月の降る夜 | ナノ
天から舞い降りた、
この気持ちをどう表せば良いか、私は知らない。
違う時空と神をも巻き込んだ一つの運命は、やっと終焉を迎える。
ホテルから一路タクシーで朝比奈まで。
車内に流れる沈黙は、息苦しくはない物のどこか奇妙だった。
ヒノエは隣りに座る彼女を、浅水の中にいるカノエは車内から流れるネオンを見ていた。
初めて見る光景ならば浮かれても仕方ないと思うが、隣りに座るカノエからはそんな様子は見当たらない。
もっとも、今の状況では浮かれていられるはずもないが。
本当ならば、今頃ホテルで甘い時間を過ごしているはずだった。
だが、それすらも許してくれない事情が今は出来た。
それが、朝比奈へ向かう理由でもあるし、浅水の身体にカノエがいる理由でもある。
「……一つ、聞いてもいいかい?」
訊ねれば、窓の外を眺めていたカノエがヒノエを見た。
その瞳に宿る光は、強い。
いい目だ、と思ったのは別当としてか。
「私に答えられることならば」
返ってきた答えに、当たり障りのないものなら答えてくれるのだとわかる。
おそらく、カノエに関することや、その背後については訊ねても答えてくれないのだろう。
もしくは本当に答えられないか。
恐らくはそのどちらも当たっている。
無理に訊ねて、協力を撤回されても厄介だ。
それに、自分が今聞きたいのは、彼女のことじゃない。
気になってはいる物の、優先順位を考えればカノエのことは下になってしまう。
「あっちでも儀式を始めるって言っただろ?あの反動じゃ、被害は尋常じゃないと思うけど?」
現代よりも神の力が強い自分たちの世界。
恐らく、あちらの自分はかなりの衝撃を受けているはずだ。
それなのに、同時刻に儀式を始められるのだろうか。
「そうね、別当殿の魂と魄が離れそうになるくらいには」
「何だって?」
さらりと返された言葉に、思わず身を乗り出す。
魂と魄が離れると言うことは『死』に直結する。
だとすると、一緒にいた風花も……。
そう考えてヒノエは小さく舌打ちした。
自分だけならまだしも、風花まで巻き込んでしまったのなら話は別だ。
確かに、浅水のことは何物にも代え難い。
だからといって、他者まで巻き込むのは愚かとしか言いようがない。
「大丈夫。あちらには私がいるわ」
そんなヒノエの様子を知ってか知らずか、カノエから再び声が掛けられる。
素直な言葉は、ともすればそれが直接答えだとは気付かない。
言葉を一度反芻してから、彼女の真意を知るために一度カノエを見る。
その瞳は、どこまでも真っ直ぐで。
嘘や偽りを言っているようには思えない。
「なるほどね。だからオレの前に現れたのは精神体ってわけだ。ま、その方が確かに都合がいいけど」
「さすが、別当殿」
一つの言葉から、十もの意味を考える。
だからこそ、熊野の民は別当を心酔する。
もちろん、カノエも。
「ヒノエ。そう言っただろ」
「そうだったわね、ヒノエ」
呼び方を訂正すれば、カノエは小さく笑んだ。
「それとね、風花は無事よ。ヒノエが守ったおかげで、傷一つついていないわ」
「そ、か。よかった」
別な時空にいる自分が選んだ愛しい人。
傷一つないと知ってホッと安堵する。
だが、愛しい人と愛し子を遺して逝ってしまったら、あちらの自分はどれほど後悔するのだろうか。
「もう少しすれば別当殿も目覚めるはず。そうすれば、儀式は始められる」
自分に言い聞かせるように呟くカノエに、ヒノエは目をすがめた。
同時刻に二つの世界に存在する。
例え肉体と精神体に別けたとして、果たしてそんなことが出来る人間がいただろうか。
否。
そんなことが出来るとしたら、既にそれは人の領域ではない。
それは、自分以外の人間の身体に入るということもそう。
ならば、カノエは一体何なのだろうか。
彼女から感じられる神気は、浅水と同等の物。
けれど、神と呼ぶには弱い神気。
力を失った白龍ですら、これよりは強い神気を持っていた。
「いずれ、時が来れば……」
ヒノエの視線を感じて言いかけた言葉は、最後まで言うことは出来なかった。
何故なら、目的地へ到着したタクシーが停車したからだ。
料金を払って外へ出る。
冷えた空気が肺に痛い。
降っていた雪は止み、地面にその痕跡を残すのみ。
空を見上げれば、白い満月が世界を照らしている。
外灯のない場所も、満月のおかげでよく見えた。
「行こうか」
「ええ」
足下が危ないから、と手を差し出せば、素直にその手を取ってくる。
石段を登れば、次第と強くなる神気。
それは、自分にも馴染みのある物。
