「研究所の閉鎖が決まってから、櫻本が一切休みを取らないのだよ。何処でもいいから適当に連れ出してくれ」



海へ行かないか(前編)


高校時代の部活の相棒から珍しく連絡が来たと思ったら、内容にもこれまた驚いた。
あの緑間が人に頼み事をするなんて。
腰を抜かすかと思った。

(大体、櫻本って)
久々に聞く名前だ。俺は約十年前の記憶を手繰り寄せる。
緑間と同じくクラスメイトで、もの静かな女子だった。特に仲が良かったとか、委員会が一緒だったとか縁があった訳ではない。寧ろ殆ど話したことはなかった。
同じ大学に進んだが、学部も違う。但し、緑間と櫻本が同じ学部だった。俺と緑間は、同じバスケ部だった。片や俺は高校から引き続き、緑間とバスケをやる為に同じ大学に行ったに過ぎない。だから、「ああ、名前だけ知ってます」程度のぼんやりした仲だったはず。
なのに何故、今回緑間は俺に連絡を寄越したのか―――。

謎は解けないまま、俺は呼び出された研究所に車を走らせた。日々デスクワークに追われる平凡なサラリーマンの貴重な休日を平気で奪うなんて、さすがエース様だ。
あいつからの頼み事だなんて余程のこと、一体どんな楽しいことが待ち受けているのやら。


そもそも、この度閉鎖になるらしい“研究所”とやらのことを、俺はよく知らない。
大学を出て、緑間と櫻本が揃って就職したところだというくらいの知識しかないのだ。
それなら緑間と彼女の方がずっと強い縁がある。俺を引っ張り出さずとも、自分でなんとかすればいいものを。
「それだけ困ってるってことなのかねえ」
あの緑間が猫の手も借りたいというのであれば、吝かではない。
緑が深まり鬱蒼としていく風景に気を取られそうになりつつ、俺はカーブに合わせて緩やかにハンドルを切った。
カーナビ上の地図はとっくに一本道で、建物も民家も全く存在しない。辛うじて舗装はされているが、人の手が凡そ入っていない土地へ進んでいく。ナビゲーションは正しいだろうが、呑気な口笛は少し前に消えた。
これ帰れっかな、と一抹の不安を抱きながら上り坂に差し掛かる。この先に緑間が所長を務める研究所があるのだ。


ナビは確かに俺を正しく研究所に導いた。
正面玄関の左手に車を横付けし、俺は緑間に到着を知らせる電話をかける。コール中、白い箱のような建物を眺めて溜息を吐く。蔦が這っていて不気味だ。曰くつきっぽくて“出そう”、が正直な感想だった。本当にあの緑間の職場かよ、と。
『高尾か』
「おー、真ちゃん。着いたぜ」
『解った。すぐ開ける』
通話はすぐに切れ、俺も車から降りた。
自動ドアの前で突っ立って待っていると、暫くして鈍い動きでそれが開く。
そしてその向こうから、少し懐かしいがあまり変わらない旧友の姿が現れた。
「真ちゃん!久し振り」
白衣が似合いすぎてて笑える。
片手を軽く上げて挨拶すれば、緑間も「ああ」と応じた。

「と、櫻本」

しかし、その後ろの小柄な女性は無言でこっちを見ているだけ。
彼女もまた高校のときと殆ど変わらない、涼しい面影をはっきり残していた。


「いきなり呼び付けて悪かったのだよ」
散らかった狭苦しい研究室内に通され、勧められたソファに腰を落ち着けた。櫻本からコーヒー差し出され、「ありがと」とそれを受け取り緑間に向き直る。
「謝んなよ。俺と真ちゃんの仲じゃん」
明るく返すとふっと笑った緑間に、
「お前のそういうところに感謝の念を覚えないことはなくなくなくはないがな。その軽さの所為で、高校・大学と何度俺とお前が付き合っているなどと噂を立てられたことか」
ドスの効いたクレームを投げ付けられた。「あっはっはエース様に万歳」


