私の一日限りの非日常が始まったのは、今朝。
いつもより慌ただしい両親の様子に、私はテーブルに着いたまま尋ねた。
「お母さんたち、どうしたの」


悪知恵の実


「えー!璃和んち今日親いないの!」
いいなあ、と友人は歯噛みする。
「それならそうと早く言ってよね、お泊りセット持ってきたのに!」
もう一人の友人からも詰られた。

そう、今夜私の家は両親が不在だ。理由は、父方の実家にある。祖母が昨日転倒して脚を骨折したというのだ。祖父は家事炊事の出来ない古風な人間の為、二人揃って様子を見に行くこととなった。場合によっては母は数日向こうに留まるだろうが、仕事の都合上父は取り敢えず一日の滞在となる。つまり、今夜は確実に家に私は一人だ。
故に友人たちは騒いでいた。
親が一晩家にいない自由とは、高校生の私たちにとっては神様から賜りものに等しい。しかし、黙っていたのには訳がある。
ごめんごめんと宥めるが、どのみち人は呼べないのだ。
何故なら。


「夜一人なの?やった!」
と当初私は当たり前に喜んだ。
けれど夢は瞬時に打ち崩される。
「そんな訳ないでしょ、危ないんだから」
母の溜め息に、
「は!?そんな訳あるでしょ!もう高一なんだから!」
テーブルを叩きそうになる手をなんとか制し、すかさず反論した。二人ともいなくなるのに私を一人にさせないというのは、まずどう考えても成り立たない。

「翔一くんが来てくれるわ」


(そんな馬鹿な)
今吉翔一、桐皇学園に通う二つ上の従兄弟だ。
なにが「翔一くんなら、しっかりしてるし安心でしょう。ついでに勉強も見てもらいなさい」だ。
馬鹿げてる。
二つしか、違わない。いくら妖怪じみているとは言え、彼とて高校生だ。母が得意げにするものだから、なにを言い出すかと思えば。誰か呼ぶにしても、他に伝手はなかったのか。
頭がいいのは、認めるけれど。
よりによって何故彼に白羽の矢を立ててしまったのだ、私の両親は。
(別に仲悪い訳じゃないけどさ)

別に嫌いではない、別に。

翔一くんは、昔から会えばよく構ってくれた。一人っ子だった私は兄のように思っていたし、他にも慕っているいとこたちはいる。
その中で、参宮家と今吉家が特に親しかったのは、たまたま近くに住んでいたからというだけだった。加えて中学校まで同じとなれば、尚のこと距離は近かった。

(でも中学以降ちょっとなあ…)
避けている訳ではない。
ただ近寄り難い。
高校はさすがに別だし、翔一くんも急激に成績を伸ばしているバスケ部の主将になり忙しいからそうは会わなくなった。
そして、気にしなくなっていたこのタイミングで。

一晩とはいえ二人きりだなんて。
いくらなんでも信用しすぎじゃないのか。


「わざわざ気を遣ってられるか!」
私は小粒の氷ががらがらと音を鳴らす紙カップを掲げた。
「よく解んないけど、そうだそうだ!」
友人二人も乗ってくる。
「今日は自由だ!」
「そうだそうだ!」
そしてアイスティーをストローからずずっと啜った。お行儀悪い。
普段ならば、連絡なしにこの時間までほっつき歩いているとしつこく母から着信がある。だが今日は当然ない。どうせ翔一くんも遅くまで部活だろうから、と友人たちとマジバに来ていた。
彼も部活が終わったら連絡の一つくらい寄越すだろう。

「そらええな。混ぜてもらおか」

手からカップが落ちた。
「ひっ」
後ろから聞こえた耳に馴染みのある関西弁と、肩に置かれた大きな手。
向かいに座った友人たちが私の背後にいる人物を見上げる。
「しょ、しょういちくん…」
「と言いたいところやけど、さすがに女の子三人の中には混じれへんなあ」
にこにこと人当たりの良い笑みを浮かべたまま、彼は二人に言った。

