弦月の狭間 | ナノ
韻力
ほら、呼ぶ声がする…。
今は眠りたい、けれど身体が冴えてしまう。
ベッドに入れば、意味もなく沸き起こる動悸。
「……これは、何?」
気のせいだと言われればそうかも知れない。
特に最近は神経質になっている、そんな自分は否めない。
ただ体調が少し優れないだけ。
そう決め付けてしまえる程度のもの。
……なのに、本当だろうかと首をひねりたくなる。
自分の身体なのに自分のものでないような、違和感。
そんなことを感じるなんてどうかしている。
そして、こんな他愛ない事すら、誰にも言えず抱えてしまう。
ヒノエにすら、どうしても心配をかけたくなくて、何も言えずにいた。
何故だか、言ってはいけない気がして。
「いつもより、早い?」
逢瀬はいつも、突然やってくる。
先触れのような予感もいつも突然。
昼間に感じたり、直前だったり。
その事自体に意味があるのかないのか、それすらも分からない。
けれど、分かる事はひとつ。
呼んでいるのは、「彼」。
今はそれで充分だった。
厚手のコートを羽織り、マフラーも忘れずに巻く。
素早く身仕度を済ませると、浅水は部屋を滑り出た。
夜の帳を迎えて幾時間か過ぎている。
まだ誰かしら起きている時間。
気が抜ける訳はないから、足音を立てずに階段を降りた。
なぜなら現在の同居人達は皆、半端でなく気配に敏感なのだから。
現代人では有り得ない程の一種の勘の鋭さ。
それは、彼らの身上を知れば誰でも納得するものだけれど。
……もっとも、人目に触れたくない現在の浅水にしてみれば、厄介この上ない。
「でも、杞憂だったみたいだね」
階下に降りてリビングを覗けば、そこは無人。
その事にほっと息を吐く。
眠っているのと、恐らく数人は出掛けているのだろう。
食後の片付けを終えた譲あたりが入浴中かもしれない。
本来ならこの後は浅水の番。
けれど今日は眠いから、先に入浴と食事を済ませ「朝まで起こさないで」と部屋に引き揚げていた。
その事を今になって、ありがたいと思う。
誰にも見つからなければ、言い訳をしないで済む。
真実を話せば皆、信じてくれるだろう。
……でも、胸に秘めていたかった。
彼の「目的」が分からなければ動けない。
それも、また事実だけど。
「まさか電車に乗るなんてね」
小さく笑いながら辿り着いたのは、鎌倉駅。
終電に何とか間に合ったからいいもの。
そうでなければ、相当な距離を走らなければならなかった。
先日の源氏山公園の様に。
正直、あの距離はもう勘弁願いたかった。
改札を出て、足は自然に西口へ。
広場にある時計台に着けば、そこは無人だった。
…ただ一人を除いては。
切れ掛けた街燈がパチパチと音を立てるその下。
淡い光に包まれて、紅い髪に艶のある光輪を紡ぎ出す。
全身で振り返らずに、眼だけをこちらに向ける。
鋭さと、甘さの同居したような眼差し。
その眼が浅水を認めると、唇の端が微笑を刻んだ。
「………また会えたね、お伽の国の姫君」
「……お伽の国は貴方の世界じゃないの?」
「熊野はお前のいた世界でもあるんだぜ?」
「私は貴方の世界に存在していない。そう言ったのは貴方自身だけど」
「へぇ……覚えてくれて光栄だよ、聡明な姫君」
浅水が言い切ると、彼は小さな声を上げて笑った。
そのまま、くい、と顎を持ち上げられる。
至近距離で顔を覗かれれば、視線がぶつかった。
紅い眼が誘う様に妖しく見えるのは、気のせいなのか。
「………ちょっ、と…」
「元気だったかい?浅水」
「…っ、元気にしていたから、離して」
睨み付けながら手を突っ張らせれば、手は簡単に離れた。
「残念。あと一息だったのに」
「冗談は止めてくれる?」
