弦月の狭間 | ナノ
力風
 




終電は既に発車していたらしい。



ならば鶴岡八幡宮まで歩いて行こうか。

仕方なく決意した浅水だった。
だが、寒さに耐え兼ねてポケットに入れた手がある物に触れると、ホッとした。




財布を持ち出したのは長年の習慣。

この世界にいた時も熊野にいた頃も、一人で外出出来る歳になってからは常に持ち歩いていたから。

当たり前の事だ。だけど、今は心底有り難かった。



「待って、ヒノエ」



浅水の手を引き歩き出そうとする彼を呼び止める。
立ち止まるヒノエにタクシーを使う事を提案すれば、事も無げに頷いた。



そして今、車内にいる訳だが……。




浅水とこちらに来たヒノエとは違い、彼はあの世界から出た事がないはず。

なのに車内に入っても車が滑らかに動き出しても全く動じない。
ゆったりと深くシートに腰掛けて、浅水の視線に気付いて唇の端を歪めて笑う。



「そんなに見つめてくれるなんて嬉しいね。オレの腕が恋しくなったかい?」
「馬鹿な事言わないで」
「ふふっ、残念」



やはり彼は一筋縄ではいかないようだ。

そう言えば、浅水の良く知るヒノエもこの世界に真っ先に順応していた。


どの時空にいても、ヒノエは基本的な部分が同じ。


そう思うと沈みかけた気持ちが浮上してきた。
















鶴岡八幡宮の正面に止まったタクシーから降り立てば、そこは神気に充ち満ちていた。



「へぇ…」
「あっちの八幡宮とはまた違う?」
「そうだね……違っているけど違ってない、かな?」



浅水の問いにいつもの様に問いで返す訳ではなく、かと言って分かりやすく答える事もせず。

ヒノエは眼を細めて鳥居からまっすぐに本宮へと続く道の先を見ていた。



「今の私には何も感じ取れないんだけど」



熊野にいた頃、神気や霊気を敏感に察知できたあの力は、今の自分にはない。
だからきちんと説明をして欲しい。
その意味を包みながら告げれば、ヒノエは頬を緩めて浅水を向いた。



「今からお前が経験する奇跡ってやつに、お誂え向きってこと」



それ以上は何も言うつもりはないらしい。
前を向いた彼を見て、溜め息をひとつ。

浅水も同じ様に歩き出した。




泰然と笑みすら浮かべた横顔には、焦りの影など何処にもない。
けれど、正面を向く彼の眼を見れば真剣そのもの。



厳しさを宿した一対の紅玉。



普段から余裕を崩さない彼がそんな眼をする時を浅水は知っている。

熊野の頭領として、水軍の長として、そして…浅水に危険が差し迫った時の、もう一人の彼の顔。

と言う事は、飄々とした態度を崩さない彼の中でも、今から行なう事は気の抜けないものだと感じていると。
そう考えられるのではないか。



「へぇ、八幡宮には舞殿があるんだね」
「ん?ああ、そっか」



あの時代には八幡宮などなかったはず。
それゆえのヒノエの言葉に頷いて、ふと有名な話が脳裏を過ぎった。



「そう言えば私の世界の歴史では、ここで頼朝が奉納舞を命じて静御前っていう白拍子が舞ったんだよ」
「へぇ。その白拍子の名前が後世に語り継がれるって事は、よほどの美姫だったって事かい?………お前のように」