改めて見渡した室内の年季の入った壁や床は、磨かれてなどおらず色んな汚れがこびりついている。所々皹も入っているし、置かれている空気清浄機など何処まで機能を果たしているやら。
「で、俺はどうすればいい訳」
緑間が櫻本に席を外させ、俺は本題を切り出した。
「二ヶ月前にここの閉鎖が決まってな。連絡した通りみはなは一日も休暇をとっていない」
「二ヶ月間?」
「ああ。あいつには最早ここが家だしな」
四六時中ここにいて白衣を纏い、休息は転た寝程度。
曰く、副所長である櫻本は研究員や研究器械・材料の引き取り手を探して東奔西走しているらしい。他人に世話を焼く癖に、自分のことは等閑にしているという。櫻本ってそんな奴だったんだ。
「みはなは、誰よりもここに愛着を持っているからな」
「へえ」
あの重そうな瞼で、そんな虚無と不安を見つめていたのか。好きで入った職場で、副所長にもなって。そりゃ寂しいに決まってる。
「だが、このままでは有給消化も出来ないどころか倒れてしまう。なんとか一日でも休ませたいのだよ」
「因みに真ちゃんは」
「見縊るな、みはな程無理はしていないのだよ。俺はここの所長だからな。本部へ出張に行きがてら休んでいる」
偉そうに言ってるけど、道中電車内で寝てるだけってことだろ。あんま変わんねえじゃねえか。
「兎に角俺のことはいい。今すぐみはなを連れ出してくれ」
「よくねえだろ」
「こんなときに所長副所長揃って空ける訳にはいかないのだよ」
揃いも揃ってなんて制御の利かない性格をしてるんだ。こんなときだからこそ、トップ二人がそれじゃあ職員も余計不安になるだろうに。
「俺は仕事の目処がついているから構わん」
緑間はふん、と眼鏡を押し上げた。
「なに、真ちゃんは再就職先決まってんの」
手中のカップに落としていた目線を、デスク脇に立っている緑間に移す。
「ああ。ここの閉鎖後二、三週間空けて入職する」
「因みに閉鎖っていつ」
「一ヶ月後だ」


緑間を問答無用でソファに沈め、俺は自身の執務室にいた櫻本に声をかけた。
「なあ櫻本。ちょっと外出ねえ?」
彼女は、鬼気迫るオーラを放ちながらデスクで書類やファイルに埋もれている。机上だけではない、ソファにもローテーブルにも本棚にも何かしら詰まれていた。少しでも可能なスペースというスペースがあれば、洩れなくそれらの置き場となったのだろう。気圧されつつ足を踏み入れた。
「ごめん高尾くん。私それどころではないの」
ちらりと顔を上げたかと思うと、またすぐ書類タワーの向こうにその姿は消えてしまう。
「真ちゃんから買い出し頼まれたんだって。外の空気吸うつもりでさ!」
説得を続け、渋っていた櫻本も遂には諦めたように椅子から立ち上がった。
どうやらこのまま俺に煩くされるより、一先ず言うことを聞いておいた方が賢明だと判断したのだろう。
緑間と同じ白衣を羽織ったままの彼女を助手席に乗せ、ついさっき登ってきたばかりの坂をゆっくりと下った。
(なんで俺もこんな必死になってるんだか)


「なに食いたい?」
少し拓けた土地に出、車通りも増え始めた辺りで尋ねた。
「特になにも。そんなにゆっくりしていられないの。頼まれたもの買ったらすぐ帰りましょう」
(強情だなあ)
何処までも仕事人間な性分だ。
「山下りるの久し振りなんだろ?言ったろ、折角だから気分転換しようぜ」
赤信号に変わったのを確認して、徐々にブレーキを踏み込んでいく。
シートに姿勢よく座っている櫻本を見遣った。さっきは緑間と並んでいたから小さく見えたが、彼女の背丈は女性にしては高い。更に、過労の所為か高校のときより線が細くなっている。もともとすらりとした印象だったが、輪をかけて心配にさせる風貌だ。
(こういうの、なんていうんだっけ)
信号が青に変わり、内心で首を傾げながら車を発進させた。
さっきの出がけの緑間のことばを思い出す。

「櫻本は研究員の採用状態はしつこく一日に何度も確認をとる癖、あいつの今後の行き先は誰も知らないのだよ。無論俺もだ」

働き詰めることで、研究所閉鎖の現実から目を逸らしているのだろう。恐らく本人も自覚があってそうしている。
ならばそのあとは。
(抜け殻になるしか、ねえよな)
だから、こういうのをなんていうんだっけ。
俺は、市街へ向かう車線からそっと外れた。


安直だけど、ライフワークのフィールドが森や山なら、息抜きは海かなと思う。
道を外れて随分経つし、さすがに櫻本ももう気付いてるだろうけど。しかし特に面白い話題もなく、お互い黙っていた。
と思ったら。
「寝てるし」
手を膝に置いたまま姿勢が変わらないから、全く気付かなかった。
(その方がいいか)
なんだかんだ言いつつも体力は限界だったのだろう。
俺も口を結んで運転を続けた。


車はいよいよ海岸通りに抜け、木々の間に遠く海が見え始めたところで速度を少し落とした。キラキラ光って視界の端を刺激される。運転席と助手席の窓をバイザーの五センチ程下まで開けてみると、潮風が流れ込んできた。
程なくして白い砂浜が見える道で車を路肩に寄せ、エンジンを切る。櫻本を起こそうと肩に手を伸ばしかけてふと止めた。
死んだように眠る幼げな横顔とよれた白衣、遥か向こうに見える水平線が、あまりにもミスマッチだったから。

美しかった。

まだ、起こさないでおこう。
櫻本が目を覚ますまで、俺は海と彼女を飽きることなく眺め続けた。



波の音が、まだ彼女を起こしませんように

[ 22/26 ]

[*prev] [next#]
[mokuji]
[しおりを挟む]



「#幼馴染」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -