姉弟 | ナノ
出発
音も立てずに歩くのは、すでに身についた習性で。
けれど気配を消さずにいるのは、彼の人を驚かせないためでもある。
けれど、人の気配に敏感な彼の人は、いつだって驚いてくれたことはない。
と、思う。
「姉上ー。いないんですかー?」
声を上げながら廊下を歩くけれど、室内に入ってまで確認しようという気にはなれない。
どうせ自分の声が聞こえれば、自ら部屋を出て来るような姉だ。
「おかしいな……いつもならすぐに出て来るはずなのに」
立ち止まり、腕を組んで考える。
邸に戻ったとき、どこかへ行ったという話は聞かなかった。
だからどこかにはいるはずなのだ。
けれど、捜しても一向に姿を現さない。
これまでそんなことはなかっただけに、いささか心配になる。
「あら、カノエ。戻ってたの?お帰りなさい」
「母上!ただいま戻りました」
背後から声を掛けられて振り返れば、そこには母である浅水の姿。
数日振りに会う浅水は、最後に見たときと変わりはないようだった。
カノエが水軍として航海に出るようになったのは、数年前からのこと。
今日も航海から戻ってすぐに邸に戻ってきたのだ。
それはひとえに、航海前に一緒に行きたいと駄々をこねた、姉のご機嫌取りのため。
「そうだ。母上、姉上を知りませんか?どこにも姿が見えなくて」
「あら、カノエも知らないの?」
「も、ってことは、母上も姉上を?」
問い返せば頷いてくる浅水に、カノエは頭を抱えた。
浅水が姉を見つけられないというのなら、この場にいないというのと同等だ。
いつだって浅水は、姉の居場所だけは理解していたのだから。
その理由は、聞いてもいつもはぐらかされるため、未だにわからないが。
「全く、翅羽はどこに行ったのやら」
「母上でもわからないんですか?」
お手上げ、と言わんばかりに肩をすくめた浅水に、カノエは眉をしかめた。
浅水にわからないことなどないと、そう思っていたから。
「私も万能じゃないからね。まぁ、翅羽のことだから、何となく予想はつくけど……」
そう言って、浅水は言葉を濁すと庭を見た。
つられるようにカノエも庭を見れば、キラキラと何かが輝くのが見えた。
「確認してきます」
あんなところに光るようなものはなかったはず、と思いつつ、カノエは浅水が動くよりも早く庭へ降りた。
「カノエ、一体何があったの?」
カノエが何かを手に戻ってきたのを見ると、浅水に少しだけ警戒感が感じられた。
いくら結界を張ってあるとはいえ、必ずしも安全とは限らない。
それは過去に本宮であったことが教訓になっている、らしい。
らしいというのも、カノエが生まれる前のことなので、仕方ないといえば仕方ない。
それに、主がいない間、この邸を守っているのは紛れもなく浅水だ。
「逆鱗……どうしてここに」
「これって、姉上が持ってたはずじゃ……」
カノエの手の中で淡く発光しているのは、浅水が望美からもらった白龍の逆鱗。
けれど、その逆鱗は娘の翅羽が十七になったときに、彼女に譲ったものだ。
いつか、必要になる時がくるから、と。
以来、その逆鱗をかつての望美のように、首飾りとして身に付けていたのを知っている。
それなのに、ここにあるのは逆鱗ばかり。
肝心の翅羽の姿は見当たらない。
「捜索させますか?」
キラリ、とカノエの目が光った。
誰に、とは言わない。
言わなくとも、別当家の人間なら陰で動く烏の存在を知っている。
けれど、烏を動かすにも頭領の認可が必要だ。
自分がいないときは、その権限を妻に委ねる。
そう宣言したのは、後にも先にも今の頭領だけ。
もちろん、過去に補佐として隣にいた浅水だからこそ、その権限を頭領から与えてもらったのだが。
「……その必要はないみたいね」
「どういう意味です?」
意味が分からずに首を傾げる。
捜索しないというのは、行き先を知っているのか。
はたまた、安全であることを確信しているのか。
先程、居場所を知らないと言ったばかりだから、この場合は後者だろう。
けれど、一体どうやってそれを知ったのか。
逆鱗は未だカノエの手の中で仄かに光放っている。
「今からあの子を迎えに行くわ。行き先はその逆鱗が知っているから、ね」
「これが、ですか」
カノエの手の中にある逆鱗を示せば、それを指で摘まんで空へ掲げる。
龍神の力の源、と教わっているが、こんな小さな鱗一枚のどこにそんな力があるというのか。
「信じられないのも無理はないわ。でも、今からその力を見せてあげる」
