他人の心音というものが、昔から嫌いだった。


似た者同士で


人が一生の間に打つ鼓動の回数は、凡そ二十億回と言われている。
つまり、一回鳴る毎に確実に心臓は停止へ向かっている。要するに拍動は死へのカウントダウンなのだ。
二十億というと途方のない数字のように感じるが、果たしてそうだろうか。
哺乳類であれば、一回の呼吸で四回心臓が脈を打っているのはどの種も同じらしい。ゆっくり深呼吸をしても四回、息が上がっても四回。いくらゼロが九つ並ぶといっても、なんてことない数ではないだろうか。

私はそれが酷く恐ろしかった。
この人の鼓動は今一体何回目なのだろう、次で最後ではなかろうか、この呼吸の直後に心臓が止まりやしないだろうか、幼い頃から得体の知れない数字に怯えていた。
そんなことを幼い子供が考えている方が余程気持ち悪いのだが、当時の私は真剣だった。人の心臓の音を聞くと安心するなんて人もいるけれど、とんでもない話である。ぐずれば抱き締めてくれる温かい母の腕の中も、心音が響けばそこは恐ろしくて落ち着かない暗闇でしかなかった。
見たくも聞きたくもないものからは意識を逸らす。
知らなければいいと思うものは、知らないようにする。

元々臆病故に敏感であった防衛本能は、あのときから更に拍車がかかった。
知りたくなかったことを知ってしまったあの日から―――。


高校二年生のとき、私は夏の終わりに部活の後輩に告白をした。
私はマネージャーで、彼はレギュラー選手だった。陽泉バスケ部といえば全国屈指の強豪校、そこで一年生にして一軍どころかレギュラーであった彼は、ただの高校生ではない。あのキセキの世代の一人だった。
バスケに秀でているというだけで私にとっては魅力的だった。が、バスケの才が飛び抜けている分それ以外のことには抜けていて、為人は身体だけ大きな子供のようだった。しかし盲目になっていた私は、彼のそんなところにさえ惹かれた。
可愛らしいし、世話を焼きたくなる。彼から頼られればそれだけで嬉しかった。
釣り合わないことなどわかっていたが、晩夏の空気に当てられたのか私は彼に好きだと告げた。受け入れてもらえるとは到底思えない無謀な恋のつもりだった。
今思えば相当な無茶をしたものだ。
振られてしまえばその後の部活動が気まずくなるというのに。否、彼はどうかわからない。少なくとも私は、というべきか。

それはさておき、彼の返事はまさかの肯定。
めでたくお付き合いに発展した。
傍目には私たちの様子があまり変わったようには見えなかったと言われた。けれど私は構わなかった。私の好意を知ってもらい、受け入れられたのだ。
嬉しくて嬉しくて、彼への想いは付き合ってからも膨らみ続けた。

文字通り、私は彼に全てを尽くし、捧げた。
逆らわず、彼のどんな面も我が儘も受け入れた。
依存していたと言っていい。私には彼が全てだったのだ。

しかし、やがて私たちには他の誰とも等しく節目がやってくる。
部活動引退、進路志望、そして迫る卒業。
何度も考えた。私たちが同い年であったなら、問題はもう少しフラットだったのだろうかと。
意味のない自問自答を繰り返しては、現実から目を逸らしていた。
本当は、彼に相談したかった。
進学先を決めかねている私の背を押してほしかった。
元々東京から来ている彼は卒業後どうするつもりなのか、漠然とでも知りたかった。秋田に残るのか、東京に戻るのか。いずれにせよ私は期待していたのだ。
「卒業後も秋田にいるから璃和ちんもこっちで進学しなよ」とか、「一年後に東京戻るから璃和ちん先に行って待ってて」とか。
そんなこと彼が言うはずがないのに、心の何処かで期待してしまっていた。
彼のバスケはまだまだこれからだというのに、進路のことなど考えている訳がないのだ。
引退以降スケジュールがすれ違いがちになり、そもそもゆっくり話す時間もとれていなかった。

いや、違う。そんなのは建前だ。

解っていた。
彼は私の進路になど関心はない。
私が彼にしているほど、執着もされていない。
彼からなにかを訊ねられたこともなかったのだ。
私からそんな話を持ち掛けようものなら、隠しもせず面倒がるだろう。
「俺には関係ないし」
の一言で一蹴だ。
その冷たい目を向けられるのが怖くて、会っても他愛ないやり取りだけで凌いでいた。

