ある日、私は声をなくした。


自由を望む景色の縁にて


心因性、と言われた。
自分がこんなにストレスに弱い質だとは思わなかったし、それによって喋れなくなることで更に苦痛を感じた。
何処か冷めたような気もしながら、私は藻掻き苦しんでいた。

「璃和、調子はどうなのだよ」
私は小さく二度、首を縦に振る。
真太郎、と幼馴染みの名を呼んだ。その呼気が空気を振動させることはない。ただ、口の形だけ。

ここは、狭くて古いアパート。
私が幼いときから男を取っ替え引っ替えしてきた母に、喋れなくなってから放り込まれたのだ。
「その方が気が楽でいいでしょ」
と体よく厄介払いされ、学校に行ったり行かなかったりしている。
確かに私のことで思い煩う必要もなくなり、彼女の気は楽になっただろう。昔から特に気にかけられていた記憶はないが。
今度の彼は高給取りらしく、今頃庇護下で悠々と過ごしているに違いない。ここでの生活は、そのおこぼれだ。
確かに私も気が楽と言われればそうだなのが、吹っ切れたというよりももう自棄な気持ちだった。
いよいよ血の繋がりなど当てにしないと。

それに、実の家族がどうであろうと私にも救いはあった。
声が出なくなってから、彼が毎日私のところへ来てくれるのだ。
部活を終えたあとで、疲れているだろうに。
一年生にしてレギュラーで活躍しているのだから、暇なはずがないだろうに。
そう申し訳ないと思う一方で、真太郎だけは私を気にかけてくれていることが嬉しかった。

人間関係を拗らせた果ての外聞の悪い部屋―――そんな場所に、彼は来てくれる。
誰かに出入りを見られては、面倒なことにならないとも限らないと解っているはず。それでも真太郎は、こうして。


「体調は悪くないか。ちゃんと食べているのか」

私の頬に触れて、温度を確かめてくれる。

「少し、痩せたのだよ」

手を取って、眼鏡越しに見つめてくれる。


彼は、心が弱かった所為でこんな為体に陥った私を決して責めたりしない。こうして二人で寄り添う僅かな時間、私は生を実感する。
狭い狭い部屋で、なにをする訳でもない。真太郎が連れて来る微かな外の匂いに酔い、そのシャツに縋る。
そしていつも思う。

(私なんか、消えてしまえたらいいのに)

ここ数日で、登校する日もめっきり減った。なかなか足が外界へ向かないのだ。
ここから出られず、何処へも行けず、なにもかもが遠退いていったところで、なんの感慨も最早湧かない。
惜しむものがあるとすれば、ただ一つ真太郎という存在だけ。
その目、指、声、体温、鼓動―――私を許してくれる、唯一の私の感動だ。

彼の優しさの理由など知らない。こちらが謝りたくなる程、無条件で差し出されてきた。報いることが出来るなら、今すぐ命を捧げてもいいくらいに。
だから、もうそろそろ。

(死んでしまいたい)

真太郎のシャツを掴む手に、力を込めた。
ごめんね、ごめんね。
こんな私で、ごめんね。
涙を流しても、やはり声は出なかった。頼りない息が漏れるだけ。
酷く恨めしい、振れない声帯。殆ど無意識的に、もう片方の手でそこに爪を立てた。
「やめろ璃和」
それを、彼はそっと制する。すっぽりと包まれてしまった手が、ほんの少し抵抗した。
しかし尚も握り込まれたまま、抱き寄せられる。触れた箇所から、温もりを分け与えられていくようだった。手も、腕も、肩も、首筋も、その心臓ですら。
そして彼は言ったのだった。

「璃和、お前をここから連れ出したい」

そんなことを。

「ずっと考えていた。これ以上は放っておけないのだよ」

抱擁を解いて私の両肩に手を置いた真太郎は、苦しそうにしている。
彼のことばがなにを表しているのか瞬時には解らず、私はただそれを見ていた。彼は続ける。
「ここは、状況を打開する正解の場所ではないのだよ。今度こそ璃和を助けたい。ついてきてほしいのだよ」

