また今年もこの季節がやってきた。
そして懲りずに、此処へ来てしまった。
残暑の厳しい湿度を孕んだ空気を吸い込むと、鼓膜の奥の方で彼のことばが再生された。
そう、これは恋だったのだ。



瞼の裏の夏


もう、あと一日で夏休みが終わろうとしている。つまり、長い練習漬けの日々も終わる。
いや、ハードなスケジュールも実際その最中にいては目まぐるしく、あっという間だったようにも思う。

(全部終わってるな…)
隙を見つけては熟した課題を確認し、机の上に揃えた。ふう、と息を吐いて目の前の窓から流れ込む夜風に目を閉じる。
蘇る記憶はまだ新しく、胸を刺す痛みも鮮明だ。
決勝リーグにも進めなかった。
私たち三年の夏の終わりは余りにも早すぎた。
けれど、落ち込んでばかりもいられない。気持ちは既に一丸となって冬に向かっている。
三年の選手のことを思うと溢れそうになる涙をぐっと堪えた。
私にも、まだ出来ることはある。
この夏で、またみんな成長した。あの一年生二人もこれから伸びるし、大坪くんたちも一段と逞しくなった。
冬こそは必ず秀徳が頂点に立つ。

(そうだよね、清志)

私は部内で後輩から最も恐れられるレギュラーメンバーの顔を思い浮かべた。
部活だけでなく、クラスも三年間一緒という誰よりも縁の強い存在であり、マネージャーとしては最も支え甲斐のある選手である。

彼のバスケへの姿勢が、堪らなくすきだった。非常にストイックで、心配になることもあったけれど。
彼は、高校最後の夏休みも当たり前のようにバスケに捧げた。
明日の休暇最終日は練習がなく、それが彼等に許された唯一の夏休みだ。
清志はどう過ごすのだろう。
所詮マネージャーが干渉出来ることではないが。

想い出は全てバスケ部の中にある。
近くで見つめすぎた。
敬意の“すき”を時間が歪めてしまったらしい。
(こんなの、恋だなんて思っちゃいけない)
もう寝よう。


翌日、なにをするでもなく私は一人街を歩いていた。
なにもせず家でゆっくりすごそうと思っていたのだが、何故か家にいられなかった。マネージャーといえど三年間部活で鍛えられた体力は伊達ではない。
とは言え月末の私に多少の贅沢も出来る余裕はなく、専らウィンドウショッピングだ。
午後をほぼそうして過ごし、もう帰ろうかと腕時計を見た。日は徐々に傾き始めている。ゆっくりと足を家の方角に向けて動かし始めた。

騒がしい市街を抜け、長くなる影を見つめながら帰路を行く。何処か遠くからチャイムがぼんやり響いてきて、ふと胸がぎゅっと詰まった。
(夏が、終わる)
本当に、終わってしまう。
今夏はピークが早く、暑さも駆け足で去るという。

(清志は、それでいいの?)

弱音一つ吐かず、悔いを一言たりとも口にしない。
痛みは無視出来るとでもいうかのように。
痛くない、はずがないのに。
そのまま、進んでいくの?

(私は、結局なんの力にもなれはしない)

心の内を明かしてもらうに足る、信頼関係など。

(きよ、し…)

私たちには。


酷く孤独に感じた。
立ち止まっていれば、アスファルトの熱が足の裏から私を焼く。
それでも、身体の芯は冷えていくような気がした。
バスケと切り離して考えてみたところで、僅かでも共に夏を惜しむことすら、叶わない。
あの角を曲がって帰宅すれば、いよいよ私の夏は終わるのだ。
私は再び歩き始めた―――そのとき、背後から私の足元まで伸びた動かない影に気付く。
「?」
不審に思って振り返ると、

「璃和」

「!」
清志の姿があった。
いつもより不機嫌そうに見える、険しい表情でコンビニ袋を携え立っている。
「清志!どうしたの、偶然だね」
駆け寄ると、彼はますます罰の悪そうな顔をした。
「あー、まあ、偶然だな」
「?」