貸してごらんなさい、と言われ、大人しく浅水に逆鱗を手渡す。
すると、逆鱗の光が増したような気がした。
「そんなに時間はかからないと思うけど……カノエも一緒に行く?」
「いいんですか?」
思いも寄らない申し出に、カノエの表情が明るくなる。
最近は浅水と共に何かをする、という機会がめっきり減った。
自分の立場や浅水の立場を考えると、それも仕方ないことだが。
何だかんだ言って、母と一緒にいることのできる姉への、ちょっとした嫉妬もある。
「構わないわ。私とヒノエの大切な人に会わせてあげる」
「大切……?」
ふわり、と微笑む浅水の表情は、酷く柔らかい。
自分たちへ向ける笑みとは、また違う。
「そうよ。私の命の恩人だもの」
簡単に言ってのける浅水に、思わず聞き間違えたのではないかと思った。
けれど、若かかりしころに両親が経験した戦について聞いている。
その際、浅水がその命をかけたことも。
だから、命の恩人というのも、あながち間違いではないのだろう。
ただ、それが誰なのかまでは見当もつかなかったが。
「元気でいるかしらね。ヒノエと風花は」
「え……?」
呟かれた言葉に、聞き覚えのある単語を拾って、思わず声を上げる。
浅水が今言った名前の一つは、確かにヒノエだった。
それは自分の父の名であり、浅水の夫の名前でもある。
一瞬、同名の別人かとも思ったが、ヒノエなんて名前はそうそうあるものじゃない。
「行けばわかるわ」
そんなカノエの内心を読んだかのように浅水が微笑む。
他人の感情に賢いのは、その身に流れる星の一族の血ゆえか。
浅水の持つ能力のほとんどは、娘の翅羽が受け継いだ。
カノエの方はといえば、人よりも勘が良いという程度か。
それは浅水の従兄弟である将臣と類似している。
ヒノエから言わせれば、野生の勘らしいが。
「父上には、何も言わなくていいんですか?」
いくら時間はかからないといえ、邸を留守にするのだ。
何か一言残さなくてもいいのだろうか。
せめて、女房や烏に伝言を頼むとか。
何も言わずに浅水まで消えてしまったら、いざというときに困るのは残された者たちだ。
「そうね……翅羽を迎えに行きがてら、彼らに会ってくるわ」
「お前に早く会いたくて帰ってきたのに、ずいぶんつれないね」
「父上?」
まだ勝浦にいるはず。
そう思ったが、熊野は彼の――もちろん、自分もだが――庭のようなものだ。
最短距離で帰る時間を短縮したのだろう。
「何だ、カノエもいたのか」
「……ずっといたんですけど」
いくら野郎に興味はないとはいえ、自分の息子すら視界に入らないのはどうだろう、と少し悲しくなる。
まぁ、彼も数日振りに最愛の妻に会うのだ。
仕方ないと言えば、仕方ない。
「カノエも連れて行くのか?」
「うん。こんな機会は滅多にないしね」
「そっか」
どうやら、ヒノエも浅水が行く場所に見当がついているらしい。
一人だけ蚊帳の外だと感じるのは、こんなとき。
「お前も、あの姫君の姿を見てこいよ」
そう言って、髪の毛をかき混ぜるヒノエに、違和感を感じる。
「父上は行かないんですか?」
単なる好奇心。
けれど、その言葉に目の前の両親は顔を見合わせ、小さく苦笑した。
その理由がわからなくて、カノエは再び首を傾げる羽目になる。
「オレはいろいろあって行けないんだ。姫君に会えないのは、少し残念だけどな」
返ってきた言葉はいつもの軽い物だったから、カノエは素直に頷いた。
けれど、カノエがその理由を知るのはもう少し後のこと。
「じゃあ、行ってくるわ」
「あいつに口説かれても無視しろよ?」
「どうかしら、あれもヒノエだからね」
「ったく、勘弁してほしいね」
言葉遊びのような会話が耳に心地いい。
いつだってこの調子の両親が、大切な人だという人は、一体どんな人たちなのか。
「カノエ、私の手を離しちゃダメよ」
どこに行くかわからないから、と言う浅水の手を、離さないようにしっかりと握り締める。
けれど、出掛けるなら邸を出る必要があるのではないか。
そう気付き、問いかけようとすれば、自分と浅水の身体が光っていることに気がついた。
「二人に、よろしくな」
「ええ」
その会話を最後に、カノエと浅水の姿はその場から消えた。
光の残滓を眺めながら、ヒノエは高くなった空を見上げる。
「全く、うちの姫君も困ったもんだ」
困った、と言いながらも、ヒノエの顔には笑みが浮かんでいた。