しばらく時彦はいくつもの零れる涙を掌で拭っていた。彼の拭い方はとても特徴的だと思う。幼い頃からの癖なのだろう、あどけなくて脆い、やわい拭い方であった。
郁巳はガラスのコップに麦茶をそそいだ。なみなみと。ひとくちふたくち、飲んでからようやく泣きやんだ時彦に差し出した。

「飲む?」

鼻水を啜りつつ頷いて手を伸ばす。ひたりと触れる時彦の手は冷たく湿っていた。あれだけ涙を拭けばこうもなるだろう。ひとくちふたくち、時彦は控えめに飲む。郁巳自身は別に水分を欲していたわけではないけれど、こうして渡した方が、時彦は安心するのではないかと、こっそりと考えていた。
先ほどは気が動転して大声を出していたからか、若干しおらしい。すん、とまた鼻水を啜った。時彦は今日の経緯をほつれほつれに喋った。駅で具合が悪くなったこと。病院に行ったこと。パニック障害だったこと。薬を貰ってきたこと。これからしばらく休養しろと言われたこと。その間郁巳は黙って頷いていた。話し終わった時、ふと時彦はベランダからの風に不安を覚えた。少し遠くで電車が通る。ベランダからは地平線に消えゆく電車が、暗い帳の中、煌々と明かりを振り撒いているのを見ることができた。夜の風。特に外からの眼を遮る必要もないから薄いカーテンをしているだけだ。ふわりとそれが浮き足立って、妙にひらひらとしている。涼しい風だった。けれど郁巳は優しい風だと思った。

「これから、だけど」

言葉をつくる。郁巳はやはり喋るのが苦手だった。単語を選び助詞を選び、最も自分の気持ちに対応した言葉。考えれば考えるほど分からなくなるから。でも考えることは必要ない。郁巳は唇を舌で湿らせた。さっき、ぽろぽろと口から出た言葉は何も考えていない言葉だ。それで言葉に成るのなら、喜んで考えることをやめよう。黒い、目つきの悪い彼の瞳は郁巳を見つめる。

「…これから」
「これから。…バイトは辞めろ。学校も、休む。先生にそう言われたんだろ」

一つ目線を落として随分と苦しそうな顔をして、時彦は頷いた。時彦にとって休むことは悪だ。意味の分からない精神病に悩み、学校を休むなど職探しを終えるなど未来を失うなど、バカのすることだ、そういう、鬱屈した考えであった。郁巳はそれを見てから、いくらか逡巡して口を開く。

「これから、お前実家に戻るか?」

ぱっと時彦は顔をあげた。ぱちりと一度瞬きをして、そうしてあの不愉快そうな顔で呟いた。

「いやだ」
「…なんで」

彼はぐ、と言葉に詰まる。もう一度、念を押すように、なんでと聞いた。問い詰めるような鋭さは見えない。ただ知りたかった。隅からすみまで時彦の気持ちを知りたかったから。

「……こんな病気、家族になんて顔をされるか分からないから、やだ」

郁巳は時彦の家族をよく知っている。少し過保護じみている母親と、子供に興味の無い厳格な父親。それと時彦と仲の良い姉一人。郁巳の家も事情がない訳ではないので人の家庭に口を突っ込むことは出来ないし、沢山時彦の家にお世話になっているので悪くは言えない。けれど時彦が言うことを躊躇うのは理解できる家庭だ。

「…じゃあ、せめて姉さんには伝えよう。絶対にお前のこと、理解してくれる。そうだろ?」
「………」
「……どうする?」
「…、姉ちゃんに迷惑かけたくない」
「それなら、尚更連絡した方がいい。かけないほうが、色々迷惑になると思う」

そういうと時彦はしばらく黙ってから観念したのか、小さく、分かったよと言った。
時彦の姉は律子さんという。今は地元の市役所に務めている。時彦の身内で郁巳と付き合っていると知っているのは彼女だけだ。彼女は強い。物理的にも精神的にも。過保護な母親と厳格な父親にも反発したり、弟である時彦を擁護したり諭したり叱ったり、なんて言う人間的にデキた人だと思う。時彦も頭が上がらないらしい。郁巳も幸い彼女の連絡先を持っているので、何かあった時に容易に話せる。勿論郁巳も頭が上がらない。

「後で、姉ちゃんに連絡する」
「ん、…」

また郁巳は麦茶を注いだ。ようやく、準備された夕飯を見つめて、時彦に薄く笑った。

「少なめに作っといて良かった」

薬飲もうな、と時彦が床に落とした袋を手にとって時彦に渡す。時彦は眩しそうに目を細めてから、分かったよ、ともう一つ言った。

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