月の降る夜 | ナノ
逢瀬の約束は月夜に
手の中にある一枚のメダル。
それは次の逢瀬の約束。
文の代わりにメダルだなんて、どこか不思議な感じがした。
けれど、このメダルがあるから「彼」は再びやってくる。
私の元へ───。
濡れ縁に座れば、床の冷たさが着物を通して伝わってくる。
何か、下に敷く物を持ってくれば良かったと思いつつも、一度座ってしまったらその場から動く事が躊躇われた。
懐から、小さな巾着を取り出す。
まるでお守り袋のようなそれは、大切な預かり物が入っている。
決して無くしたりしないようにと、それを受け取った翌日に作った物だ。
初めはどこかに保管するつもりだった。
けれど、それを持っているようにと告げたのは、ヒノエ。
大切な物なら、肌身離さぬよう自分が管理すればいい、と。
口を開けて逆さにすれば、コロリと出てくる小さなそれ。
そっと指で表面をなぞる。
冷えたそれは、彫られている模様を指先に伝えてきた。
しばらく指で弄んだ後、持ち上げて空に翳してみる。
すると、キラリと月明かりに反射して小さく光った。
彼から預かったメダルは、未だ風花の手元にあった。
確かに受け取ったはずのそれを、預かったと思うのは、直感。
要は口実なのだ。
預けている物を、再び取りに来るという。
そうすれば、風花も必然的に再会することになる。
自分に渡しはしたけれど、手放すつもりがないのは何となくわかった。
「彼」がヒノエと同じなら。
考えられる手放さない理由は、一つ。
「誰からもらったのかしら?」
思いは、いつしか形となって紡がれた。
一度口に出してしまえば、それは止まることを知らない水のように溢れてくる。
「きっと、あなたのいい人よね?」
「それは姫君のご想像にお任せするよ」
誰もいないはずの虚空へ声を投げかければ、返事と共に一つの人影が現れる。
待ち望んでいた「彼」の登場に、胸が躍る。
それと同時について回るのが不安。
これまでの経験から、次に逢瀬の時間が訪れるのは、もう少ししてからだと思っていた。
嬉しい誤算。
けれど、ざわついたこの予感は何だろう。
まるで、これから起こる何かを暗示しているかのように。
しっかりと形にならないのは、きっと目の前にいる「彼」のせい。
自分の知っているヒノエと同じ空気を感じる。
何もかもを包んでくれるような、そんな空気。
だが、彼の腕は自分以外の姫君を包むための物。
その温もりを感じていいのは、自分じゃない。
そう思った途端、胸に込み上げてくる孤独感。
自分にとって、ヒノエがどれほど大切なのかを改めて思い知らされる。
「そんな顔をして、もしかしたらオレを誘ってる?」
「なっ!」
耳元で囁かれた次の瞬間。
目の前で輝く二つの紅玉が、艶を持って輝いた。
それだけで鼓動が高鳴るのがわかる。
耳朶に触れた吐息が熱い。
「そんなわけっ、ないでしょう!」
「何だ、残念。姫君が願うなら、どこへなりともお供するつもりだったんだけど?もちろん、褥の中まで、ね」
「その気もないのに、そんなこと言わないで頂戴!」
悪戯に細められた目に、それが冗談だとわかると、風花は柳眉をつり上げた。
冗談だとわかっているから。
否。
冗談だからこその怒り。
「やれやれ、あまり怒るのはいいことじゃないよ。それと、身体を冷やすこともね」
そう言って、ふわりと肩に何かが掛けられる。
それが目の前の人の上着だとわかるのは、視界に入った上着の裾から。
「ありがとう」
「どういたしまして」
自分の身を案じてくれたことに素直に礼を述べれば、これまた素直に返される。
そんな態度にすっかり毒気を抜かれてしまい、怒る気すら抜けてしまう。
そこで自分の手の中に未だあるそれを思い出した。
「これ、返すわね。あなたの姫君からもらったんでしょう?」
「まぁね」
もう一度、メダルを渡しがてら確認のために問えば、すんなりと肯定される。
手のひらにメダルを乗せれば、そのまま強い力で引き寄せられる。
何、と思う間もなく、座っていたはずの風花はしっかりとその腕に捉えられていた。
自分のよく知る甘い香り。
しっかりと抱きしめられているせいで、身動きすら取れない。
けれど、この腕の強さは知っている。
顔が見えない。
ただそれだけなのに、自分のよく知るヒノエと錯覚してしまいそうになる。
けれど、決定的に感じる違和感のおかげで、そんな錯覚すら払拭されてしまう。
「あなたがここにいる間、ヒノエは一体どこで何をしているの?」
いつも胸の中にあった疑問。
同じ時空に、同じ人間は存在できない。
だとしたら、目の前の彼がこの時空にいる間、ヒノエは一体どこにいるというのだろうか。
「さてね。姫君はどこだと思う?」
どこか楽しそうな声が上から聞こえてくる。
質問しているのはこちらだというのに、わざわざ質問で返してくる辺りがやはりヒノエ。
だが、質問に質問で返してくる時は、必ず何かのヒントが隠されているのだ。
それが答えとも取れるような、ヒントが。
「……あなたのいる、時空?」
ハッキリと断言出来ないのが悲しい。
