「またここにいたのか、璃和」
カラカラと軽い音が背後から聞こえて、
「由孝」
彼が顔を出した。
「おばさんが心配してるぞ」


天使のいるベランダ


後ろ手にガラス戸を閉めて、こちらへやってくる。
「うん」
でも、もうちょっとここにいたいの。
そう首だけで振り返って答えると、由孝は眉尻を下げた。
困らせてごめん。
まだ少し、風に当たっていたかった。ここから動かないでいると、由孝は私の座っている椅子の横で胡座をかいた。
「困ってるんじゃないさ」
私よりずっと下の視線になって、椅子に軽く凭れてくる。
「心配してるんだよ、俺も」
こちらを見上げ、目を細めた。
「……ありがとう」
なにも、心配されることなどないのに。
母も、由孝も、大袈裟だ。


私が陸上部を辞めたのは一週間前。
ジュニア時代から長距離をやってきて、遂に脛が壊れたのだった。本当は、もうずっと前から不快感や痛みはあった。しかし、あと少しあと少しと思いながら続けていた。やがて、ベッドから起きるときにまで疼痛を伴うようになった。それでも、誰にも相談せず練習を続けた。
結果、疲労骨折。
つまりはオーバーユース。シンスプリントを放置した結果だった。選手には決して珍しくはない。医師には散々怒られたけれど。
多分、シーズン前のコンディショニングから悪化していたと思う。春先に新入部員と合同で行ったときから、症状が急速に進んでいた。
そうして、私は高校最後の大会前に退部届を顧問に提出した。


届が受理された後にそれを知った由孝は、酷く取り乱していた。私が淡々としていたから、余計にそう見えたのかもしれない。
「璃和、どうして辞めてしまうんだ。脚の治療は受けるんだろ?治るんだろ?」
私は目を伏せて首を横に振った。確かに、治療法についてはきっちり医師から説明を受けたし奨められた。けれど、そんな長ったらしい話などろくに聞いておらず既に忘れた。それに、どちらにせよ大会には間に合わないし、もう復帰はしない。意味がないのだ。
「あんなに、きれいに走っていたのに」
やはり私はそれを否定した。何故か彼の方が泣きそうだったのを、やけに鮮明に覚えている。

「もう、辞めたいの」

同じアスリートとして、由孝は深く同情してくれていたのだろう。その想いに応えられず、目を合わせられなかった。
「…そうか」
初めて聴く、暗く沈んだその声に。


由孝だけではない、母や顧問にも慰留された。
「治療費のことなんて気にしなくていいのよ」
「正しく治療すれば復帰出来る。参宮なら大学でも活躍出来るぞ」
そう言われる程私は頑なになる一方で、最近は鎬を削った部員たちとも顔さえ合わせない。彼女たちを応援していない訳ではなく、勝手に頑張るからそうしていればいいと思うだけのこと。私なんかより、余程真面目なのだから。
(ああ、これを薄情というのか)
中学の顧問に勧められ海常まで来たが、全く惜しくない。
先日、シューズも練習着も捨てたところだ。
過去の栄光も煩わしかったが、勘の鋭い母は賞状やトロフィーの処分を恐れ、先にそれらを何処かへ避難させてしまった。


「璃和、身体冷えないか」
「まだ大丈夫」
ギプスの巻かれた左脚の爪先が冷たくなってきたが、気にせず夜空を見上げる。
やはり、都会は星が見えなくてつまらない。
街明かりの少ない田舎であれば、絶好の天体観測日和だったろうに。
「星、見に行きたいな」
遥か昔の記憶を思い起こし、呟いた。
「星?」
「そう。芝生に寝そべって、見てみたいの。そのまま寝ちゃっても風邪引かないくらいの時期がいいな」
決して人工では作り出せない、月や星で明るい景色を見てみたい。幼い頃に見た脳裏の映像では古すぎて、所々ぼやけるのだ。
「いいな、それ」
「でしょ」
でも、暇になった私と違って由孝は今からが正念場だ。まだまだ見に行ける日は遠いだろう。
(いつかでいいんだ、いつかで)
彼と誰もいない丘で星を眺める、そんなドラマのようなシーンを思い浮かべた。寝転んで、星座を指差すのだ。
(なんてね)
もしかしたら、由孝より私の方がずっとロマンチストかも知れない。
「なに笑ってるんだ、璃和」
「んーん、別に」
私は緩んだ頬を隠さずはぐらかした。