「なあ、これからちょっと時間あるか」


出来れば、一緒に来てほしい。
そう言われてやってきたのは河川敷。
ちらほら人は見かけるが、二人で芝生に座って眺めていると、徐々に減っていく。
「ねえ」
「なんだよ」
「なんで河川敷。なにかあるの」
まあ座れよ、と自分が腰を下ろした隣を手で示され、大人しく従ったはいいがそれっきり。
「あー、まあ、ちょっとな」
暴言がぽんぽん飛び出す彼にしては、今日は異様に歯切れが悪い。
「大坪くんたちでも来るの」
他の誰かを待っているのだろうか。
「来ねえよ。俺と璃和だけだ」
その問いにだけ、はっきりと答えが帰ってくる。
「そ、そう」
俺と璃和だけ、という一言に心臓が跳ねた。そういうことを言われると、期待してしまうのが解らないのだろうか。
(…解らないんだろうな)
他の誰でもなく、私になにか用があるのだと。
この時間を過ごすのに、私を選んだのだと。

辺りがそろそろ暗くなってきた。
右を向けばオレンジを空の縁に追いやる紫、左を向けば頭上を覆い始めた濃紺。
「ねえ、本当になんなの」
「あー…もういいか」
「なにが」
がさがさとそちら側に置いていたコンビニ袋を漁り、
「これ」
「は、花火?」
「おー」
少人数用の手持ち花火の小さなセットを取り出した。
呆気に取られる私の横で、清志はそれを開封していく。
「まさか、これの為に?」

「悪いかよ」

付属の蝋燭を傍に落ちていた石で支えて立て、花火を一本私に差し出した。
未だ戸惑いながらそれを受け取ると、清志は蝋燭にマッチで火を点ける。
「合宿でやったじゃない」
「あんときはバスケ部で…っつーか、花火が一夏に一回って誰が決めたんだよ」
あんなに楽しんでた癖に。
「いいから点けろよ。言っとくけどな、これ探すのすげえ苦労したんだぞ」
何処も売り切れで、と私を睨んだ。
花火を探して店を梯する清志の姿を想像して、笑ってしまった。
「なんだよ」
「なんでも。ありがとう」

ごちゃごちゃ考えるのはなしだ。
夏休みを、楽しもう。


話しながら、ゆっくり火を点してもあっという間に花火はなくなっていく。
刹那闇に浮かび上がる清志の顔は、煙に霞んでいたけれど穏やかに笑っていた。
珍しいものだ。
私は一瞬一瞬を胸に深く刻んだ。
それと同時に安心していた。暗くてよかった。日光の下では、この赤みは隠せない。

残りは、線香花火だけとなった。
清志が、それを開封するのを待つ。
最初と同じように手渡され、受け取った。
「ありがとう」
火薬に点火したのを確認し、ゆっくりと身体の正面に持ってくる。
清志は何故か、自分の花火に火を点けない。
「清志?」

「なあ璃和、ありがとうな」

「へっ」
予期せぬ言葉に身体が跳ね、火が落ちてしまった。
「ああっ」
まだ中盤だったのに。
「驚きすぎだろ」
「だって、清志がいきなり」
蝋燭の頼りない光を頼って、清志を見上げる。
至極落ち着いた顔で、私を見ていた。
「変なことを言うから」と出かかったことばの続きを飲み込んでしまう。
「礼言っちゃ悪いのかよ」
「ううん…」
首を横に振って、視線を蝋燭に反らした。

「あと、悪かった」

「え、なにが」
「インターハイ。優勝どころか、連れていってもやれなくて」
清志が、部活以外で今夏の大会について口にするのは初めてだ。少なくとも私には。敗退後の反省会以来、触れてこなかった。
彼は一旦口をつぐみ、私に新しい花火を渡してくる。自分も一本手にして、先端を蝋燭の上に翳した。
「バスケは、誰の為にやってた訳でもねえ。秀徳の勝利の為、自分自身の為にやってきた」
清志のことばに神経を研ぎ澄ませながら、ぼうと私も花火に火を点ける。
「それでも、誠凜に負けたとき―――真っ先に璃和に申し訳ねえって思ったんだ」
そんなことばは聞きたくない。
「やめて」
首を横に振った。
「いいから聞け」
「そんなこと、私に謝る必要なんてない」
弱音を吐いたっていい。でも、周りの誰かを気にすることなんかない。
「泣くな」
「だって」
清志は、前だけ見ていればいい。
ちょっと疲れたときだけ、頼ってくれたらいいのだ。
「だから」
最後まで、言わせてはもらえなかった。