(ああ…そんな風に)

如何に私のことを考えてくれているか、これ以上ない真っ直ぐさだった。私に声を取り戻してほしいと、真剣に思ってくれているのだ。
本当は、家を追い出されたときから言おうとしてくれていたらしい。
けれど私たちはまだ高校生で、社会的にも弱者だ。
そもそもの家庭環境を案じ、いずれ責任が持てるようになったら、というのはもうずっと昔から決めていたという。

「璃和が懸命に生きる姿を俺は見てきた。ずっと、支えになりたいと思っていたのだよ」

(真太郎)

名前を呼びたかった。
私の声で、伝えたかった。
ごめんと、ありがとうと、だいすきを。
声を上げて泣きたかった。
嬉しいと。
それがどんなに障害だらけで困難なことだと解っていても、その上で意を決して告げてくれたことに。
私は目元を拭って「ありがとう」と唇の形を作った。そして、テーブルの上に置いているメモ帳に文字を綴る。

『待ってる』

「なにを言っている、俺は今すぐにでも…!」
彼は、メモ用紙を握り締めた。私は俯いて首を横に振る。
私たちは、余りにも未熟すぎる。
その腕には頼れない、まだ。
『今は、こうして少しでも一緒にいられる時間があるだけでいい』
「だが」
真太郎を遮って私は更にペンを走らせた。
『とても嬉しい。だから私も、ちゃんと治す』

(こんな私を、支えてくれますか)

私を忘れないで、今のようにしてくれるだけでいい。声を取り戻す為に、ゆっくりと一緒に時を待ってくれたらいい。
そうして、ここを出ていくときは手を引いてほしい。
きっと、笑顔で応えるから。

「…ああ、必ず。約束するのだよ」

彼は強く頷いた。





リビングに詰め込まれた荷物の数々を確認し、私はキッチンに向かう。そこには真太郎がいて、既に段ボールから出したケトルとマグカップでお茶を入れてくれていた。
そっと背中から近付き、服をくいと引っ張る。
「どうしたのだよ、璃和」
裾を摘んだまま、もう片手で窓の外を指差した。
ベランダまで連れていき、ガラス戸を開ける。丁度風が吹き込んで、部屋の空気を浚った。
この景色が気に入って、私たちはここに決めたのだった。

結局声は戻らないまま、私はあの部屋で年月を過ごした。
けれど気持ちは随分と落ち着き、時は来て約束通り彼と共にあそこを出た。

この部屋は、紛れも無く私たちのもの。
なんて愛しい場所だろう。
(自由の景色だ)
本物の、自由だ。
心は僅かばかりの不安と、今度こそ声を取り戻したいという希望で満ちていた。
まだ少し肺を刺す冷たさを含む風を吸い込む。

(……ふう)

そしてゆっくりと息を吐き出し、まずは荷解きを、と踵を返した。
しかし真太郎は動かない。
ん?
どうかしたのだろうか、目を大きく開いて私を見下ろしている。言って悪いが間抜け面だ。
「誰が間抜けだ。それは璃和の方だろう」
え?

「声が、戻っているのだよ」

「……うそ」
鼓膜に響いた声は、久しく耳にしていなかった自分のそれだった。声帯が、確かに振動した。私は口元に手をやる。
真太郎が唇を震わせて私の両肩を掴んだ。その手も熱く力が込められていて、彼の目尻には光る縁が作られる。

「真太郎、真太郎」

下りてくる整った顔立ちに、そっと手を添えた。小さな声で何度も名を呼び、彼は「なんだ」と微笑む。
当たり前だったはずのやり取りに胸が震え、涙が溢れた。

勿体振らずに、全て伝えよう。
素直な気持ちを、声にして。

「真太郎、今までごめん」
「ああ」
彼の指が私の目元を拭ってくれる。
「真太郎、ありがとう」
「ああ」
私はその手に自分のそれを重ねた。
「真太郎…だいすき」
「ああ。璃和がそう言うのなら俺は」

愛しているのだよ。





そして、これからも

私は何度もあなたの名前を呼ぶ

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