「この子だけもろてくわ」

腕を捕まれ強制連行、私は薄情な友人達に手を振って見送られた。


何度か離してと喚いてみたものの聞き入れられず、結局解放されたのは自宅の玄関前だった。
「鍵開けてえな」
「送ってもらうだけ、に出来ないかな」
鍵を鞄から出して翔一くんに見せる。
「出来る訳あらへんやろ」
「あっ」
それを素早く手中から奪われ、ドアを開けられてしまった。
「璃和のお守りの為に、部活も早う切り上げてきてんで」
靴を脱いで、私より先に家に上がっていく。
(私の“お守り”…)
見慣れない制服姿の背中をぼんやり見つめながら、そう心のなかで反復してみた。ずきんと痛む胸をぎゅっと押さえて、固く目を瞑る。
(大丈夫、なんともない)


「翔一くん先にお風呂入ってきて」
もう夜もいい時間だし、夕食は簡単に済ませたい。
「ええんか?」
「いいよ。その代わり私カレーしか作れないから」
翔一くんを脱衣所に押し込み、私も制服から着替えてキッチンに立った。エプロンの紐をきつめに結んで気合いを入れる。
彼が食べ盛りだとしても、二人分だと量が少なくていいからすぐ作れそうだ。
人参も玉葱もじゃが芋も、適当にざくざくと切って鍋に放り込んだ。それらを煮ながらサラダを拵えた。とは言えこれは切っただけの生野菜を大皿に持っただけ。
カレールーを加えるまで、まだ少し時間がある。
しかし、
「おおきになあ」
翔一くんがそれより先にお風呂から上がってしまった。
「ごめんまだ出来てない」
「ええよええよ。作ってもらう側やでな。文句なんか言わへんよ」
首にかけたバスタオルで眼鏡を拭きながら、彼がカウンターキッチンを覗き込む。よく解らないメーカーのジャージを着ているが、そういえばこんなラフな翔一くんを見るのは初めてかもしれない。
(変なの)
おかしな感じもするし。
そんな心中を読まれたのか、
「璃和は可愛い格好しとんな、そのエプロン」
さらっとそんなことを言った。
「お世辞はいいから。宿題でもやってたら」
コップにお茶を注いで渡し、追い返した。
「お世辞やあらへんのに」
それを受け取ると、翔一くんはリビングのソファに腰を下ろす。鞄を開けてテーブルにテキストやノートを広げ始めた。

多分、本人の言った通り先程の「かわいい」はお世辞ではない。女の子に言う「かわいい」ではないだけだ。
私は、いつまで経っても彼にとっては妹のような存在まま。小さい子に言うような、「かわいい」なのだ。
私のほしいことばでは、ない。


慌てて作ったカレーだが、なんとか完成した。お皿に盛って全てテーブルに並べると、それらしい夕食に見える。
「翔一くん、出来たよ」
「おおきに、美味そうやん」
リビングの彼を呼べばペンを置いてこちらへやって来、椅子に着くと律儀にも手を合わせて食べ始めた。
「ワシのことお兄ちゃんお兄ちゃん呼んであとついて来とった璃和が、こんな美味いもん作るようになるとはなあ」
そんなことを宣い、皿を空にしていく。
「父親みたいなこと言うんだね」
唇を尖らせて言い返しても、やはり翔一くんは黙って唇で弧を描くだけだった。


「片付けはワシがやっとくさかい、璃和も早よ風呂入り」
いくら親しい仲でも、来客に皿洗いなどさせられない。しかし腕捲りをした翔一くんに、今度は私が押し切られてしまった。
こういう、いいお兄ちゃんなとこは昔から変わらない。


私が、間違っているのだ。
幼い頃は、本当に実の兄であってほしいと思っていた。従兄弟に対する健全な慕い方を今でも変わらず出来ていれば、こんなにも胸が苦しくなることなんてない。あの日、バスケの試合なんか見に行かなければよかった。
どうにか押し込めなくては。
頭から勢いよく熱いシャワーを被って、私はお風呂を上がった。


