一日中不安で仕方がなかった。何が恐ろしいのかも分からない。発作が出るのは怖いけれど、でもそれはどうあれ常に恐れていた。いつも余命宣告された気分だった。いつも刃を首に突きつけられた気分だった。いつも死刑判決を下された気分だった。こればかりは、本当に神経を犯された者だけにしかわからない。その恐怖は伝わらない。忙しかったりだとか、そんなこともなかったが、とにかく何もかもに急かされている気がした。隣の部屋の住人の生活音にすらびっくりして、そこから発作が出る。
はあ、はあ、とうるさいテレビの隙間から荒い呼吸の音。荒れ狂う波。もういやだ、と思った。声に出た。もういやだ。
涙が滑り落ちる。よくもまあこんなにも泣けるものだと思う自分がいる。いつの間にか、郁巳がいない時にわあわあと泣くのが習慣づいた。世界を呪ったし、自分を呪ったし、どこの血からこんな憎たらしい遺伝子が生まれたのかさえ、腹が立って来て、意味もなく髪を掻き毟る。髪だけでは物足りない。自分を引き裂きたい衝動にかられた。でも、同時に、助けて欲しいと思う。この恐怖は誰にも伝わりはしてくれないのに。泣き疲れた。いつからこんなに疲れやすくなったのだろう、家から一歩も出てないというのに。布団に涙のシミができて冷たい。冷房で冷えたのだ、きっと。

ふと、気づくと寝ていたりする。明らかな睡眠不足。夜を寝ずに朝に飛び起きる。昼間は震えて丸まり夕方に少し薬が効いて来て、安心してうとうととする。そして起きる時が、また盛大に嫌いだった。何かに怯えて心臓はばくばくと誤作動をするし、身体は震える。震える、というより、痙攣する、と言った方が正しいのだろうか?これは夢かどうなのかもわからない、頭が明瞭になるまでは(それも、薬のせいで以前の時彦にとっての明瞭とは、程遠いのだけれど)、訳の分からないものに取り憑かれているようなものだ。この悪夢が永遠ならば、どう生きていけばよいのだろう。頭を抱えた。がり、爪を立ててしまったけれど、血なんか出るはずもなかった。


5時ごろ、汗を垂らした郁巳が大学から帰って来る。時彦の泣き腫らした目を見ても、大学から帰ってきた郁巳は何も言わない。ただ、冷房が効いているな、と思った程度だ。「ただいま」と声を掛けて、電気をつけずに転がっている時彦に目を向ける。ぱちり。電気がついた。明るくなる。ぎろりと恐ろしい目が郁巳を睨んだ。ように見えたけれど、実際は郁巳だと認識しただけで、かすかにおかえりと言ったのが分かった。

「……、…」

何と声を掛けていいのか分からなくて、郁巳の口はまた癖の金魚の口になる。エコモードになって、音声だけになっていたテレビが郁巳に反応してまた画面が映し出された。ニュースだった。判決、執行猶予付き。精神状況から鑑みた結果だそうだ。

「…休学届け、出しておいたから」

夕飯の準備の時に、ようやく一つ、言うことができた。届いているかいないのか、分からないけど、鼻をすする音がして泣き始めたので、多分聞こえているのだと思う。夏野菜をきざむ。時彦は多弁な方ではなかったけれど、それより、本当に喋らなくなった。何より動かない。頭を押さえて立ち上がったと思えば、トイレに向かう。真っ赤な目は相当泣いているのだろう、頭も痛くて仕方が無いはずだ。脱水症状なんて出なければいいけど。

麦茶を一杯入れてやった。時彦にご飯だから、と言ったら間を置いてゆっくり座り直る。握りしめていた薬を机に置いた。

「エアコン、消してもいいか」

本当ならマンションの6階なので、つけなくても風は入ってくるのだ。時彦が頷いたのでエアコンを消して、ベランダの窓を開け網戸にした。外はいい加減に真っ暗で、また電車の音が聞こえる。風は少し生ぬるいけれど、でも、冷えた部屋に混ざってマシになった。

今日の夕飯は素麺とナスやピーマンなどの夏野菜の味噌炒め。郁巳はよく食べる。もぐもぐと黙ってナスを頬張っている。時彦はといえば、少量口に炒め物を運んだだけで、箸を持ったまま机を見つめていた。郁巳は「ナスがまだ青かったな」と呟いていた。時彦は口を噛む。

味が分からない。

言ってしまおうか、悩んだ。不安で不安で、ナスがどんな味なのか分からない。ナスって、どんな味だったかな。味噌、は多分、すこしわかる。しょっぱいのだ。いや、わからない。これを知られたら、郁巳はたいそう悲しむだろうなと思った。料理は彼の得意なことだから。「美味いという言葉が一番好き」と言っていた彼だから。知られたらどうなるだろう。言わない方がいいのか。また背骨を蟻が這うような、そんな不安に駆られる。手が震える。ああ、と目を閉じた。カラカラの身体が欲しがるのは麦茶で、三杯ほど飲んでから、郁巳を見た。

「………悪い、もういらない」
「ああ、わかった」

優しさのこもる声だった。郁巳は明日の弁当代が浮くと言った。それでも、彼の持つ箸が寂しそうで、悲しくなって、つい、小声で言ってしまった。

「美味かったよ」

珍しく、郁巳は眉を下げて笑った。「そうか」と言った。彼の作ったものは、きっと美味しいのだろう。お前は料理が上手いから。俺が悪いだけで、お前の料理には何の欠陥もない。そう思うと黒く黒く、自分が薄汚く思えた。嘘がこびりついた。もう自分が悪の塊のように思えた。

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