そのことを不思議に思っていれば、朝比奈は自分たちの世界で熊野社がある場所だと教えられる。
そのことに、なるほど、と納得してしまったのには理由があった。
熊野権現の力を得るには、彼の神と縁深い場所の方がいい。
それと同時に、自分たちの力が最大限に発揮されるのも。
本殿にたどり着けば、濃密な神気を感じることが出来た。
これほど強い神気があれば、あるいは。
そう思わずにはいられない。
「ヒノエ、こっち」
「っ、カノエ?」
不意に、ヒノエの手を逆に掴んで駆け出したカノエに、思わず問いかける。
わけもなく行動するようには見えないから、恐らく何か理由あってのこと。
だが、ここで理由があるとすれば一つしかない。
「別当殿が目覚めた。私たちも、急がなければ」
告げられた言葉に、やはり、と思う。
今頃、本宮で自分たちの準備が終わるのを待っているのだろう。
ホテルから朝比奈まで移動していた自分たちと違い、始めから本宮にいたのだ。
あちらの自分が目覚めれば、すぐにでも儀式は始められる。
けれど、と思う。
恐らくこれが最後のチャンスだ。
仮にこれを逃したら、自分は浅水を繋ぎ止めることなど出来ない。
『一度失っただけでも辛いのに、それを再び失うことになったら、次はどんな地獄が待ってるんだと思う?』
いつか、風花に告げた自分の言葉。
自分と同じ思いをした彼女だからこそ告げたが、今思えば単に八つ当たりでしかなかったように思う。
その言葉に、誰よりも恐怖を抱いているのは自分自身だというのに。
それを認めたくなくて、風花に告げてしまったことを申し訳なく思う。
あちらの自分が魂と魄に別れそうになったと聞いて、あの言葉に捕らわれているのでは、と思った自分がいた。
いらぬ不安を与えてしまったのなら、それは自分の責任だ。
「大丈夫」
沈みがちになる思考を浮上させたのは、カノエの言葉。
思わず彼女を見れば、ふわりとした笑みを浮かべている。
「浅水は失わせない。そのために、私がいるのだから」
それは宣誓。
神が聞いているかも知れないこの場所で、それをするということは、余程の自身があるというのか。
それとも、ただのハッタリか。
だが、少なくともハッタリではないように思う。
感じるのは、安心感。
自分とそう変わらぬ少女に、何故そんな感情を抱くのかはわからない。
けれど、カノエがここにいるだけで、彼女の言葉が現実の物になりそうな、そんな気がする。
「それじゃ、始めましょうか」
気負わない、自然な言葉。
まるでこれからゲームをするかのような、そんな軽い言葉。
実際にこれからすることは、そこまで軽い物ではないのに。
「ああ」
小さく頷いて、カノエの手を取る。
手のひらから伝わる熱は、浅水の物。
例え今この身体を動かしているのがカノエだとしても、鼓動を刻んでいるのは確かに浅水なのだ。
軽く取った手を握れば、カノエの方からも握り返される。
どちらともなく息を吸い込めば、まるでタイミングを見計らったかのように紡がれる祝詞。
「掛け巻くも畏き隠月大神の御前に畏み曰く、」
「掛け巻くも畏き隠月大神の御前に畏み曰く、」
自分たちが祝詞を上げると同時に、同じ言葉が耳に届く。
あちらでも、無事に儀式が始まったのだと知ると、ようやく目の前の事に集中できるような気がした。
泣いても笑ってもこれが最後だ。
失敗は、決して許されない。
「汝の加護たる大いなる光、」
『汝の加護たる大いなる光、』
単音で届くカノエの声。
けれど、こちらとあちらで声が違うのは、こちらのカノエが浅水の身体を通して祝詞を上げているからか。
浅水が熊野の神子として、祝詞を上げる日はもう二度と来ないのだろう。
ならば、これで見納めか。
中身がカノエだとしても、浅水の姿で祝詞を上げていることに変わりはない。
瞳を閉じ凛と正した姿勢は、どこまでも清浄。
「その御力を注ぎ給え」
『その御力を注ぎ給え』
カノエが言い終わると同時に、ヒノエの身体を通して浅水へと神気が注がれる。
それを感じながら、ヒノエは力の流出が終わるのを待った。
手のひらを通して神気が伝わったのを確認すれば、ヒノエはするりとその手を離す。
すると、浅水にいつか儀式を行ったときと同じように、カノエが手と手を合わせ熱を逃がさないように胸に抱く。
「臨、兵、闘、者、皆、陣、列、在、前」
『臨、兵、闘、者、皆、陣、列、在、前』
カノエの後を継いで九字を切るのはヒノエ。
強い神気がその場を包み込む。
だが、一度失敗しているそれは、確実に成功したとわかるまで気が抜けない。
キィー……ン
耳に届いた金属音。
カノエを見れば、未だ瞳は閉ざされたまま。
失敗した?
