月の降る夜 | ナノ
月明かりと星明かり
 




言っても言いきれないほどの感謝の気持ち。

蓄積ばかりされるそれを、どうやって返そうか。





ベッドの端に座り、ヒノエは横になっている浅水の頬をそっと撫でる。
そうすれば、浅水もその手のぬくもりを感じるかのように、頬を寄せる。





今の浅水の姿は、元のそれに戻っていた。





あの時、浅水の身体が透けていき、終いには彼女の輪郭を完全に捉えられなくなった。
今度こそ本当に彼女を失ったと思った、次の瞬間。
何事もなかったかのように、目の前に再び浅水の姿が現れた。


けれど、それは夢や幻などという生易しい物ではない。
その証拠に、浅水自身がかなり疲弊していたからだ。


念のため、とベッドへ寝かせ布団を掛けてやれば、大人しくそれに従う。
自分の身体のことは、自分が一番よく知っているのだろう。
今の身体に、何が一番必要なのかを。


「浅水、調子はどうだい?」

「大分よくなったよ。ただ、まだ身体が重い感じがするけど」


訊ねればハッキリとした声で返事が返ってくる。
よく見れば、顔色も戻ってきたようだ。
つい先程までは、紙よりも白い顔色をしていたというのに。


「そう、ならよかった。けど、もう少し休んだ方がいいかもね」

「ん。でも、一体何が起きてるんだろ……私の身体」


最近起きるようになった正体不明の発作。
それに加えるかのように、自分のからだが透けていくという現象。
この二つを前に、不安に思わない人間がいるわけがないのだ。
だからといって、慰めの言葉など掛けてやることも叶わない。



本人の苦痛は、本人だけの物。



誰かが変わってやることなど、出来やしないのだから。
慰めの言葉は出せないけれど、今のヒノエに出来ることなら一つだけある。
だが、今はホテルに宿泊中。
本当なら、しかるべき場所でしかるべき手順を踏んでやらなければならない。
最も、今の状況ではそんなことを言っている余裕すらないが。


「とりあえず、応急処置だけでもしておいたほうがいいな」


口の中で小さく呟く。
またいつ同じようなことが起きるとも限らない。
不安要素は出来るだけ少ない方がいいに決まっているのだ。
自分が一緒にいるときならまだしも、浅水一人だけの時にこんなことが起きては、助けることすら出来ない。


「ねぇ、浅水」


顔の横に手をつけば、ベッドのスプリングがギシリと小さく悲鳴を上げる。
視線だけでヒノエを捉えれば、二つの紅玉に映る自分の姿が見える。
同じように、ヒノエにも自分の瞳にも彼の姿が映っているのが見えるだろう。
絡んだ視線は、何かを訴えているようだった。
もちろん、何を訴えているかなどは、言わずもがな。


「……いいよ」

「浅水……」


ヒノエが何かを言う前に返事を返す。
そうすれば、少しだけ驚いたように彼は目を見開いた。
いつものヒノエならこんなとき、自分がどんな返事を返すか知っていたはず。
それとも、今はそれすらもわからないほどに混乱しているのだろうか。
安心させるためにも、少しだけ微笑を浮かべてみせる。


満面の笑みを浮かべるためには、今の自分では無理だと悟ったから。


ここまで身体が重くなった経験は、今までは後にも先にも一度しかなかった。
一年ほど前、神泉苑で雨乞いの儀を行ったとき。
雨を降らせた望美の後に舞う羽目になった浅水は、どうやって雨を降らせようか悩んでいたときに、四神の協力を手に入れた。
そのときも、四神の力を生身の身体で使ったせいで倒れた記憶がまだ新しい。
今の状況は、四神たちの力を生身で使役したときとよく似ている。

明らかに違うところは、浅水の身に起きている現象。

あのときは、やって来たのは疲労感だけ。
けれど、今の自分にやって来たのは疲労感だけではなく、肉体の消滅の危機。
最近頻繁に起きる発作と何か関係があるのかと思ったが、どうやらそれは杞憂のようだ。
その証拠に、発作はとうに治まっている。
それを考えると、今の自分の様子は明らかに異なる。
何か他に理由がありそうだ。


ヒノエが自分にやろうとしているのは、もう一人のヒノエがやったことと同じことだろう。
あのときも、身体の一部が透けたときにそれをやって事なきを得たのだ。
もう一度やれば、もしかしたら今回も、という算段だろう。
楽にしてくれるなら何でもいい。


ヒノエ自身がやってくれるのなら、尚更だ。


「……お前は、オレが何をしようとしてるのか理解してる?」

「身体が動かなくても、頭が動かないわけじゃないからね」


少しだけ顔を顰めるヒノエに、軽口を叩いてやる。
それが答え。
ヒノエがやろうとしていることを、自分が止める必要など、何一つない。


「そっか」

「うん。ただ、起きた方がいいかな?正直、起きてるのはまだ辛いんだけど」

「いや、そのままでも大丈夫。お前にこれ以上負担はかけさせられないからね」


素直に自分の現状を告げれば、ヒノエから返ってきた言葉にほっと安堵する。
事実、指の一本を動かすことさえ億劫なのだ。
例えベッドヘッドに身体を預けていたとしても、そのままの体制を維持できる自信がなかった。


「善は急げ、だ。早速始めようか」


そう言うと、ヒノエはベッドから降りて浅水の枕元へ立った。
そのまま寝ている浅水の胸元へ手を翳し、す、と息を吸い込む。
次にその口から零れてきたのは、淀みなく流れるような祝詞。