美女と想定したのか、唇の端を持ち上げて浅水を見る。
最後に甘い囁きを投げ掛ける辺りが何とも彼らしい。

そう苦笑しながら、今から発する言葉にも笑いそうになっていた。
最後の一言だけは聞いてなかった事にする。



「美人だったのもあるけどね、有名なのはそれだけじゃない……何か分かる?」



悪戯に眼を細めて問えば、彼は眼差しで答える。


ふっ、と笑うだけ。

それだけで空気が「否」と答えを返すかのよう。



「静御前はね、源九郎義経の愛妾で有名なんだけど」
「………は?」
「しかも、こっちの義経はモテて仕方なかったって話なんだよね」
「…………っ!!」



ヒノエの足が立ち止まる。
自分が思う以上の衝撃を彼に与えた。
満足感を覚えた浅水は、隣を見て眼を見張る。

身体を折り曲げてまで笑い転げるとは思わなかった。



「お取り込み中悪いんだけど………置いていくよ?」
「あ、ああ…行くとするか」



涙の浮かぶまで笑ったようだ。
こんなヒノエもなかなかお目にかかれるものじゃない。


足を進め舞殿の横を通ると、大石段がそびえる。

六十段余りの長い階段。

それを登れば本宮の鳥居に着いた。





一歩前を歩くヒノエの髪。
紅が仄かな月明りに浮かび、その場を幻想的に揺らめかす。



「浅水、ここに立ってくれるかい?」
「え?ここって…」



本宮の社殿前で立ち止まる。
浅水の位置から良く見えないが、社殿は解放されて御神体と繋がってるんだろう。

ひんやりと独特な空気を感じた。



何処か懐かしい。
込み上げるのは、愛しさ。



「ちょっ、何!?」



驚きの声が上がった。
それもそのはず。
触れるか触れないかの位置に、向かいあったヒノエの両手が翳されたのだから。

浅水の胸元に。



「うん?何って何だい?」
「……その手をどうする気?」
「どうって?オレはお前に触れてないけど。それとも………」



一度言葉を区切って、ゆっくりと伏せていた眼を上げた。

紅が月光を宿して艶めかしく、光る。
耐性のない姫君ならば、あっという間に足が崩れたかもしれない。
色香が広がるのを感じた。



「………オレに触れて欲しいのかい?浅水」




「………っ、そんな訳っ」
「どうかな?………お前なら朝まで応えてあげるけど?」
「馬鹿っ」



咄嗟に言葉を無くす。
不覚にも耳まで染まった朱。
しっかりと見られてしまったようだ。

クスクス笑う掠れた声が、背筋を張った。



「ふふっ、残念」
「ふざけるなら帰るから」
「仕方ない。甘い時間は今度ゆっくり………ね、浅水」



急に声音を低くするから、戸惑ってしまう。

たった今までの言葉遊びは何処に行ったのか。



「………そろそろ来る。じっとしてくれるね?」
「…何が始まる訳?」
「悪い、説明している暇がないんだ」



一瞬、強く真っ直ぐに浅水を捉える眼差し。



「オレを信じて」
「………分かった」



ヒノエが小さく笑う。
そして翳したままの手に意識を集中するかのように、眼を閉じた。

その唇から零れるのは、懐かしい旋律。



「掛け巻くも畏き隠月大神の御前に畏み曰く、世の理を超え、」


『掛け巻くも畏き隠月大神の御前に畏み曰く、世の理を超え、』








………同時に、遠くから重なる旋律。

二つの重なる声が聞こえる。


目の前の唇が紡ぐのは、ヒノエの艶のある声音。



そして………遠くから、歌うように睦言を囁くように、浅水を包む声がした。
優しく切ない、紛れもしない彼の声。





「かの神の愛娘に祝福の息吹を与え給え」



『新しき神の娘に祝福の息吹を通し給え』



途中の語句だけ違えて聞こえる。

そして、続く言葉は重なって……不思議な空間を醸し出した。

何と評すればいいのだろう。


一言で言えば、幻想的。

そして泣きそうになった。








……今のは何だったのか。

問い返そうとして、次に眼を見張る。






ヒノエの手と、自らの胸。


その微かな間から、光の細かな粒子がキラキラと夜闇を照らした。


それはまるで小さな蛍の大群。

ヒノエの手から放たれる光が浅水を取り巻く。



「綺麗………」



思わず感嘆の呟きを上げる。
するとニヤ、と唇を歪める、自信に満ちたヒノエの表情。



「まだ、じっとしてなよ………」



眼を閉じたまま、彼は次なる呪を唱えた。