そんな嫌な思いが胸の内を過ぎる。
だが、次の瞬間。
空から一筋の光が真っ直ぐに浅水へと降り注いだ。
まるで目が眩むほどの眩い閃光。
それは、ホテルにカノエが現れたときと同じ。
だが、それとは明らかに光の量が違いすぎる。
「カノエッ!」
それが神気だというのはわかっていたが、まさかここまでとは思いもよらなかった。
しばらくして光が収まれば、ようやく今の状況を目にすることが出来る。
光に貫かれた彼女は、未だ光の中にいた。
全身が光に満ちている。
まるで、月から舞い降りたばかりの天乙女のようだ。
その光が全て浅水の中に収まると、ようやくカノエは目を開けた。
確認するかのように、身体を見回したり、手を握ったり開いたり。
それを幾度か繰り返して、気が済んだのかヒノエへと顔を向けた。
「その様子じゃ、成功したみたいだね」
「えぇ、これで浅水の命を脅かす物は一つだけになったわ」
全て終わったのかと思いきや、そうではないと言うカノエに、思わず顔を顰める。
その表情に、カノエの笑みが深くなった。
「白龍の神子と八葉は、何を追って現代までやって来たの?」
まさかカノエの口から白龍の神子や八葉といった言葉が出てくるとは、思いもよらなかった。
呆然としているヒノエに、つい声を上げて笑い始めれば、ヒノエの顔に不機嫌がありありとわかる。
だが、そのおかげでカノエが何を言いたいのかは理解できた。
「荼吉尼天、ね」
アレをどうにかしない限り、浅水の発作は治まらないのだろう。
そして、カノエが何もしないということは、荼吉尼天は自分たちで何とかしろということ。
「言われなくても」
ニ、と口角をつり上げて言えば、カノエは満面の笑みを浮かべた。
けれど、それも一瞬。
ふと空を見上げてから、ヒノエを見たカノエの表情に笑みはなかった。
「ねぇ、別当殿は浅水を信じていられる?」
「何だって?」
カノエが口調を改めたことで、時間なのだと知る。
彼女が元いた場所に帰り、浅水が自分の元へと戻ってくる。
「これから先、浅水に何があっても、あなたは彼女を信じられる?」
「当然だろ」
そんなこと、考えるまでもない。
ハッキリと言い切れば、カノエは嬉しそうに微笑んだ。
「何があっても、浅水を信じて。そうしたら、私は……」
「カノエッ!」
次第に遠ざかる声にヒノエは慌てた。
早すぎる。
自分はまだ、その言葉を彼女に伝えていない。
「ありがとな」
その言葉が届いたのか、最後にカノエは微笑んでいるように見えた。
カノエが消えると同時に、浅水の身体がぐらりと自分の方へ倒れ込む。
それをしっかりと抱き止めて、天を仰ぐ。
小さな白い結晶が、再び天より舞い落ちる。
降ってきた、と思うと同時に、早く移動しなければ浅水が風邪を引くと頭のどこかが言っている。
それでも、ヒノエは動くつもりなどなかった。
余韻に浸っている、と言われればそうなのかもしれない。
目の前で見せられた奇跡は、自分であっても信じられない物だ。
まして、カノエという少女。
消えてしまった今でも彼女の存在が、自分の中に息づいている。
「……んっ……」
「浅水?」
腕の中で小さく身じろぎした彼女に、そっと声を掛ける。
ぼんやりとした瞳は、未だ焦点を結んではいない。
けれど、自分が今いる場所を確認して、ヒノエを見たときには普段のそれと同じだった。
「……終わったのね」
ポツリと呟かれた言葉に、思わずヒノエの目が見開かれる。
カノエは「浅水は眠っている」と言っていた。
だが、今の浅水の言い方では、何が起きたのかを全て理解しているようだ。
「浅水、何があったか覚えてるのか?」
恐る恐る尋ねれば、首を横に振られる。
どうやら、身体中に満ちている神気によって、全てが終わったと理解したらしい。
どうして自分がこの場所にいるか、ホテルで意識を失った後のことは覚えていないらしい。
「お前が無事で、よかった」
そっと抱きしめられると、ヒノエのぬくもりと匂いが自分を包む。
背中に腕を回してしっかりと抱き返せば、更に強く抱かれた。
「ありがとう、ヒノエ」
これ以上の言葉は出てこなかった。
自分のために、力を貸してくれたもう一人のヒノエと、そのヒノエの想い人。
彼らの助力がなかったら、こうして自分は存在することすら叶わなかったかもしれない。
そして、もう一人。
自分は直接目にすることは出来なかったその少女。
だが、彼女の存在は神気を通して感じることが出来た。
言葉では言い表せないこの気持ち。
いつか、返せるだろうか。
「浅水」
手を差し出してくるヒノエの手を取れば、もう離さないと言わんばかりにしっかりと掴まれる。
それを握り返せば、伝わってくる熱が愛おしい。
はらり、はらりと落ちてくる雪が、朝焼けに反射して光のように輝いた。
あなたと出会うことが必然ならば、私がここにいることもまた運命の理。
運命の悪戯は、定められた物だったのか。
それを証明できるのは、きっと熊野権現だけ。