聞いたことのあるその言葉は、以前行った儀式の時と全く同じ物らしかった。





「掛け巻くも畏き隠月大神の御前に畏み曰く、」

『掛け巻くも畏き隠月大神の御前に畏み曰く、』





浅水がおや?と思ったのは、ヒノエが祝詞を唱え始めてからだった。

以前と同じように、重なって聞こえるヒノエの声。
それは、自分を助けるために、別な時空で儀式をしていたからだと知っている。
だが、今回自分の愛するヒノエはこうして隣にいる。
それを思えば、もう一人のヒノエが同時期に同じ祝詞を唱えていること自体有り得ないことだというのに。

それについて、ヒノエは何か知っているのだろうか?
聞いてみたいが、すでに祝詞を唱え始めたヒノエの邪魔をしてはならない。
そう思うからこそ、疑問の言葉を吐き出せずにいる。
聞けるのは、全てを終わらせてからか。
そう思ったときのこと。





「世の理を超え、」

『世の理を超え、』





ヒノエが唱えた祝詞の一節に、答えを見出した気がした。
思わず零れそうになった言葉を、口を押さえることでやり過ごす。










『………いつか、姫君が助けを求めた時。オレはどこまでも飛んで行くよ』










約束は、すでに果たしてもらったはずなのに。


この場にいなくても、彼はまだ自分を助けてくれるというのだろうか。


身体が近くになかったとしても、心は、気持ちは自分の元へと飛んで来てくれている。





これほどまでに泣きたいのは、どうしてだろう。





嬉しい。





そんな単純な言葉ではとてもじゃないが、今の気持ちを言い表せない。


祝詞を唱えるヒノエの気を散らさないように、胸に渦巻く感情をどうにか堪える。
ここで自分の感情に気付かれてしまっては、ヒノエの集中の邪魔になる。





「かの神の愛娘に祝福の息吹を与え給え」

『新しき神の娘に祝福の息吹を通し給え』




そのまま祝詞を聞いていれば、前回自分の耳に直接聞いた語句と、今回では違っていることに気が付いた。


だが、それが本来の姿なのだろう。
お互いが、自分の愛しい人へ贈る祝詞。


それが熊野権現からの祝福なのだから、どれほどの価値があるものか。



いつぞやと同じように、細やかな光の粒子が自分とヒノエの手の間に生まれる。
神気を感じられない今の浅水にとって、これが神気だとわかる唯一の方法。
ただ、室内にいるせいか、今日はその光すら明かりに紛れてしまいそうだ。


「もう少し、待ってなよ……」


これからヒノエがやろうとしていることに、小さく頷く。
それさえ終わってしまえば、当面の問題は何とかなるだろう。
後は、早々に解決させればいい。
そうすれば、全てが丸く収まるはず。
そう信じて。


浅水が頷いたのを見ると、ヒノエは目を閉じて胸元に翳した手で、次の呪へと移る。
指が動くのとヒノエの口から言葉が紡がれるのは、ほぼ同時。





けれど、その言葉は最後まで紡がれることはなかった。





「臨、兵、闘、者、皆、陣、烈、在、ぜっ……!」



バンッ!



「キャァッ!」


最後の一音を紡いでいる途中、突如聞こえてきた何かが弾ける音。
そして、浅水の悲鳴。
ハッと我に返れば、それまで浅水の身体を包んでいた神気が、全て掻き消されてしまっている。


一体何が起きた?


そう思ったが、今はその理由よりも浅水の方が心配だった。


「浅水っ!」


慌ててベッドの枕元へ行き、浅水の様子を確かめる。
胸元を押さえて身体を丸くしている姿は、発作を起こしているときと全く同じ物。
まさか、再び発作でも起きたのか、と冷たい汗が背中を伝う。
いつ起きるともわからない発作は、時として日に二度やってくるときもあったからだ。

発作が起きる度に、浅水は胸元を強く押さえる。
まるで、何かを堪えるように。


「浅水、浅水っ!」

「っ……だ、いじょうぶ」


思わず浅水の肩を掴み、軽く揺する。
すると、片手はまだ胸元を押さえていた物の、もう片方の手が軽く上げられる。
会話もできるようだから、発作ではないことにホッとした。


「今の、何だったわけ……?」

「オレにもわかんねぇ。ただ、わかることは神気が全部弾かれたってことだけだ」

「弾かれた……」


反芻するように言葉を繰り返してから、浅水はとあることに気付き勢いよく上体を起こした。
けれど、まだ全快していない身体は、それすらも思うようにさせてくれない。
動かすことすら億劫な手を、気力で動かしてヒノエの胸ぐらを掴み、自分の顔の側へ近付かせる。










「ヒノエは、どうなったの……?」










浅水の言っているヒノエは、目の前にいる自分じゃない。
そう理解したのは、同じ儀式を別の時空でやっている自分がいたからだ。

それは浅水にもわかっていたのだろう。
でなければ、どうなった、などと聞くはずもないのだから。





こちらで神気が弾かれても、大した被害にならないのは、神の存在が自分たちのいた世界より希薄だから。





だとしたら、神気が満ちている熊野で神気が弾かれた場合は───?





恐らく、とんでもないことになっているに違いない。
だからといって、そう簡単に連絡が取れるほど容易いことではないのだ。


「……わからない」


ゆるゆると揺る首を横に振る。
こればかりはどうしようもなかった。





「でも、神気が弾かれた理由がわからないと……お前だってこのままじゃヤバイんだ」





自分を抱きしめるヒノエの身体が、僅かに震えていることに気が付いた。
ヒノエが告げた言葉は、自分には全くわからないこと。
このままでは何がヤバイというのだろうか。


「ヒノエ、あなたは……あなたたちは一体、私の何を知ってるの?」


自分のあずかり知らぬ所で、確実に何かが起きている。
それは一体何なのだろうか。





部屋の片隅で、何かが小さく光ったのを、二人は気付く余地もなかった。







  


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