「臨、兵、闘、者、皆、陣、烈、在、前」



九字と言われるもの。

唱え切った途端、浅水の回りを浮遊していた光は、ぴたりと動きを止める。




キィー…ン。



金属同士を重ねる音が遠くで聞こえた。


次の瞬間、光が一気に浅水の体内に集束され吸収されてゆく。



「…あっ」




……感じる。

身体の隅々にまで行き渡る、力を。

光が浅水の体内を駆け巡って行く。
そして、ホッとするような優しい温もりを感じた。






………どれくらい経ったのか。

一瞬か、もしくは一時間か。



いつしか眼を瞑っていた事に気付き、瞼を開ける。



「気が付いたみたいだね。どこかおかしな所はないかい?」
「ヒノエ………」



至近距離で自分を見下ろす紅。
一瞬、ヒノエが帰って来たのかと思ったが、どうやらそうではないらしい。



いつの間にか手を降ろして、誘いかける様に煌めく眼は確かに彼のもの。



「ん……ない、かな。それよりも今のは…」
「言ったろ?ちょっとした奇跡だって」
「そうじゃなくて!今の力は、」



問いの言葉は最後まで言い切る前に遮られる。



「賢い姫君なら分かるだろ?」



人差し指を浅水の唇に当てたのはヒノエ。

微笑と共に見つめられれば、答えは浮かんだも同然。



渋々と頷くと、ヒノエは満足気に笑いながら一歩下がった。



「………名残惜しいけどそろそろ時間切れ、ってね」
「……え?」
「本当は姫君との逢瀬を、もう少し続けていたいけど」



ヒノエは小さく笑うと、首に手を滑らせた。
その指が手繰るのは小さな逆鱗。



「待って!……まだお礼も言ってない」
「………オレは約束を守っただけ。礼なんか必要ないさ」



懐かしむ様に細める眼が、少しだけ記憶を刺激した。



「いつか、助けを求めた時に飛んで行く………これを言ったのは、貴方なんだよね?」




浅水のそれは、確認。



幼い頃のあの約束の、真実口にした彼は優しく笑った。



「……ご名答。思い出してくれて嬉しいね」
「やっぱり貴方だったの」


白い光に覆われた彼の身体が遠く感じる。



「ありがとう」









「熊野の男は一度交わした約束を決して違えない。
………礼なら、もう一人のオレに言いなよ」










眼が眩む、まぶしい光。





一度ギュッと瞼を閉じて、光の洪水をやり過ごした。








「浅水」



………帰って行ったのではなかったのか?



ふと思った疑問は、次の瞬間に解消された。




「……浅水」




息も吐けぬ程に抱き締められたから。



「ヒノエ……おかえり」



もう、何も聞かなくとも分かった。
自分の恋人がどこで何をしていたのか。

そしてそれが、誰の為なのかも。

応えるように浅水も背中に腕を回した。
体温に閉じ込められれば、全身から力が抜ける程に安心する。




「お帰りなさい、ヒノエ」
「………浅水……ただいま」




ホッとしたように耳元で囁くのは、さっきまで聞いていたのと同じで、違う響き。



………あちらのヒノエが祝詞を唱えていた時に、同時に唱えてくれたのは確かに彼だった。




「私の為に神気を送ってくれて、ありがとう」
「………へぇ。浅水には全てお見通しって訳だね」




………時空の狭間から、優しい貴方の声が聞こえたから。


けれどそれは、秘密にしておこう。
ヒノエの切実な想い、それを胸に封しておきたかった。







「………オレの姫君と再会したと思ったら、もうすぐ朝だね」
「朝帰りね…」




………有川家に住む皆の詮索の眼差しや、従兄弟の意味ありげに笑う顔がちらつく。

どう説明しようか、げんなりと頭を悩ませた。




「朝帰りもいいけど、このまま二人にならないかい?」
「は?」
「………オレにもっと、お前を感じさせてよ……浅水」
「……んっ」





ついばむ様になんども重ねる唇。
浅水の反応を塞ぎながら、誘いの言葉を実現させようと動く舌。

這う舌から甘い快感が紡ぎ出される頃には、二人の息が上がっていた。




「………参りましょうか、姫君」
「……馬鹿」





二人の後ろ姿を、昇り立ての朝日が照らし始めた。







  

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