「なあ璃和、ちょっと立てるか」
徐に由孝が私の前に立つ。
「ん?うん」
差し出された両手の意図を理解して、掴まった。
「気をつけて」
「ありがとう」
立ったところでどうするのかと思えば、彼がその椅子に座る。そして、「おいで」と腰を引かれた。
「わっ、ちょっと、重いから!」
由孝の膝の上に横向きに座る形になる。よく解らないけど、身体の負担になりそうだしよくないと思う。下りようと身を捩るが離して貰えない。
「こんな細っこいのに、重い訳ないだろ」
曰く、三年間鍛えた身体を舐めるなと。
「脂肪より筋肉の方が重いんだもん」
ぼそりと言ってやったが、「はいはい」と笑ってあしらわれた。
「璃和」
「なに」

「少しだけ、陸上の話してもいいか」

ついさっきとは打って変わって、静かな声色に私は僅かに身を固くする。
「いいよ」


「俺、怒ってる訳じゃないんだよ。怪我隠してたことも、陸上辞めることも」
「…うん」
それは、知ってる。
母も顧問も、最初はまず声を荒げた。だけど由孝は、当初から現在に至るまで私を一度も詰ったり叱責したりしていない。
「ただ、気付いてやれなくて、ごめんな」
優しい、優し過ぎる。
彼になら、怒られてもよかったのに。「どうして自分にすら言ってくれなかったのか」と。
彼はバスケの試合会場でもかわいい女の子がいるとよく目移りするようなところがあるが、本当はとても思慮深い。怒鳴りたいのを理性で制し、私を、私の選択を受け入れてくれた。
強く、私を想ってくれている。
「ううん。私の方こそ、ごめん」
そんなことくらい、解っていたのに。
私は、本来であれば由孝に責められるべきなのだ。
今更、どうして私が泣くのか。
走るのなんて、苦しいだけ。別に好きではなかった。
父の遺伝というだけで、走ってきた。そこに主体性など存在しなかった。
私から陸上がなくなり部屋は一気に殺風景になったが、別にどうとも思わない。
なのに、どうして。

こんなにも、なにが虚しいのか。
こんなにも、なにを恐れるのか。


「参宮さんの走ってるとこ、いいよね!」
由孝に初めて声をかけられたとき、彼はそう言った。
その軽いノリが良かったのかも知れない、躱しやすくて。だけど日増しに彼は本気で、走りがきれいだの努力家だのと宣うようになった。
本気でバスケに取り組んでいる彼と私では、本質から異なる。由孝は、責任感を持って海常スタメンを務めているのだから。
過大評価が、ずっと恥ずかしかった。
それを、あるとき遂に打ち明けた。
もうそれをやめて欲しいと、はっきりと。
するとあろうことか、彼は諸手放しで喜んだ。
「初めて参宮さんに褒められた」と。
どういう頭の作りをしているのか、何故そこに着目してしまったのか、今でも不可解である。
けれど、私はそのとき自覚した。

私の方こそ、ずっと彼に憧れていたのだ。

「俺は璃和が応援してくれてるだけで頑張れたし、練習が辛くてもスタメン守る為に努力出来た」
それも、知ってる。由孝はバスケに関しては絶対的に純粋だ。
「でも、璃和はそうじゃなかったのか?」
不安そうに、彼はまた私を見上げた。
「そんな訳ないじゃない」
由孝は、そのままでいてくれたらいい。ずっと、ずっと、私の憧れで居続けてくれたら、それでいい。
「大事な彼女が痛みに耐えてるときに、俺はどうすることも出来ないのが」
言葉の途中で、私は彼の頬を抓った。
「ひひゃい」
そのままでいい。
こんな自業自得の怪我の為に、特別なにかをしてもらおうだなんてそんな馬鹿な話はない。

