数日たつと、今度は時彦は不安で寝られなくなった。あれ程眠い眠いと思っていたのに、今は恐怖で寝ることができない。眠いのに寝られない。郁巳は大学に行かなければならないので、自分につき合わすことなど毛頭考えていない。寝られないと伝えるのは酷く嫌だった。ただひっそりと、真夜中の、得体の知れぬ恐怖に怯えているだけ。
何も聞きたくなくてヘッドホンをつけて寝るようになった。けれど流石におかしいと思ったのか、郁巳はどうしたのか聞いてくる。怖いと伝えるのが怖い。自分が馬鹿げたことに怯えているのは頭がおかしいのからだと思っているから。

「寝れないのか」

そう聞かれて、ひやりと一瞬だけ血の気が引く。もうばれたのかと口を引き結び、仕方なく頷いた。眠い。閉じようとする瞼はしかし恐怖に支配されて起きることをしいられる。目を細めた郁巳は睡眠薬は無いと困ったように言う。最近郁巳はよく表情をつくる。今までの薄い表情は、日に日に強く濃く、それを表す。どうしてだろうと時彦は思った。

「別にいらない」

そしてまた恐怖と対峙する時間は迫る。郁巳には寝ろと言っておいた。仕方なく郁巳は電気を消した。

頭はいつも理由のない不安が満ちている。他人も居ないのに、澱む恐怖。何故かシーツに染みる涙。どうして俺はこんなにおかしくなったのだろうか。また涙が垂れる。泣くことは弱い証拠だ、強くないのは恐ろしい。煩く喚くヘッドホンはなんの役にも立たない。けれど他の音を聞いて現実に恐怖するよりは、何も聞こえていない方がよっぽどマシだ。
うつらと目を閉じると恐怖が眠りを妨げて息が止まるように目を覚ます。この繰り返し。そしてカーテンから覗く空が白んでくる頃、再び朝だからと恐怖で起きるのだ。この恐れは理解などされない。してはくれない。して欲しいとも思わない。「怖い」は、言葉でしか伝わらないのだから。この身が爛れそうな程の恐怖は、ただの妄想でしかない。そんな日が何日も続いた。

郁巳が朝食の準備をする。ほんのちょっとの味噌汁とほんのちょっとのご飯。眠さにうとうとと目を閉じたり開けたりして、目の前のニュースが頭に入らない。郁巳が時々声をかけてくるが、何を言っているのかやっぱり頭に入らない。高校の時の授業を思い出す。こんな感じで、よく眠くなっていた。眠い、

「時彦」

はっと息を詰めて目を開く。指が熱い。心配そうな顔で、郁巳は時彦の肩を揺らしていたらしい。時彦は茶碗を持ったまま寝ていた。絶望感が襲う。もう俺は何もできないではないか!

「朝ご飯だけは食ってくれ」

また郁巳は強く色を映す。柔らかさに気圧されて涙が出てくる。朝食は悲劇の始まりと化した。弱い自分を郁巳はどう思っているのだろう。辟易として面倒を見るのは嫌なんじゃないか、あきれているのではないか、自分のことは嫌いなんじゃないか。郁巳に嫌われていたらどうしよう。怖くなって、はあ、と息を荒げる。苦しい。怖い。ああ嫌だもうこれは嫌だうんざりだ怖くなる、死にそうになる、死んでしまう、死んでしまいたい。死んでしまいたいよ。


だんだん時彦の発作の兆候が分かって来た気がする。ぱち、と瞬きをしてから瞳はゆらめき身体を強張らせる。眉を切なそうに寄せて、開いた口からだんだんと呼吸が荒くなってゆく。震え出す。泣き出す。時々吐く。その間時彦は何も喋らない。伝えたいことはたくさんあるだろうのに、何も喋らないでただ一人で苦しみから逃れようとしている。時彦は薬をずっと手のひらに握りしめていた薬を震える手で薬をつまむ。一度使ったらすぐに発作が収まったので、それ以来縋るように持ち歩いていた。

「大丈夫」

そう言うと、ちらりと時彦は恐怖の狭間からこちらを見た。少しばかり汗の滲んだ額と、涙を数筋流す瞳が情を表す。薬を飲み込んだのを見て、手を握ってやった。夏の時期なのにも関わらず冷えた指先。可哀想に可哀想に思えて何度も髪を撫でつけてやった。するとその手を掴み、まだ落ち着かない息のまま俺を射抜く。

「いくみ、」
「うん」
「ごめんな、許して、俺、こんなんだけど」

ああ、俺も酸素不足になってしまう。ミイラ取りがミイラに。掬い上げるつもりが共に藻掻いている。時彦の弱い所。今までずっと強い所ばかりを見て来た。神経質な面は確かにあったけれどぐずぐずと泣いて、女々しく自分のことを不安に思うことなどは一度もなかった。果たして今の彼が本来の時彦なのか、それとも今までの強い彼が本来の時彦なのか、郁巳は迷うことすら出来なかった。元々口下手なのを理由にして、他人とあまり接触しなかったツケがまわってきたのかもしれない。でも。

「そんなこというな」

そんなこというな。二回、一度は弱く、二度目は確かにそう言った。

「お前は疲れてるだけだから。俺は、…お前を責めるつもりなんてない。時彦がどうなっても、俺は絶対に時彦から離れない」

郁巳は時彦の目を見て、精一杯言葉にする。時彦はまたゆるゆると目に涙を貯めてごめん、といつまでも呟くのだ。


優しさが恐ろしかった。郁巳の底知れぬ優しさを失うことが怖かった。このまま本当に恐れに怯える日々を郁巳は許してくれるのかわからない。何処かへ行ってしまうのではないか。俺のエゴで彼を縛り付けているのでは無いか。郁巳に対する依存だとも理解できる。こんなはずではなかったのだ、いつもならこんなことを考える隙間はなかった。
時彦は、助けてくれと言えない。
今までそうした弱音を吐いたことはなかった。プライドと、時彦に負担をかけたくないと思う恐れのせいで郁巳に手を伸ばせない。けれどそれでも助けて欲しい、それでもここから救い出して欲しい、見捨てないで欲しい、好きでいて欲しい。だからその気持ちの渦は、一つの言葉で表される。

「好きだ」

悩ましく、狂おしく、恐ろしい気持ち。それらは何時の間にか好きの一言で隠すようになった。時彦は郁巳に見えない信号を送る。好きだと伝える。行かないでと伝える。

I don't want to say die
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