月の降る夜 | ナノ
光より来たる天乙女
自分の身体よりも優先される物がある。
私なんかより、彼を失うことの方が大事に決まっているでしょう。
連絡を取れないと言うことがこれほどまでに辛いことだなんて、ね。
お願い。どうか、無事でいて───。
「ねえ、ヒノエ……」
質問に答えてくれない彼に焦れて、再度声を上げたときだった。
視界の隅に、小さく光る何かが入る。
もちろん、そんな場所に何か光るような物があるはずもない。
ならば、それは目の錯覚。
そう思えば、その光は明滅を繰り返し、次第に輝きを増してくる。
その頃にはヒノエも気付いたようで、浅水の視線の先を振り返るようにして見ている。
「何、あれ……?」
「さぁ、何だろうね。悪意は感じられないようだけど……ちょっと待ってな」
警戒した様子で浅水から離れれば、単身、その光へと歩み寄る。
いくら悪意が感じられなくても、不審であることには変わらない。
まるで何かを訴えるようにも感じられるそれは、ヒノエが近付く度に輝きを増す。
ヒノエの後ろ姿が、どこか遠くへ行ってしまうようにも感じられて。
どうしようもない焦燥感。
彼も、自分に対して感じていたのだろうか。
「ヒノエッ!」
名を呼べば、それに応えるように軽く手が上がる。
大丈夫、という合図だと知ってはいるが、胸に広がった気持ちは消えてはくれない。
ヒノエが光を包むように両手を伸ばす。
次の瞬間。
これまで以上に強い光が、部屋全体を包み込む。
「何っ?」
まるで、光で目を焼かれたのではないかと錯覚してしまう。
白一色で染め上げられた視界は、何も映してはくれなかった。
今いる部屋も、
ヒノエも。
自分の身体ですら、今の浅水には映らない。
一体何が、とすでに何度繰り返したかわからない言葉を呟く。
─── ごめんなさい。少し、眠っていて。
浅水の耳元で、女性の声が聞こえた気がした。
もちろん、それが誰かなど確認できるわけもない。
そもそも部屋の中には自分とヒノエしかいなかったのだ。
この光に紛れて部屋に入ってきたとでもいうのだろうか。
─── 全てが終わったら、ちゃんと返すから。
返すとは一体何?
問い返したかったが、突如やってきた強烈な眠気に、口を開くことさえ億劫で。
そのまま、浅水の意識は深く沈んでいった。
部屋中を埋め尽くしていた光が収まれば、ヒノエの手の中には何もなかった。
周囲を見回しても、そこは何もなかったかのように静寂を守っている。
今のは一体何だったのだろう。
そう思いながら、ヒノエは浅水を振り返った。
「っ……!浅水っ!」
先程までベッドに上半身を起こしていたはずの浅水が、今はベッドに力なく横になっている。
こちらを見ていないことから、意識がないことは容易に想像がつく。
「浅水、浅水っ!」
慌てて浅水の元へ駆け寄り、小さく身体を揺すりながら声を掛ける。
けれど、意識が戻ることはない。
短い時間で、彼女の身体に一体何が起きたというのか。
『彼女は大丈夫よ。ただ眠っているだけ』
「誰だ!」
突然聞こえてきた第三者の声に、鋭い誰何の声。
気配は感じなかった。
それ以前に、部屋には鍵を掛けていたはずだ。
その鍵を開けてきたとでもいうのだろうか。
できたのは、光によって視界が奪われたあの短い時間だけだ。
短い時間で、部屋の鍵を開けて侵入したというのなら、相当の手練れ。
そう頭の中でまとめると、ヒノエの気配が瞬時に殺気立つ。
『そう警戒しないで。私はあなたたち二人に危害を加えるつもりはないわ』
いくら危害を加えないといわれても、怪しい人物に警戒しない人間がいるのだろうか。
女性に優しく、が熊野男子のモットーだが、いきなり現れて恋人との甘い逢瀬を邪魔されたとあっては、話は別だ。
「悪いけど、はいそうですかって簡単に……」
言いながら、警戒心を解かずに声のした方を振り返ったヒノエは、目の前の光景に思わず絶句した。
年の頃は自分とそう変わらない、女性の身体が透けている。
色彩はあるが、身体を通して向こう側の景色が確かに見えるのだ。
これを「透けている」意外に表現できる方法を、ヒノエは知らない。
だが、その姿を見て、ヒノエの警戒心が更に強まったのは紛れもない事実。
『大丈夫、私は怨霊じゃないわ』
怨霊。
その言葉と存在を知っているのは、現代では限られている。
ましてや、自分を怨霊じゃないと言い切るのは、何か魂胆があってのことか。
「姫君の言葉なら信じたいところだけど、生憎そんな姿を見ちゃ信用ならないね」
『あら、熊野別当なら私が悪意ある物かどうか、見分けはつくと思うけれど?』
くすくすと、どこか楽しそうに言う言葉に裏は感じられない。
僅かにヒノエの顔が顰められる。
けれど、それも一瞬で、瞬き一つする頃には普段と変わらない物に戻っている。
(オレが熊野別当だと知っているなんてね)
ますますもって怪しい。
そう思うが、彼女が此方に悪意を持っていないのも間違いじゃないだろう。
彼女から感じる気は怨霊の持つ負の気より、自分たち神職が持つ清浄な気。
否。
むしろ、神気に近い。
浅水のように神に愛されているならまだしも、徒人がそう簡単に神気を持ち得るだろうか?
