弦月の狭間 | ナノ
夜闇
最後に逢った時に、彼女を想い切ない眼をしていた。
……あの彼は今、どんな世界を見てるのだろう。
「風花」
名を呼ばれて振り向けば「ほら」と肩を抱き寄せてくれた。
「大事な姫君の肩を冷やすわけにはいかないだろ」
「ありがとう……急ぎましょう」
「姫君が願うなら、オレが抱き締めて運んでもいいけどね」
もう一人の彼と同じ台詞、一瞬鼓動が速くなる。
「それもいいわね。けど、今はこうして歩きたいの」
ヒノエは私を気遣ってくれていて、本宮までの足取りは然程速いものではない。
嬉しいけれど今はそれどころではない。
私なら多少運動したほうがいいくらいだから、と付け加えて言えば納得したらしく、速度が上がる。
それでも腕は外そうとはしなかった。
触れた所から伝わる熱。
これはどの世界を探しても、此処にしかないヒノエのもの。
……聖夜
そう呼ぶに相応しい月明かり。
身を切る寒さも、これからもっと深まっていく。
熊野権現は陰国を司る神。
クリスマスという西洋の祝い事には何ら関係ないのは分かっている。
それでも今夜は何処か神聖で、神の祝福に満ちていると感じているのは……きっと、私自身がそう願っているから。
奇跡が再び起こることを。
否、再び起こすことを。
本宮の建物は飾り気のあまりない、威厳がありながらどこか雄大さを感じる。
それは祭られている熊野権現が、大らかな気質故だからではないか、と此処に来る度思う。
そんな事を考えながら、程なくして本殿の中に入った時は流石にほっとした。
人の気配はない。
けれど、何故か感じている……ヒノエと私に向けられた「視線」。
前回の儀式で熊野権現の神気を身体に通した。
そのお陰でかの神の気を感じ取るようになったのだ。
そう、この前ヒノエが言っていた。
だとすれば私達に向けられた厳かな意識は、熊野権現のものだろう。
考えを巡らせているうちに、ヒノエは燭台を祭壇前に置く。
「風花、着いた早々悪いけどさ」
「分かっているわ。ここに立てばいいのね?」
「ああ。話が早くて助かるよ」
自分の方に差し出された両手。
躊躇うことなく両手を重ねた。
手の平から熱と同時に安心感も伝わってくる。
これから先に行われる儀式が何か、私はもう知っている。
疑問を持つこともなく、真っ直ぐに視線をヒノエに向けた。
彼もまた私を見つめながら、意識はその先にあるかのよう。
そう思ったのはきっと間違ってない。
ヒノエは多分、タイミングを計っているのだろう。
束の間の沈黙。
それからゆっくりと息を吸い、あの日と同じように紡がれる……祝詞。
「掛け巻くも畏き隠月大神の御前に畏み曰く、」
『掛け巻くも畏き隠月大神の御前に畏み曰く、』
そして聞こえる声音は一人ではない。
同じ声、同じ抑揚。
重なる声はどちらもヒノエのもので、一つのずれもなく綺麗に重なる。
「世の理を超え、」
『世の理を超え、』
それはまるで、歌。
水のように深い旋律。
仄めいて聞こえる声と同様、祈りに満ちている。
…普通の娘である私にも分かる。
彼達が今まさに、神に話しかけているのだと。
「新しき神の娘に祝福の息吹を通し給え」
『かの神の愛娘に祝福の息吹を与え給え』
重なっていたはずの言葉が、一部別々の意味を紡ぐ。
新しき神の娘、とは私のこと。
そしてかの神の愛娘とは、熊野権現に愛されているという、彼女のこと。
…いつか、会えるだろうか。
会ってみたい。
ヒノエを愛した同士として、決して他人ではないもの。
これも何かの縁。
あの「ヒノエ」にあんな顔をさせる彼女なら、きっと私も好きになる。
ふと、馳せる想いが横道に逸れた事に気付き、背筋を伸ばした。
今は儀式に集中しよう。
神気を送らなければいけない。
会える未来の為に、今は。
祝詞の最後の一句が、余韻だけを残して本殿の空気の中に消えていく。
温かさを増す掌。
神が答えてくれた証を感じて、ほっと肩の力が抜けた。
