ここ一ヶ月程のこと。
たまに同じ電車で見かけるあの子が、とても気になっていた。
透き通ったような、濁ったような、得体の知れない感情を彼女に対して抱いていた。


その感情、衝動的につき


今日も、満員電車の中で立ったまま本を読んでいる。
見る度に疲れた顔で只管文字を追う、その繊細そうな瞳の色を見つめていた。
(笑ったら、きっとかわいいのに)
電車がホームに滑り込むと、栞を挟んで溜め息を吐き電車を下りる。その顔付きが酷く物憂げで、一体なにが不幸だというのだろうか。

同じ洛山の制服だが、恐らく同学年ではない。
声をかけてみたいが、きっかけがない。
なんでもいいのだ、なんでも。
どうせ降りる駅は一緒なのだから。

けれど、出来ずにいる。
奥手だとか緊張するだとかではない。
彼女を見ていると、苛々もするしこちらを見てほしいとも思う。
向こうが気付いてくれたらいいのに。私からは彼女に触れてはいけない気がして、馬鹿げたことを何度も何度も考えてしまう。


ある日、私は思い立った。
駅から学校までの徒歩の間、彼女の後ろを歩いてみよう、と。
尾行だなんて外聞が悪い。これは、少し彼女を観察するだけだ。いつもは電車を降りたところでラッシュに流されて離れてしまうが、今日は意図的に少しゆっくり歩くのだ。
(駅から誰かと一緒という訳でもないのね)
途中でコンビニなどに寄ったりすることもなく、決して速いペースとは言えないがまっすぐ学校を目指していく。
こんな早くに登校しているのは、単に部活の朝練ではとも思ったこともあった。しかしあの華奢な身体が、運動部に所属しているようには見えない。
やがて校門を潜り、彼女も校舎の昇降口へ向かう―――と思われたが、その足は異なる道を行く。
(この行き先って、まさか)
辿り着いたのは、体育館。
完全に予想外だった。今からここはバスケ部が使うのだ。
すんなりと慣れたようにやってきたが、これまでも体育館に来ていたのだろうか。一度もここで見かけたことなどない。
勿論、バスケ部のマネージャーでもない。
(本当、なんなのかしら)
それを深く考えている時間はなかった。こちらもその朝練を始める時刻が迫っている。
腕時計を確認し、彼女が体育館に入っていくのを見届けると私も通用口から更衣室へ向かった。


汗を流しながら、然り気なくギャラリーの中にあの子の姿を探す。
(いない)
確かに、靴まで履き替えていたのに。
あんな早くから来ていたにも関わらず、最前列を取れなかったのだろうか。
(お目当ては、征ちゃんかしら)
だとしたら、気の毒な話だ。
(ご愁傷様)
彼は今、同学年の女の子にしつこく付き纏われている。


一ヶ月は経つだろうか。
放課後の練習だけではなく、今のこの朝練の時間にもその子は現れる。
新聞部所属だと名乗った一年生で、なんでも制作している新聞に征ちゃんのコーナーを作りたいというのだ。練習の様子に留まらず、休み時間の過ごし方から趣味・嗜好まで詳らかに取り上げるという私欲丸出しの、そんなコーナーを。
しかも週一で更新する計画で、だ。
正式に申し込みがあった際、征ちゃんは勿論受け付けなかった。
目的があまりに個人的であるし、自身のパーソナルな情報を晒す趣味もない。なによりそんなに頻回に張り付かれては部活動の妨げになると。
そもそも征ちゃんはアイドルやタレントの類ではない。私たちの主将なのだ。
だが問題はそこで終わらなかった。
「だったら、いいと言ってもらえるまで諦めません!」
と断れば断る程一年生は燃えてしまい、現在に至っている。さすがにトレーニングルームにまで侵入してくることはないが、
(征ちゃんも大変よねえ)
今も人集りの最前列を陣取り熱視線を送り、他の女の子たちと一緒に歓声を上げている。

「考えごとをしている暇があるのか、玲央」

主将から厳しいことばとボールが飛んできた。
そう、征ちゃんはいつもと変わりない。面倒ごとに巻き込まれているにも関わらず。
「ごめんなさい、少し頭を冷やしてくるわ」