けれど、こうも頻繁に時空を越えてくるのだ。
毎回違う時空に行っているということは考えにくい。
果たして、意図的に時空を越えているのがどちらのヒノエなのかは、わからないが。
そっと解放される身体が夜風に震える。
こうして身体を離されたことが答えなのだろうか。
するりと頬を撫でる手は、自分の知っている手と同じ。
絡む視線は、どこか切なく、憂いを含んでいた。
「ねぇ……」
何が彼をそうさせているのか。
それを聞こうとして口を開くが、それよりも先に言葉を紡がれてしまう。
「一度失っただけでも辛いのに、それを再び失うことになったら、次はどんな地獄が待ってるんだと思う?」
その言葉に、思わず身を固くする。
過去に愛しい人を失った自分たち。
それだけに、聞き逃せない。
自分だったら、再びヒノエを失うことには耐えられない。
世界は暗闇に閉ざされてしまうだろう。
失うことの恐怖は誰にだってある。
既に一度失うことを知っている自分たちは、誰よりもそれに恐怖を覚える。
わざわざ問うてくるということは、喪失の恐怖が身近にあると言うことか。
それとも、いずれ訪れるかもしれない未来に怯えているのか。
恐らく前者だろうと考える。
熊野別当たる者、いずれ来る未来に臆病風を吹かれるなど、笑い話もいいところだ。
「弱音を吐くなんて、あなたらしくないんじゃない?」
今の状況がわからない自分が言えるのは、彼に発破を掛けることくらい。
すでに何かは起きているのだ。
自分がそれを知らないだけで。
「ふふっ、そうだね。オレとしたことが、らしくないな」
そう言って前髪を掻き上げる姿が、どこか扇情的で。
だからこそ、ふいに表情が硬くなったことに訝しんだ。
「まずいな……。まさかそこまで早いとはね」
ブツブツと呟かれる言葉は意味不明。
けれど、今この瞬間に何かが起きたのだと言うことは、空気でわかった。
感じる疎外感。
自分だけが何もわからないまま。
せめて自分にも何か手伝えることがあるのなら。
口に出せないのは、拒絶されるのが怖いからか。
何事も、言ってみなければどうなるかわからない。
もしかしたら、ということもある。
意を決して、小さく息を吸い込む。
「ねぇ」
「風花」
言葉はまたしても遮られてしまう。
自分の名を呼ぶ、鋭いまでの声。
それが逆に、彼の余裕のなさを現している。
こんな彼は見たことがない。
ヒノエですら、滅多にその余裕を崩したことはないというのに。
それほどまでに切羽詰まっていると言うことか。
「今から少し、出掛けようか」
「え……今から?」
紡がれた言葉は、意外な物で。
何を考えているのか、胸中は計り知れない。
「そう、ちょっと本宮までね」
「本宮に、何かあるの?」
示された場所は、本宮。
ヒノエと住んでいるこの邸は、本宮の離れに当たる場所。
すぐ側が森のせいで、同じ敷地であるということを忘れがちになる。
離れとはいえ、本宮までは歩いて三十分ほどかかる。
「そうだね、あるといえばあるかな。でも、それには姫君の力を借りなきゃいけないんだ」
「私の?待って、私は何の力もないわ」
考えてみるが、望美のように白龍の神子でもない風花は、至って普通の人間である。
多少、剣は使えるが、それだけ。
力を貸せるほど、特殊な物は持っていない。
そう告げるのに、目の前にいるヒノエは全く取り合ってはくれなかった。
「寒くないように、仕度しておいで。オレはここで待ってるから」
早く、と促されて風花は渋々と部屋へ戻った。
本宮へ行くのなら、あまり下手な格好は出来ない。
けれど、こんな夜更けに着飾ったところで仕方ない。
動きやすい着物を選び、手早く着替える。
その上に、綿入りの羽織を羽織った。
慌てて彼の元へ戻れば、そこにあったのはまるで一枚の絵のような光景。
月の光を全身に浴びて、遥か遠くを見つめている一人の青年。
一瞬、息をするのも忘れて見とれてしまう。
「来たね。なら、行こうか」
風花の姿を確認すれば、手を差し出してくれる。
その手を取るべきかどうか悩んだのは、咄嗟の出来事。
「ねぇ、教えてくれない?」
「何をだい?」
「一体、何が起きているのかを」
自分の知らない所で、何がどうなっているのか。
それを理解しない限り、自分は何をするのも躊躇ってしまうだろう。
真っ直ぐに二つの紅玉を見つめる。
やがて、どうあっても話さないうちはこの場を動かないと悟ったのか、嘆息をつく声が聞こえた。
「わかった、姫君に話すよ。でも、手遅れにならないうちに、出発はしたいんだけどね」
「わかったわ」
話す、という言葉を聞いて、小さく頷く。
いつだってヒノエは嘘は言わない。
話すと言ったからには、ちゃんと話してくれるだろう。
自分のせいで手遅れになってしまうのは忍びない。
本宮へ着くまで時間はある。
それまでに、聞いておきたいことは聞いておこう。
草履を履いてヒノエの元まで近付けば、再び手が差し伸ばされる。
その手を取れば、しっかりと握りしめられた。
「実は───」
本宮への道すがら、教えてもらった話は、信じられない物だった。