ヒノエと眼が合うと、同時にほんの少しだけ笑みを浮かべた。
一瞬だけ力を込めて、手を離す。
「臨、兵、闘、者、皆、陣、列、在、前」
ヒノエは右手で印を結び、一語ずつ区切られた言葉に合わせて動かしていった。
九字と呼ばれるモノ。
そう先日教えてくれたのは、目の前のヒノエ。
詠唱する姿がいつになく厳かで神秘的で、熊野権現に愛されていることを示しているかのよう。
それは不覚にも魅了されてしまう私。
キィー……ン
九字に呼応して、胸に抱いた手のひらが更に熱を持っていく。
同時に刃を打ち合わせた時の、硬質な音が響く。
それは神が祈りに答えた証。
すぅっと手から熱が引いていく感覚に気付いた。
きっと今、強い神気が時空を渡り届けられたはず。
「終わったの?」
「終わったよ。風花の祈りも届いたみたいだね。前よりも強くなってる」
「強く?それは熊野権現の神気…祝福の事かしら?」
首を傾げて問えば、是、と返ってきた。
あまり強すぎる神気を送って大丈夫なのか、とふと思う。
前回でも光として具現化するほどの強い神気なのに、人の身が受け切れるのだろうか。
「そんな顔をしなくていいよ風花。あっちの姫君は神の愛娘だって聞いただろ?」
頬を包む掌に眼を閉じ、その温もりを感じれば安堵に緩む。
詳しく聞いた訳ではない。
けれど、神の愛娘だと称されるということは、熊野権現の神気に常に近いのかもしれないと。
なるほどと納得して、もうすぐ来る筈の時を待つことにした。
「風花」
頬の手は後頭部に回り、もう一方のそれは腰を引き寄せて。
そうしてヒノエに抱き寄せられる。
言葉がなくても同じ祈りを抱いていると分かり合える、至福。
「もうすぐね」
「……ああ」
愛しい肩に頭を預けて、眼を閉じる。
あと少しで、やって来る筈の光を待ち侘びながら。
「…来た」
呟きはどちらのものだったのか。
前回と同じ光の粒子が薄暗い室内を照らし始めた。
それはすぐに、目が焼き付けられそうな眩しいものに変わって……
「…!?風花っ!!」
……違う。
そう思ったのと、切羽詰まった声で名を呼ばれたのは同時だった。
きつく抱きしめられた、そのすぐ後に耳をつんざくような凄まじい爆発音。
それから何がなんだか分からなかった。
浮遊感、衝撃、感覚がおかしくなるほど揺れた心地もして。
何かにぶつかった衝撃も与えられたはずなのに不思議と痛みは感じなかった。
「………ん…」
「……風花…?」
束の間、私は眠っていたらしい。
温い感触に目を覚ましたみたいで、ぎゅっと抱きしめられた腕にほっとした。
息を吐いた私を呼ぶ小さな声。
「ヒノエ?」
「痛むとこ……は、ないかい…?」
……心臓が、壊れそうになった。
パラパラと何かが崩れる音がする。
充満する埃に、息を止めたくなるほど。
顔を上げれば、私を抱いたまま壁に凭れ座る、ヒノエの背後に月が見えた。
閉鎖された本殿に居たはずなのに。
「……ないわ」
「そ……よかった…」
激しく動悸が起こる私の前で、ふわりと笑った。
普段見せてくれる艶とか、色気とか、全て取り除いた………得も言えぬ優しい微笑。
血の気の失せた白い肌と相俟って、天子の様だと思った。
「……ヒノエ?」
あまりにも柔らかく眼を閉じるから、眠ったのだと思った。
…起こしてあげなくては。
綺麗な頬に手を伸ばす。
指の先が辿り着く寸前、ヒノエの身体がぐらりと傾いで、私に凭れ掛かってきた。
支える為、背に回した手が捉えたのは滑る感触。
「…っ!?」
慌てて耳を胸に当てる。
「………や、だ……」
応えのない鼓動。
命が流れ行こうとしている。
ヒノエの身体をきつく抱きしめることでその流れを止めようとした私は……恐怖に壊れそうになった。
「いや……認めないっ…!!ヒノエっ!……起きてっ!!」
『一度失っただけでも辛いのに、それを再び失うことになったら………』
それは、無限の闇。