入りそうなくらいに消耗した心を、どうにか休ませてあげることが出来れば。
(軽はずみなことは言えねえけど)
櫻本には捨てたくないものがある。
だけど時間は必要で、その上考え方を転換出来るようなきっかけがなければ彼女は葛藤から抜け出せない。
「ちょっとさ、休めよ」
「そんな時間ないの」
「あるさ」
「ない」
櫻本が頑なに首を横に振るも、俺は引き下がらなかった。

「見てらんねえよ、今の櫻本」

砂に食い込む手を握る。
こんなにも痩せ細った身体で、なにをどうしようというのか。
「ちゃんと休め!そんで食え!」
「無理よ、帰るところないもの」

「……は?」

語気が失速した。
どういう訳か詳しく聞いてみると、
「両親の反対を押し切って研究所に入ったから勘当状態なのよ。最初はルームシェアしてたけど、帰らなさすぎてすぐ解消したわ」
その後櫻本氏の許可の元、共に研究所に住み込むようになったとのこと。
緑間め、なら最初からそう言え。紛らわしい。
それなら余計に俺ももう後には引けない。
「助けるからさ。俺に出来ること。ちょっと頼ってくれねえ?」
「今日のことでもう十分迷惑かけたわ」
「そうじゃなくてさ」
「そうね…このあとラボまで送ってほしいのだけれど」
ああもう間怠っこい。いや送るけどさ。

「俺んとこ来い!新居探すの手伝うから、見つかるまでずっといればいい!兎に角櫻本は休むの第一!」

捲し立てて言い切り、握った手を引っ張って櫻本を立たせた。
「大事なものに執着すんなとは言わねえよ。でも今のままじゃ無理だ」
「どうしてそんなこと言うの」
彼女の瞳に涙の膜が張る。
ごめん、櫻本。
「お前天才なんだろ」
「そんなこと」
櫻本の小さな反論を無視して、俺は声を上げた。
「だったら!」
そんなお前だからこそ、気付いてほしいんだよ。

「時間かけてでも研究所を取り戻して見せろよ…それが出来ないなら、尊敬する祖父さんみたいに研究所一つ任されるくらいの研究者になれよ!」

「高尾…くん…」
呆然と俺を見上げる彼女が、
「そうね」
やがて頷いた。
「高尾くんの言う通りだわ。やり直すことは出来ないし、時が経つのを待つのも違う。自棄になるのは間違いね」
「…おう」
手が握り返されたのは、気のせいではないだろう。
「だから、赤司のとこに行くな」
「行く訳ないでしょう」
呆れたように否定するその苦笑から、もう先程までの表情の陰りは感じられない。


「なら、俺んとこだったら来る?」



大事なものを守りたいと思う君を、
俺は守りたいと思った




「そうね。高尾くんの研究でもしてみようかしら」
「え」
「緑間くんの相棒には、興味あるわ」


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