髪をドライヤーで乾かしリビングへ向かうと、待ち受けていたのは先程よりも増えたテキストの数々と陰の濃い笑みを湛えた翔一くん。
「翔一くんまだ勉強?すぐお布団敷くから、もう寝たら」
「いやいや、寝るんはまだ早いで。一宿一飯の恩義や、璃和に勉強教えたるわ」
「……」
非常に結構である。皿洗いしてもらっただけで十分だ。
「遠慮しやんでええで、昔はよう宿題見たっとったやん」
「小学生のときの話でしょ」
私が明白に眉根を寄せると、彼はテーブルに肘をついてくつくつ喉を鳴らした。
「今もそんな変わらんやろ」
そうだね。
翔一くんは、変わらないね。

きっと、今夜でけじめをつけるべきなのだろう。
こうして兄妹のように仲の良い従兄妹として普通に過ごし、誤った想いを断ち切る。その為に、今日という機会は与えられたのだ。

腹を括った私は、きっちり一時間苦手な数学ばかりを集中して勉強させられ、就寝に有り付いた。



「見送りなんかええ言うたやろ」
早朝の玄関先で、私は寝ぼけ眼を擦る。
バスケ部の朝練の為に、私が普段起きる時間より早く翔一くんは出ていく。
「ううん、お弁当用意出来なくてごめん」
簡単な朝食を作る為に起きた時刻ですら、割とぎりぎりだった。
「買うさかいええ言うたやろ。朝飯だけで、もう十分や」
本人は昨晩の時点で朝食ですら不要と言っていたが、これは最早私の為―――ただの自己満足でしかない。私が翔一くんの為にしてあげたという想い出が、欲しかっただけ。
兄思いの妹でしょう、と。
「ん…朝練、頑張ってね」
行ってらっしゃい、制服姿の翔一くん。
「翔一くん、来てくれてよかった」
じわりと滲んだ涙を、俯いて欠伸で誤魔化す。
「こちらこそおおきに。行ってくるわ。璃和も気ぃ付けてな」
彼は私の頭をぽんぽんと撫でた。
(やっぱり)

すきだよ、翔一くん。

バスケットボールの試合を見に行ったあの日から、私にとって従兄妹のお兄ちゃんではなくなってしまった。コートの中の彼は、私の知らない男の子だった。
その知らない男の子を、すきになってしまったのだ。


だけど、言えない。
そんなこと。


「うん、バイバイ」
私は小さく手を振った。
次に会うときは、ちゃんと妹に戻ってるからね。
だって私たち、従兄妹なんだもん。
(悲しくなんかない)
従兄妹に戻れば、ずっと関係は続いていくのだから。
辛いのは最初だけ。
初恋が、終わるだけ。


「せや、璃和」
「なに」
ドアノブに手をかけた翔一くんが、思い出したように私を振り返った。

「お前、ほんまにかわええなあ。健気で健気で」

「…そういうのは、もういいってば」
抑え込んだ涙が、溢れそうになる。
「なあんか上手いこと通じへんな」
今のはちょっと違たんやけど、翔一くんは頭を掻きながら首を傾げた。
「?」
いや、首を傾げたいのは私の方だ。
「ま、ええわ。これやるから泣かんとき」泣いてなんかない、という反論が脳で構築される前に、そのことばと同時に腕を引かれた。身体がバランスを崩して傾き、重量の働くまま彼に密着する。
そして、一瞬だけ柔らかい体温が額に触れた。
まさか、キスをされたのだろうか。
「ちょ、翔一くん!?」
私の混乱など気にも留めず、翔一くんはすぐに一歩下がる。しかし右手は握られていて、手掌を上に向けて開かされた。
そこに落とされたのは、
「指輪…?」
球状の赤い石が嵌め込まれているそれ。
深く澱んだ赤が、視覚に刺さる。光を透さない、毒々しさすら感じる程の色味に束の間見惚れた。
これは、宛らかの有名な果実のようである。


「なあ。知っとるか、璃和」


貴方から授けられたのは


「従兄妹同士ってな、結婚出来るんやで」


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