有り得ないことではないが、それは限りなく不可能に近い。
そんなことを思っていれば、こちらの考えていることがわかったのか、少女は苦笑を浮かべていた。
『……別当殿にとって、彼女が絶対の存在であるように、私にとっても浅水は絶対の存在。唯一無二の存在なの』
どこか言葉を探すように、それでいてハッキリと断言する。
どうして浅水の名前を知っている?
そう思ったが、彼女が現れる直前まで、自分は浅水の名を呼んでいた。
もしかしたら、それを聞かれていた可能性が高い。
「浅水は眠ってるって言ったね。それは姫君がしたのかい?」
こうして会話をしていても起きる気配がない。
人の気配がするのに浅水が起きないというのは、余程のことだ。
かといって、狸寝入りをしている様子もない。
本当に眠っているのだというのは、嫌でもわかる。
一刻の猶予も鳴らない今、いちいち詮索される必要がないのは有り難い。
けれど、逆に不安にもなる。
自分は、自分たちは間に合わなかったのではないのかと。
二度目の儀式は失敗。
それに加え、あちらの状況もわからない。
かろうじて上下する胸で、生きていると言うことを判断するしかない。
『ええ。彼女に説明する時間も惜しいのでしょう?それに、眠ってもらった方が、浅水の負担も減るわ』
まさにその通りである。
だが、どうしてこの少女がそれを知っているのだろう。
此方の事情を知っているのは、自分と別な時空に存在する自分だけ。
浅水や風花は、何かが起きていると知りこそすれ、詳しい事情は知らないのだ。
他の仲間にすら、教えてはいない。
それなのに、どうやって。
「姫君の名前を聞かせてもらっても?」
『人に名を訊ねるなら、先に名乗るべきじゃないの?』
訊ねれば、微笑を浮かべながら逆に質問で返ってくる。
どこか身近な人物が一瞬頭を過ぎったが、有り得ないとその考えを打ち払った。
「そうは言っても、姫君はオレの名を既に知ってるんだろう?名乗る必要はないと思うけど」
熊野別当だと知っているのなら、その名も知っているはず。
そう目星をつけ、敢えて名乗らなければ何かを思案するように顎に手を当てている。
『名乗りたいのは山々だけど、私は名乗れる名前を持っていないもの』
「どういう意味だい?」
『どういう意味だと思う?』
またしても質問に質問で返される。
これでは堂々巡りも良いところだ。
名乗りたいけど名前がないから名乗れない。
一体何の謎かけだろうか。
名前は、親が子に与える最初の贈り物だ。
それをもらっていないとなると、生まれてすぐに捨てられでもしたのか。
だが、それはないと頭のどこかで否定している自分がいる。
目の前の彼女が身に纏っている物は───透けているため、判断に多少苦しむが───どれもが一級品だ。
誰かに拾われたとして、一般市民が高価な物を身に纏えるはずがない。
だとしたら、それなりの身分ある姫君だろう。
そう思うこそ、名前を持っていないという言葉が引っかかる。
何らかの理由で、自分には名乗れないだけなのか。
それとも、本当に名乗るべき名前を持っていないのか。
判断に悩む。
『けど、そうね。呼び名がなければ不便かしら』
考え事をしていれば、そんな声が聞こえてきて。
思わず少女の顔を見れば、そこには悪戯を考えているような、そんな表情。
ヒノエと視線が合った瞬間、口角を斜めにつり上げた。
『私のことは……カノエと呼んでもらえる?』
明らかに本名ではないとわかるそれ。
自分の名前と似ているのは、間違いではないだろう。
何らかの意図があってそれを名乗るのか。
それとも、何か意味があってのことか。
「ふうん……カノエ、ね」
『そう、カノエ。ヒノエと似てるわね』
やはり自分の名前を知っている。
そのことに再び警戒心が頭をもたげ始めたが、ふわり、と微笑むその表情を見てしまえばそれすらも忘れてしまう。
何か引っかかるのはどうしてだろう。
自分は、この少女を知っている……?