「どうしようかなあ、進路」
なかなか提出できないプリントをちらちら視界に入れながら、その日私はクラスメイトとお昼を食べていた。
「まだ出してないのか」
「決まらない…決まらないのよ…」
「進学するんだろ」
「まあ、進学は進学なんだけどね。辰也はどうなの」
どうせバスケの実績もあるから大して迷いはないだろうけど。辰也も、この陽泉でレギュラー選手として華やかにバスケ部で活躍したのだ。帰国子女の彼には英語力もあるし、帰国子女枠だって使えば尚容易に進路を決められるはず。
二年の途中から転入してきたとは思えないほど既に順応しているのだから、辰也の視界はクリアーに違いない。
「うーん…二択かな」
意外や意外、彼は苦笑を浮かべた。
「えっ、なにに迷ってるの」
「留学。もういっそ向こうの大学に行くか、日本の大学に入ってアメリカでインターンだけするか。どっちにしても一度は向こうに行くつもりなんだけど」
「……へえ」
なんだ、もうそこまで決まってんじゃん。
「璃和は?」
「県内か県外か…」
再び問われてぼそぼそと下を向きながら答えると、辰也は核心を突いてくる。
「アツシだろ」
「笑うな」
持ち上がった彼の口角を箸で指すと、また品のいい苦笑。
「ごめんごめん。話したりしてないのかい」
「うん。ちょっとね」
私がことばを濁すと、辰也は目を丸くする。
「どうして」
「いや、まあ、なんとなく」
相談しても私の求める答えは返ってこない。その現実を真正面から受け止める勇気が、私にはなかった。
「恋人だろ?」
さらりと、不思議そうに彼は“恋人”という単語を口にする。
「えっ」
これには私の方が驚いてしまった。
「もう付き合って二年も経つんだ。それくらい話せばいいじゃないか」
目から鱗とはまさにこのこと。あまりにも当たり前そうに辰也がいうものだから、「そうなのか」と私は納得してしまった。
(話して、みようかな)

その日の放課後、私は図書館で時間を潰し敦くんを待った。
部活が終わった頃に体育館へ足を運び、その姿を探す。
「お疲れ様、敦くん」
「璃和ちん」
少し話がしたい、といえば彼はいいよと欠伸をしながら頷いてくれた。
そして早速「進学先のことで悩んでるんだけど」と切り出す。
「敦くんは、卒業したら東京戻る?だったら私も―――」
東京の大学行こうかな、と続けようとした。すると、彼はそれを遮った。
「あのさあ」
はっきりとした冷たい声色に、私の心臓はびくりと反応した。
「俺が東京戻るって言ったら璃和ちんもそうするの?俺が璃和ちんの進路左右する訳?」
温度のない目で見下ろされ、私は呆然とした。ことばが、声が、出ない。
(敦くん…?)
想定していたけれど目を背けていた事実が、今まさに起ころうとしているらしかった。
「ていうか、東京までついてこられるとかマジ勘弁してほしいんだけど」
突き刺さる敦くんのことば。
それが本音?面倒だって、重たいって、ずっとそう思ってたの?私のこと、ずっと鬱陶しかったの?
「もう潮時じゃないかと思うんだよねー」
「別れるって、こと?」
喉から絞り出した声は細く震えていたけれど、彼はしっかり聞き取っていた。人を威圧すら出来る笑みを湛え、「そうだね」と頷く。
どうしてそんなに簡単に、世間話みたいに、私たちの二年間は片付けられてしまうの。
「敦くん…私のこと嫌いになった…?」
いつから、何処で亀裂が入ったの。
「別に嫌いじゃねえし。すきでもないけど」
敦くんは立ち上がって鞄を肩にかける。

「室ちんが璃和ちんのことすきだったから付き合ってただけ」

訳のわからないことを言い残して、彼は去っていった。



(また、あのときの夢…)
折角の日曜日の朝だというのに、寝覚めは最悪だ。
あの日、私はいつまで経ってもそこから動けなかった。記憶も曖昧だ。覚えているのは、辰也が迎えに来てくれてなんとか帰宅したらしいこと。
彼がどんな顔をしていたのかすら覚えていない。
(一体、何年経ったというの)
のそりと身体を起こすと、ベッドについた手をそっと握られた。
「璃和、どうしたんだい」
「ごめんね、起こした?」
視線を落とすと、微睡みから覚めきらない辰也の控えめな灰色の眼差し。
「悪い夢でも見た?」
私のことを、私よりも知っている優しい目。
「大丈夫よ」
私がなにも答えなくても、問い詰めたりしない。握ったままの手を引いて、彼はそっとベッドの中へ私の身体を沈めた。
「そう。なら、まだ寝てていい」
「たつ、や…」
伝わる辰也の心音に眠気を奪われながら、背後に忍び寄る黒い靄を振り払う。辰也の想いを踏み躙っていると知っていながら、私はここを自分の居場所に決めた。

恐怖にはより大きな恐怖を、痛みにはより強い痛みを、と。
敦くんに未練がある訳ではない。
あれ以降、異性を信じることが嫌になったのだ。億劫で馬鹿馬鹿しくも感じられるし、虚しくも思う。
辰也がどんなに優しくても、私はそれを信用しない。
(もう、あんな思いは二度としたくないもの)
酷い、酷い、私。
辰也は気付かない振りをしているだけで、全てお見通しに決まっている。何年も前のトラウマに脅かされ、自分の腕の中の恋人は自分をこれっぽっちも信じていない。
こんな不幸があるだろうか。
信じれば裏切られると疑って止まない私を、愛し続ける意味なんてないのに。


罪を数える鼓動


今は、辰也の心臓の音が一番怖い。




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