私なんて、話したこともないたった一人の女の子に気を取られているのに。


外に出て、スポーツドリンクを喉に流し込む。風に当たれば、散らかった脳内も直に落ち着きを取り戻すだろう。

「不調ですか」

「いえ、これくらい…」
どうってことないわ。
ふと飛んできた問いにそう答えかけて、
(え!?)
当たりを見回す。
人なんていただろうか。
「下です」
視界の外から更に言われて従うと、体育館の軒下の階段に女の子が腰掛けていた。その手には文庫本。
知っている姿である。

「貴女!」

思わず声を上げていた。
「?」
電車でよく見かける、ずっとずっと気になっていたあの女の子。


「実渕先輩、私のこと知ってたんですね」
彼女に苗字を呼ばれ面食らう。
「え、ええ。まあね。そういう貴女こそ、私のこと知ってたのね」
顔くらいなら知られていても不自然ではないが、まさか名前まで知られているとは思わなかった。
「一年の参宮璃和です。取材を申し込むならスタメンの顔と名前くらい知っているべきと叩き込まれたので」
至って静かに彼女は理由を明かした。
「取材って、貴女もしかして新聞部なの!」

「はい」

なんというか、ショックだった。
璃和ちゃんと名乗った彼女も、目下バスケ部の悩みの種の一人だったのだ。大人しくこんなところで本を読んでいる璃和ちゃんは、確かに自身の口でそう言った。確かに、彼女を電車で見かけるようになった時期と新聞部の一年生が征ちゃんに付き纏うようになった時期はほぼ同じだ。

けれど、まだ何処か違和感がある。
「璃和ちゃんは、どうしてここにいるの」
取材の申し込み云々と言っておきながら体育館の外で本を読んでいるのは、部活動としては油を売っているに他ならないのではないだろうか。折角朝早くから来ておいて真面目に取り組まないのは、矛盾しているように見える。
「このあとあのやかましいのの引き取り作業が残っていますが、朝の一仕事を終えたところです」
「え?」
聞き間違えただろうか。淡々と語る大人しい口調から辛辣な単語が飛び出した気がした。
「どういうことかしら」
笑みを繕っていた頬が引き攣る。
「あの迷惑な部員が毎度お騒がせしてすみません。私は友人である彼女、速水に頼まれて見学の場所取りをしています」
大変なのね、とうっかり同情を口にしてしまうところだった。この機会を逃してはならない。
「璃和ちゃん…解っているなら貴女からやめさせてもらえないかしら」
話は通じそうだし、と隣にしゃがんだ。
「征ちゃんはいくら言われても了承しないわ。こんなことしてても不毛よ。璃和ちゃんも朝早いのは辛いでしょう」
「そうですね。早起きは苦手です」
彼女は納得して頷く。案外簡単だった、と胸を撫で下ろそうかとした。
しかし。

「が、速水に頼まれている以上それは出来ません」

眠たげな目をこちらに向けながらはっきりと示されたのは拒否の意。
「何故」
「新聞部自体は速水に誘われて入っただけなので、どうでもいいです。でも速水は友人なので、迷惑と解っていても私は付き合うのです」
彼女は非常に友人思いだが、些か盲目ではなかろうか。もっと倫理とかモラルとか、考慮すべきことがあるだろう。

「友人思いになろうとしてるだけですよ。所詮は友達ごっこです」

そのとき、璃和ちゃんは初めて表情を浮かべた。何処を見ているか解らない目で、自嘲を。
「なあに、それ」
便宜上の建て前ばかり並べていた彼女が、突然本音を覗かせた為、つい問ってしまった。

「家が転勤族なんです。三年以上同じところにいた試しがありません。ここもどれだけいられるか解らないので、それまでのお付き合いです」

それは、さらりさらりと澱みのない答え方。お蔭様で人間関係が非常に乏しく寂しいことに気付いたので、どうせならそれらしくしてみようと試みています、とまるで抑揚がない。
私が見つめていた横顔の実態は、こんなにも空虚だったのか。
儚いもの程美しいとは、いうけれど。

(こんなにも感情が掻き立てられることって、他にあるかしら)
いや、ないだろう。
彼女を、本気にさせてみたい。
執着心をなくした彼女に、求められてみたい。
「ねえ、璃和ちゃん」
「はい」
捕まえようとしてもするりと逃げられてしまいそうな細腕を、それでも捕まえてみたい。