そう思い、過去を振り返ってみるが、生憎と彼女と顔を合わせた記憶はない。
だとしたら、どうして。
『……別当殿にとって、彼女が絶対の存在であるように、私にとっても浅水は絶対の存在。唯一無二の存在なの』
不意に思い出した、先程の言葉。
自分にとって、浅水はかけがえのない存在だ。
けれど、彼女にとってもそうなのだと言う。
その言葉が指し示す物は一つ。
「そう、いうことかい」
ようやく結論に辿り着いたような気がする。
改めて少女の姿を上から下まで見やる。
緩く癖のついた髪は明るい茶色。
片耳で揺れている銀の装飾品。
そして、
『どうかした?』
嫣然と微笑む様は、瞳に強い力を持っている。
どうしてすぐに気付かなかったのだろう。
確かに彼女は、自分たちに悪意ある物ではないということに。
「いや。それで?姫君はこれからどうするつもりだい」
浅水を眠らせたのだ。
負担がかからないというのも理由の一つだろうが、他にも理由はありそうだ。
『朝比奈へ。儀式をするなら、ここよりも朝比奈の方が良いわ』
「待った。儀式をするって言ったって、あっちの状況も悪いと思うんだけど?」
決して無事では済まされないだろうもう一人の自分。
状況がわからないだけに続け様に儀式をするのも憚られる。
それに、寝たままの浅水を連れて行くには色々と弊害がある。
タクシーを手配しても、下までは自分が連れて行かなければならない。
意識のない浅水を抱いていたら、不思議に思われても仕方ない。
『それは大丈夫よ。あちらでも儀式を始めるから。それに、浅水は私が中に入って身体を動かすから』
その為にここにいる。
そう言われれば、ヒノエの視線はカノエへと向けられる。
ここだけではなく、別の時空のことまで知っている。
それに関しては、何となく想像がついていた。
けれど、意識のない人間の身体に入り、その身体を動かすなど、聞いたこともない。
『安心して。全てが終わったらちゃんと浅水に返すから』
ヒノエの視線を勘違いしたのか、浅水の身体を乗っ取るつもりはないと言うカノエに、ハッと我に返る。
「いや、そっちの心配よりも、出来るかどうかの心配かな」
『出来るから私はここにいる。出来なければ、最初から別当殿の前に現れないわ』
それは尤もだ。
出来もしないことをやるために来られては、こちらも困る。
「オレはどうしたらいい?」
『そうね……私が浅水の中に入る間、着替えを用意してもらえる?』
軽く手を上げることで返事を返し、浅水の着替えを用意する。
その間に、カノエは寝ている浅水の側へと移動した。
カノエが来ていたのは着物。
だとすると、現代の服は着方がわからないかもしれない。
手伝ってやる必要があるだろうか。
「着替えの手伝いは必要かい?」
浅水の服を片手に、ベッドに横になる彼女を見れば、その瞳が自分を捕らえる。
目を覚ましたのが浅水ではなく、カノエだというのは気配でわかった。
「大丈夫、いらないわ」
毛布を身体に巻き付けるようにして起き上がると、ヒノエの手から服を受け取る。
流石に、身体は浅水でも中身が別人となれば、そこから先はヒノエが見ていい物ではない。
後ろを向き、衣擦れの音がしなくなるまで待つ。
「もういいわよ」
声を掛けられて振り向けば、そこにはしっかりと着替え終わった姿があった。
こうして黙っていれば、浅水にしか見えないのに。
だが、浅水の意識は深い眠りについたまま。
「行きましょう、別当殿」
「別当殿、っていうのは他人行儀だ。ヒノエって呼びなよ」
オレたちは恋人同士だからね、と小さくウィンクすれば、ぱちくりとその目を瞬かせる。
その真意をすぐに測ると、カノエはするりとヒノエの腕に自分の腕を絡ませる。
見た目が浅水なだけに、ヒノエからすれば、滅多にこんな光景を拝める物じゃない。
「行きましょ、ヒノエ。朝比奈へ」
紡ぎ出される声も、紛れもなく浅水の物。
けれど、意思を持って動かしているのは、浅水とはかけ離れた存在。
外へ出れば、降っていた雪は止み、うっすらと白い跡を残すのみ。