名前のない恋

 
混雑する電車内はどうも埃っぽい。
これだけはすきになれない。誰だってそうかもしれないが。
帰宅の電車はある程度時間を選べるが、朝はなかなかそうもいかない。
詰まる息を潜め、端の席でテキストを開いた。
文字を追い始めた視界の端に男物のローファーが映って、反射のように少し腰を浮かせて隣を空ける。

「ありがとう」

耳に心地好い声が降ってきて、会釈がてら顔をこっそり見ようとした。

(……!)

彼も、こちらを見ていた。
左右で色の違う猫っぽい目が緩められて、唇も弧を描く。
ばっちり、目が合ってしまったのだ。

(きれいな、顔…)

見ず知らずの人と見つめ合える程私の神経は太くなく、気恥ずかしさからばっと逸らしてしまう。

整った顔立ちをしていた。しかも彼の制服はあの洛山のもの。どんな混雑した高校生の群れの中であろうと、誰もが刷り込みの如く目を引かれる名門校だ。

急に居た堪れなくなってきた。
片や私は古臭い伝統を体現している公立校の制服をまとっているのだ。偏差値など、どれだけ見栄を張っても精々中の上。
姿勢よく座っている彼は洗練されたオーラを纏っていて、私は益々縮こまっていく。
そんなことをすればするほどみすぼらしいだけなのだが。

雑念を追い払ってテキストの英文に集中しようとする。

「そこの訳、間違っているよ」

「え?」
隣から人差し指が伸びてきて、ある一文を指した。
「修飾語を一つ忘れているようだ」
「え、え、あ、ここ…」
「そう」
指摘された箇所を自身の指で辿って確認する。本当だ、一語見落としていた。
慌てて書き込んで
「ありがとうございます」
と再度彼を見上げた。
「どう致しまして」
今度は、ちゃんと目を見ることが出来た。が、やはり会話は続かない。
なにか話さないと気まずい気がする。

「さすが、洛山の方ですね」

やっとそれだけ言うと、彼の方は首を傾げだ。
「そうかな。今のはたまたま気がついただけだよ」
気取らない物言いにほっとして、助かりました、と返す。
「ふと気になったんだ」
「?」

「きれいな字だと、見惚れていた」

「えっ…」
思いがけない褒めことばに動作がフリーズした。ありがとうございます、と言おうとしてどもってしまう。顔から火が出そうになって俯いた。

「君は、何処の学校なんだい?」
再び口を開いたのは、彼の方だった。
「府立第一です」
「そうか」
やはり洛山のような有名校とは違い、しがない公立高校は制服を見ても解らないものなのだろう。彼との差を改めて感じてなんとなく凹んでいると、
「関東から来たばかりでよく解らないんだが、府立第一はこの近くの学校?」
まるで思考をそのまま読まれたようだった。言われてみればイントネーションが違う。彼は先程から淀みない標準語で話している。驚きを隠せず、呆けた顔で「あと三駅先です」と答えた。
「覚えておくよ」
「?」
なにを覚えておくのか、他校のことなど覚えておく必要があるのかは疑問だが、はあ、と一応返事をする。彼が満足げに微笑んだ。
やがて電車は駅に滑り込む。
彼の降りる駅に着いてしまい、それでは、と腰を上げた。
「はい」
私は小さく手を振る。また、と付け足す勇気なんかなかった。

(私…なんでまた会えないかなとか思ってるんだろう)

「そういえば」
ふいに彼が降車際振り向く。
「今度うちのバスケ部が練習試合で第一にお邪魔するんだ」

また会えるといいね。

聞きそびれて名前も知らない人に、恋をするなんて不毛だ。
それでも。
(…解っていてやめられるなら顔なんか赤くならないよなぁ…)

私は彼の背中を、人込みに紛れて見えなくなるまで見つめていた。

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