「…冗談?どうしてそう思うんだい?」
「貴方の眼は、私の知ってるヒノエと違う。あと、待っている人がいるでしょ?」
「……へぇ」
流石に浅水の言葉に驚いたのか、彼が僅かに眼を見張る。
ヒノエの側に自分が居たように、彼にもまた誰かが側にいるだろう。
…そう結論付けたのは、彼自身が持つ強さから。
場所を変えようと、無言で肩に手を置き促す彼に従って、歩き出す。
確かに人目について、余りいい事はない。
ましてや偶然に、外出している同居人の誰かに出くわしてしまえば、厄介なことになる。
彼は確かにヒノエだから、誤魔化し様は幾らでもある。
相手はヒノエ。そんなことはお手の物。
それでも見ていていい気分の物じゃない。
寒さが身に染みる。
近くの木々の陰に入れば尚更、身体は芯から冷えて来た。
暖を求めてポケットに入れた手が、硬質な平たい物に当たる。
何かと思い取り出せば、それは一枚のメダル。
「それは?……見せて貰っていいかい?」
以前、ヒノエに贈ったものとお揃いのメダル。
それを、彼が見せてくれと言うから、何だかおかしかった。
けれど別に減る物でもないから、無言で差し出す。
手にした冷たいメダルを、裏返して、更に返して何度も。
そして彼は、それを月にかざして眺めていた。
「………なるほどね。粋な計いってわけだ」
何処か面白そうに呟いて、彼はメダルを上に放り投げた。
高い位置で弧を描く。
月光を受けて銀色に輝く一瞬。
そして再び、彼の手に戻る。
「いい物を見せて貰ったよ」
「それはいいけど…」
『粋な計い』
その言葉の向かう先が気になった。
何の事かは想像も付かない。
けれど、何となく。
「…ひとつ、聞いてもいい?ヒノエはどこにいるの…?」
「……此処に、って言っても姫君は納得してくれないかな?」
「うん、納得出来ない」
今までの経緯からどう考えても、二人のヒノエが一度には存在できない。
そして逆鱗を持ち、時を自在に跳ぶ彼はその事を熟知している筈。
ならば、この時空のヒノエは何処に行ったのか。
………何故だか浅水には、彼がその答えを知っていると確信出来た。
「………姫君は何処だと思う?」
問いには問いで返す。
分かっていたけど流石にこの返事にはムッとした。
苦笑しながら彼が指を伸ばす。
そっと、滑るように撫でて来る掌。
すっかり冷えきった頬に暖かい。
「………貴方の所…?」
答えはもう、とうに胸の中にあった。
告げれば、彼の眼が緩む。
口では相変わらず、正解か否かを教えてはくれない。
けれど触れた時と同様、そっと離れた手。
それが答えを雄弁に語っている気がした。
もっとちゃんと聞きたい。
口を開こうとした時、風が強く吹いた。
束の間の突風は浅水のマフラーを崩す。
「…っと」
飛ばされそうになった端を慌てて掴むと、再び首に巻き直そうとした。
………はずなのに。
空を滑る事を不審に思い、眼を向けて………
驚愕に固まった。
「……………っ!?」
そこにあるはず。
いや、確かに存在している自らの腕。
再び息を吸い込んだのは、悲鳴を上げるためだったのか。
それが声と言う形を取る前に、目の前が暗黒に変わった。
「浅水!!」
与えられた温もりから抱き締められたのだと分かる。
切羽詰まった声は、以前に一度だけ聞いた気がした。
………ならばあれは、あの時の出来事も今も。
浅水の腕、肘から先が透き通り…景色と重ねて見えたこと。
「…気のせいじゃ、ない…?」
焼け付く喉を押し広げる様にして声を絞り出せば、さっきとは打って変わって掠れていた。
信じられない。
でも、確かに錯覚なんかでは、ない。
もう一度確認しようと身体を起こすも、再び暗闇の視界。