この脚は陸上の為に、陸上を辞める為に、何年もかけて壊したのだ。

「言ったでしょ、未練なんてないって」
「だったらなんで、なんで」
由孝は納得が行かないと私の腕を支える手に力を込めた。

「そんなに、塞ぎ込んでるんだよ」

だから、こんなのは勝手すぎる。
自らの意志で、走りを捨てた癖に。
「ねえ、由孝」
私が亡くなった父の指導で陸上を始めたことは話したよね、と問うと彼は頷く。
「厳しくて、厳しくて、頑張っても褒められることなんかなくてさ。楽しくなかったの」
言われるがまま走り、いつも「結果を出さなければ酷く怒られる」ことに怯えていた。優勝しても達成感などなく、「怒られずに済む」ことに安心していた。
「父が亡くなってからも続けてたことには、特に理由はないの。あのとき辞めればよかったんだけど」
指導者を失い、向かう先などなくなったあのときに。
でもまだ幼かった私はその習慣から抜け出すことが出来ず、周りから誤解を受けた。別に父の遺志など継いでいない。あの人とは、父親と思えるような関係を築いていなかったのだから。
だけどこのまま走り続けて、もし身体を消耗しきれたら。

自由に、何処へなりとも行ける気がした。

「父には陸上が嫌いだなんて口が裂けても言えなかったから、その当て付けだったのかも」
貴方に教わって、楽しいことなど一つもなかったと。
私は、なにか選択肢が欲しかった。
自分で、選んでみたかった。
「こんな私で、ごめん」
由孝が、黙って私の頭を撫でる。
「でも、由孝が褒めてくれたから…陸上やっててよかったよ、少しは」
尊敬する彼に認められて。

「嬉しかったなあ…!」

由孝にかけられたことばの数々を思い出すと、堰を切ったようにぼろぼろと涙が溢れ出した。どんな痛みがあっても、怪我をしてからも、こんなに泣いたことなどなかったのに。
競技に思い残したことなど一片もない。
それは確かだ。
だけど。

「もう、由孝に褒めてもらえなくなるんだね」

そう、私はそれを恐れていた。
自由を得るために壊した身体は、陸上しかやってこなかったこの身体は、空っぽだったのだ。由孝が満たしてくれていた私は、その器をなくした。

「それが、それだけが、辛いよ」

陸上をがむしゃらにやっている間は、彼と並べている気がしていた。
ぐすぐすと洟を啜り、しゃくり上げる。
涙は止まることなく頬を流れ続け、服にも滴った。視界が滲んで、目も開けられなくなる。

「バカ璃和」

ぐい、と抱き寄せられて更に体温が密着した。私は由孝の首に腕を回して顔を埋める。
「走ってる璃和もすきだったけど、陸上やってるから璃和をすきになったんじゃないからな」
「うん…うん…」
頭では解ってるつもりだ。
でも、でも。
「でももだってもなし。それにほら…今も役得だなあっていうか、弱ってる璃和も可愛いなあっていうか」
不謹慎で俺の方こそごめん、と彼は私の背中を摩った。

「怪我が治ったらさ」

「うん」
由孝の掌の熱を背中で感じながら、小さく頷く。
「璃和のこの部屋を目一杯飾ろう。かわいいものいっぱい買って、違う部屋みたいにしよう」
「…はい?」
予想だにしなかった提案に、思わず間抜けな声が出た。確かにシェルフは空っぽ、壁もまっさらになってしまっているけれど。
「髪も伸ばしてみたらどうだ?いつも肩で切り揃えてるけど、ロングも似合うと思うんだよ」
「なに、いきなり」
腕の力を緩めると、彼も軽く抱擁を解いた。にこにこと楽しそうに語るが、何故いきなりそんな話になったのか。
「括れるくらいに伸びたら、リボンをプレゼントするよ」
「どうしたの、由孝」
そんな恥ずかしいこと、していらない。リボンの髪飾りなんて柄じゃない。
「ネックレスも、付けてももう邪魔にはならないんじゃないか?」
確かに、今までろくすっぽおしゃれなんてしたことはなかった。しかしそんなことを突然始めるのは、気後れしてしまう。
「難しく考えることはないさ」
なんでも、すきなようにしたらいいと。
「でも、プレゼントはやっぱりちょっと。もっとこう…」
休みの日に、ゆっくり過ごすとか、一緒にDVDを見たりお菓子を食べたりとか、そんなことでいい。
途切れ途切れに伝えると、
「すぐには無理だろうけど、必ず全部しよう」
今まではお互いが忙しかったからな、と迷いもなく由孝が断言した。
「いいの?」
「勿論」
俺がしたいんだよ、なんて。
甘ったるく感じる程に滑らかな返答が、私の心に落ちてきた。


どんな君でも、すきだと伝え続ける為に


君の為に、出来ることをするだけ。


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