「約束しにきたんだ。もう一回、これが最後だ。冬は絶対、負けねえ」

「清、志…」

「璃和、あともうちょっとだけ、頼むわ」
ぼろぼろと涙が溢れ、ぼやけた火はやはり燃え尽きることなく震える手元から落ちてしまった。

「下手くそだな」

一方の彼はその寿命を全うさせ、残った手持ち部分を私に見せて笑った。

「ったく、貴重な最後の花火だからな。有り難く丁寧にやれよ」
「じゃあ清志やんなよ」
譲ろうとしたが、彼は私にその最後の一本を託した。
ゆっくり、ゆっくり、それを蝋燭の上に垂らした。
「緊張する」
涙声で戯けてみせると、
「大丈夫だよ」
花火を持つ私の手に、自分の大きなそれを重ねてきた。
「清志、えっと」
「大丈夫だ。ふたりでやれば」

清志、清志、だいすき。
約束守ってね。
私も、全力で支えるから。




その冬、私たち秀徳バスケ部はウィンターカップで三位に留まった。
優勝は逃した。しかしそれは、精一杯戦った結果―――清志はもう、謝らなかった。
後輩達に全国制覇を託し三年生は引退、進学の為に道を分かち散った。

それは、私と清志とて例外ではなかった。
私は地元の大学に進学し、清志は遠方に進学、実家を出た。
この三年程会っていない。忙しく充実していると人伝に聞いている。それならなによりだ。
別に、直接連絡を取り合っていなくても。(普通だ、付き合っている訳でもないのだから)

結局、私は卒業までに想いの一片も伝えることが出来なかった。
その未練に、毎年こうして一人火を点しにくるのだ。
最後の線香花火が弾け始め、薄く上がる煙の中に清志のあの日の穏やかな笑顔が見えた。
(だめだなあ…何年経っても)
思い出してしまう。
あの気持ちを。

燃え尽きて落ちた火の粒を消えるまで見届け、花火の残骸を集め始めた。
清志は、もうこの街にはいない。
私も、いい加減歩き出さなければ。

ゆっくりと立ち上がり、顔を上げた。
「え……」
その視線の先に、いるはずのない人物の姿。思わず声が漏れる。

「璃和」

「き、きよし…?」
本物だ。幻覚ではない。
薄暗い街灯に浮かび上がるこの背丈を、誰とも間違えるはずがない。
彼は一段と大人びた声で、私の名前を確かに呼んだ。
「どうして、ここに」
喉が震える。
対照的に、清志は相変わらずの調子で
「夏休みなんだから、実家に帰省くらいするだろ」
と答えたのだった。
「そうだけど、そうじゃなくて」
この場所で、もう会うことなんてないと思っていた。
なにを話せばいいのだろう。
なにから伝えればいいのだろう。
歩み寄ってくる清志を前に、口を開きかけては閉じてを数回繰り返す。

ああ、高校生のときは、
(これくらいの距離だった)
私はいつも彼の隣に並ぼうとして、必死に見上げていた。

お互いに、ことばが出ない。
そうやって三年前も、清志は目を泳がせていた。

突如、ひゅうと甲高い風の音が夜空を切り裂く。
そして、数秒遅れて全身に響く破裂音。

首を捻れば、遠くで空高く打ち上げ花火が煌めいた。
その一発目を皮切りに、次々大玉が花開く。

「今日、花火大会だったのか」
清志が呟いた。
「これ…先週雨で延期になってた…」
隣の区のものだ。
「そうか」
私もすっかり忘れていた。
「今年も最後の花火だな」
鮮やかに照らされた横顔は、あの日と同じ穏やかな笑みを浮かべている。
「うん」
清志は、とっくに歩き出しているのだろう。そんなことを思っていると、ぽつりと零した。
「毎年、大学のやつらと花火見に行ったり、大坪達と会ったりすることもある。緑間や高尾もだ」
そうなんだ、と努めて冷静に相槌を打つ。

「でも、お前だけいないんだ」

「…私?」
「それがしっくり来ねえとも思うし、ほっとしたりもする―――どっちにしろ、逃げ続けるのはもう限界だ」
清志は、私を見下ろした。
「強がってねえで、伝えときゃよかったって、ずっと思ってた」
苦しそうな、顔をして。

「すきだった。どうしても会いたかった。何年経っても、この先も多分思い出しちまう。だから、今日ここに来ていなかったら諦めるつもりだった」

手にしていたコンビニ袋が指から滑り落ちる。
「ここにいるよ…毎年来てたよ馬鹿清志!」
あの冬以来の、大粒の涙が溢れてきた。
「悪かった」
清志に、抱き締められたのだと解ったときには、声を上げて泣いていた。

「待っててくれて、ありがとうな」





最後の花火が終わったら、私たちはきっと変われる

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