「……ちょっ、と離して」
「ふふっ、たまには姫君の意思に反するのも一興だろ?」
そんな場合じゃない。
そう返したかったけれど、言葉は寸前で止まる。
きっと彼は分かってて、拘束するのだ。
浅水が再び腕を見て、愕然としないように。
「……どうして………」
ショックと、得体の知れない怖さ。
身体が震えてくる。
「今の私は、何…」
………夢なら見てきた。
祖母は星の一族。
その力を濃く受け継ぐ浅水は、夢で幾度となく辛い出来事を見た。
そしてそれが現実として目の当たりにしてしまう事も。
一度はその夢を違える為に、自ら命を絶ってしまった。
あの時は、従兄弟に迫る死をどうにかしたかった。
夢はあまりにも鮮明で詳細だった。
…けれど、その時でもこんな夢は見た事がない。
自らの一部が消えた瞬間など、かつてない。
確信している。
気のせいなんかではない。
だとしたら、これは一体何なのか。
「浅水」
至極優しく名前を呼ぶ。
彼はただ、あやすように背を撫でていた。
さっきからずっと。
「………オレがいる。だから大丈夫だよ」
浅水が求めているのは、彼じゃない。
けれど、ここにいるのも確かにヒノエ。
混同している訳ではない。
眼を閉じると、耳越しに聞こえる心音。
強い鼓動から何故か、「大丈夫だ」と訴える声が聞こえた気がする。
それが彼女を落ち着かせてくれた。
「………落ち着いたかい?」
「…ん」
小さく頷けば、腕が緩んだ。
身体を起こしながら腕を見る。
…滑らかで、何事もなかったように存在する、腕。
「ねぇ、今のは一体なに?」
「さぁね……」
肩を竦める彼を眼を凝らして見る。
自分のよく知るヒノエならまだしも、彼が本当に何も知らないのかよく分からなかった。
何だったのだろう、今のは。
常識では有り得ない。
今までも経験した事がないから、ヒントすらない。
「また、何かが起こっている…」
「浅水」
「なに?」
知らず俯いた顔に指が触れ、無理矢理上げさせられる。
と、同時に額に一瞬だけ唇が触れた。
驚き、身体を押し返せば、艶めいた声で笑いだした。
「何するのよっ!?」
「隙だらけな姫君も可愛いけど用心しなよ。男はみんな狼、ってね」
「……っ、馬鹿!」
羞恥に声を荒げれば、ますます笑っていた。
こんな所は本当にヒノエのまま。
時空を隔たろうが何をしようが、ヒノエの本質は同じらしい。
それが、浅水を元気付ける為から生まれた行動だと言う点まで、同じ。
照れ臭さを隠しながら呆れて見せる。
そんな浅水の前でひとしきり笑ってから、彼は不意に手を差し延べて来た。
「…?」
「夜の逢引と洒落込みましょうか、姫君」
一体何を、と訝しみながら、手に向けた視線を上げる。
こちらを見る二つの紅い宝石。
悪戯そうに笑う顔は、不敵そのもの。
「約束しただろ?姫君が助けを求めた時、オレはどこまでも飛んで行くよ、って」
この約束なら、ヒノエとした。
何故、彼がそれを何度も繰り返すのか。
聞いてもどうせ、まともな答えなど返ってはこないだろう。
それはつまり、今は言うべき時期にないと言う事。
吐き出されたのは諦めの溜め息と、同類の言葉。
「肝心な事を言わないのは悪い癖だと、忠告してくれる人はいないの?」
「身近にもっと質が悪い奴がいるけど?」
「………確かに、弁慶がいればね。で、どこへ?」
質の悪さなら、彼の叔父の方が遥かに上。
妙に納得してしまって、恭しく差し出された手に、手を重ねる。
すると満足気な表情を浮かべて、彼は笑った。
「鶴岡八幡宮………お前に奇跡を見せてやるよ」
「奇跡?」
「ああ、最高のね」
釣られて歩き出す。
片目を瞑る彼に、もう一人の面影が重なって見えた。