月の降る夜 | ナノ
蒼い月の織りなす夜
カタンという物音で私は目を覚ました。
ヒノエは先週から航海に出ている。
外には烏が控えてるはずだから、下手な侵入者はやってこれないはず。
だとしたら、一体誰―――?
近付いてくる気配に、私は刀を手に取り身構えた。
「風花?起きてるかい」
けれど、聞こえてきた声に、思わず手にしていた刀を落とした。
「ヒノエ……?」
どうして?
航海から戻ってくるのは半月後のはず。
いくらヒノエでも、仕事を終わらせてこれるはずがない。
今頃は海の上のはず。
「どうしてヒノエがここにいるの?」
確認も込めて、部屋の中から問い掛ける。
もしかしたら、ヒノエじゃないかもしれない。
その気持ちは拭えなかった。
「用心深いのはいいことだけど、オレがここにいる理由を知りたいなら、外に出てきなよ。月の下での逢瀬っていうのも、なかなかに風情があるだろ?」
クスクスと小さな笑いを零すヒノエは、気分を害した様子もない。
私は躊躇ってから、夜着の上に一枚羽織って部屋を出た。
深夜だというのに明るいのは、今が満月のせいだろうか。
廊下に出れば、ひんやりと冷えた床。
目的の人物を探せば、庭の中程に立ち、天を仰いでいた。
その姿が、いつものヒノエと違うように見えるのは、私の気のせい?
「姫君」
私がヒノエに見とれていれば、近くまで来ていた彼に呼ばれ、ハッとした。
「本当にヒノエなの?」
「そうだよ。それとも、姫君の目にはオレ以外の誰かに見えるわけ?だとしたら、オレはそいつに嫉妬しなきゃいけないんだけど」
「……その言い方は本当にヒノエね。でも、海の上にいるはずのあなたが、どうしてここに?」
それが最大の謎。
私に会いに来てくれというのなら夢でも嬉しいけれど、これが夢じゃないことは私自身が知っている。
でも、いつもなら私を抱き締めてくれるはずなのに。
今日はどうしてそれがないのだろう。
こんな風に冷える夜は、あなたの腕で私を暖めてほしいのに。
ヒノエはその場から動く気がないのか、じっと私を見ているだけ。
「今日は月が綺麗だからね。こんな夜は、不思議なことが起きるのさ。だから、姫君の望む物はお預けだよ」
そう言って、ヒノエはまた月を仰ぐ。
それよりも、私は自分の心中を悟られて、恥ずかしくなった。
ヒノエには叶わない。
私が何を望んでいるか、全部お見通し。
これ以上ヒノエを見ていられなくて、私も月を見た。
蒼白い月は、いつもより大きく見える。
まるでそれが一つの灯りのように、世界を照らす。
月光って、こういうことをいうんだ。
太陽の光とはまた違った風景が目の前に広がる。
でも、不思議なことって何?
首を傾げながらヒノエを見れば、柔らかく笑んでいる彼の姿。
こんな表情も出来るんだ、と思わず息を呑んだ。
どうしてだろう。
今日のヒノエは、やっぱりどこか違う。
どこが違うのかを上げようと思うのに、その違いが出て来ない。
でも、確かにそこにある違和感。
「ふふっ、姫君はまだわからない?」
楽しそうに顔を綻ばせるヒノエ。
私は、その違和感を確かめたい。
「ねぇ、ヒノエ。私を呼んでくれる?」
「ん?姫君は何か心配ごとでもあるのかな?」
ささやかな私のお願い。
それが、私の感じていた違和感を、確かな物に変えた。
手にしたままの刀の切っ先を、彼の首元へ向ける。
抜き身のそれは、私か彼が少しでも動けば、その首を傷付ける。
刀を向けられているにも関わらず、彼は楽しそうに目を細めるだけ。
「あなたは誰?少なくとも、私の知っているヒノエじゃないわ」
そう。
感じていた違和感は、名前。
いつもなら私の名を呼んでくれるはずの唇は、今日に限って呼んでくれない。
唯一呼んでくれたのは、部屋の外からの呼び掛けだけ。
それ以外は「姫君」と、他の女性と同じように呼んでいた。
そんなことにすら気付かなかったなんて。
もしかしたら、ヒノエに姿を似せて、この熊野をどうにかしようと考えているのかもしれない。
そう思うと、刀を握る手に力が入った。
「さすが、熊野別当が選んだだけはあるね。でも、姫君にもわかってるんだろう?」
言って、不敵に口元を斜めに引き上げる。
そんな顔をされたら、わからないなんて言えないじゃない。
だって、それは私のヒノエが見せる表情の一つだもの。
「オレも、熊野別当・藤原湛増ってことをさ」
名乗りを上げた彼に、私は刀を下ろした。
いくら別人とはいえ、彼に刃を向けている姿を見られたら事になる。
私の知らないもう一人のヒノエ。
どこから来たのか、とか、どうやって来たのかは考えるまでもない。
でも、彼が時空を越える理由があるのだろうか。
「言ったろ?こんな月の夜は不思議なことが起きる、ってさ」
「もう、心の中を読まないでくれる?」
「読まなくても、姫君の顔に出てるよ」
頬を膨らませて、つい、と顔を背ければ、クツクツと喉を鳴らしているのが聞こえてくる。
例えどのヒノエでも、私は彼に弱いのかもしれない。
「ねぇ、あなたがここにいるってことは、ヒノエはやっぱり海にいるのよね?」
ふと、湧き上がった疑問。
本当に彼が時空を越えてきたのだとすれば、私の知っているヒノエはこの場に存在しないことになる。
そんなの、絶対に耐えられない。
真剣な顔で尋ねれば、彼はぱちくりと目をしばたかせ、あぁ、と声を上げた。
「心配しなくても、オレはそろそろ消える予定だから。そうだな……もう少し、いい子にして待ってな。そしたらすぐに、お前のところに帰ってくるよ」
彼の言葉が酷く遠くに聞こえる。
まるで、フィルター越しに聞いているように。
それと同時にやってくる睡魔。
さっきまでは、眠気なんてなかったのに。
まだ、聞きたいことがあるの。
重くなる体は、すで私の意志に反していうことを聞いてくれない。
瞼が重い。
必至に目をこする私の姿に、彼が何か言っている。
何?何て言ったの?
意識がなくなる直前に私が見た物は、空に輝く大きな蒼い月だった。