「私と恋人“ごっこ”してみない?」


私は、彼女に憧れを抱いていた。
笑ってみてほしい。
例えばごっこ遊びが始まりでも、二人で形を整えていけばきれいに出来るはず。
偽物を本物にする、そんな未来に。

こんなにも惹かれたのだから、どうか彼女にもこの熱を持ってほしい。


けれど、彼女は首を横に振った。

「友達と恋人は違います」

冷たい水を頭からかけられたような気分だった。咲く前に呆気なく散らされた花の無念のような、喪失感とでもいうのだろうか。
「そう…」
文庫本を閉じ、璃和ちゃんは溜め息を吐く。
「実渕先輩も、罪なお方ですね」
「?」

「そういうことを言って、私が本気になったらとか考えませんか」

責任取れませんよね、と顔を顰めた。
提示されたのは、私ではなく璃和ちゃんが本気になるという仮定。
(え?)
絶句していると、彼女は立ち上がって去ろうとする。
「実渕先輩と付き合えるなら“ごっこ”でもいいというのが普通でしょうけど」

私にも、守ってるラインはあるんです。

そう言ってちらりと私を振り返った目には、涙が浮かんでいるように見えた。


(完全に失態だわ)
頭を冷やすどころか凍らせてしまい、身を入れることが出来ないまま朝練は終わってしまった。
征ちゃんは確実に怒っている。放課後もあの調子では、確実にペナルティを課されるだろう。
解決は簡単だ。謝ればいい。
けれど。

(謝って、どうなるというの)

告白し直すとでも?
そんなことが罷り通るのか。
せめて、害した気分だけでも和らげばいいけれど。
(どうしてあんな性急なことをしてしまったのかしら…)
自分の思慮の浅さが憎くて仕方ない。
言葉を交わせたのが、嬉しくて。

ただの、押し付けだった。


放課後が近付くにつれて重くなっていった気分は戻らず。
(もう、来ない可能性だってあるわよね)
六時間目の授業も終業を迎えた。
私のことなんて無視して友人の手伝いを続けるだろうか。溜め息を飲み込んで、教室を出る。

「実渕先輩」

考え込んでいて、危うく通り過ぎてしまうところだった。
ドアの脇に、璃和ちゃんが立っていた。幻覚かとつい凝視してしまったが、本物である。
「璃和ちゃん…?」
どうしてこんなところに。
「今朝はつまらない話をしてすみませんでした。下級生の口の利き方ではなかったと、お詫びに来ました」
やはり、彼女は淡々と語る。
今から案の定見学の場所取りに向かうというので、並んで歩いた。
「貴女が私に謝る必要はないわ。こちらこそ軽率なことを言ってごめんなさい」
予想もしていなかった来訪だが、謝るなら今しかない。私も丁寧に謝罪を口にした。
「からかうつもりはなかったの」
「実渕先輩こそ謝らないで下さい。真に受けた私が悪かったのです」
璃和ちゃんが首を横に振る。
「そんな…」

「どうしてだか解りますか」

立ち止まって、真っ黒な瞳が私の射た。
眠たげな目は変わらないのに、その言葉は鋭い。

「早起きが苦手でも実渕先輩と同じ電車に乗りたい私の気持ち、解ってもらえますか」

それは、それは。
私は生唾を飲んだ。

「どうせすぐに転校するかもしれないのに実渕先輩に近付いてしまった私の気持ち、解ってもらえますか」

抑え込んでいた感情を、ぶつけられている。彼女から、私に。責めるようなトーンは、想いの強さの表れととっていいのだろうか。

「迷惑になると解っていても、身の程知らずだと解っていても」

無意識に放たれていた拒絶の意思、それこそが彼女に触れてはいけないと私が感じていた所以だった。
(璃和ちゃんが本気になってしまうなんて、願ったり叶ったりじゃない)
今なら、手を伸ばしても許される気がした。

「ほんの一匙でも、この想いを救ってほしかった」

こんなにも真摯な子に、私はなんて失礼なことを言ってしまったのだろう。

「何故だか、解りますか」

解らない訳ないじゃない。
私も、同じ気持ちなのに。
だから。


一匙と言わずに


全部、頂戴。


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