弦月の狭間 | ナノ
弦楽
 




緩やかに空気が変わる、と言えばいいのだろうか。
急激な変化ではなくて。
優しく色を変えるような………。











「………やっぱり」



予感は胸の内にあった。


浅水は手にしていた雑誌を閉じた。
ソファから立ち上がると、肘掛けに畳んでいたコートを取り上げた。
衣擦れの音に、テレビを見ていた将臣が振り返る。



「浅水、風呂ならまだ譲が入ってるぜ」
「違うって。ちょっと出かけてくる」
「………もう夜中だろ?ちょっと出るって時間じゃないよな」



案の定、訝しげに眉を潜められた。
部屋に戻ると言って、こっそりと出ても良かったかもしれない。
ふとそう思ったが、この従兄弟には通用しないという事はよく分かっていた。
野生の勘とでも評したい程、将臣は時に鋭い。
言葉に潜む裏を、嗅ぎ分ける事もあるのだから。



「………うん。待ち合わせって言えばいいのかな?」



浅水は思考を巡らせ、一番無難な答えを選んだ。
それは決して嘘ではない。
「彼」が来ている今なら、この家には彼の姿はないのだから。



「は?……ああ。そういうことか。やるな、お前も」



有川家に現在いない人物を思い浮かべたのだろう。
浅水の返事に、将臣はすぐに納得したようだ。
険しい眉間が緩んだ。
代わりに今度は、ニヤリと笑う。


…だから言いたくなかったのに。


だが、納得して貰う為には仕方ない。



「そういうこと。お風呂は帰ってから入るよ」
「なんだよ。帰ってくるのか?」
「当たり前でしょ」



尚もニヤニヤ笑う将臣を軽くあしらい、玄関に向かう。



「程々になー」



姿は見えないが、リビングから声を掛けられた。
程々、とは一体何のつもりか。
深夜のデートと聞けば、そんな想像しか出来ないのだろうか、将臣は。
頭が痛くなったのは、決して気のせいではないはず。



そういえば以前も、こんな会話をしたような気がする。
あの時の相手は譲。
そして、こんな下品な想像はされなかったけど。






そう。
月の、降りそうな……………こんな夜に。














身体が引き寄せられるままに歩く。
このまま到達する場所に、「彼」はいる筈。


今の浅水は、ごく一般的な人間でしかない。
かつて熊野の神子と呼ばれた時の神気らしきものは、自分の生まれ育った世界に戻った時に消えてしまった。
熊野にいた頃とは違い、今の自分は何も感じ取れない。







なのに今は、懐かしさに泣きそうになる。
清らかで馴染みある、神の纏う気を感じて。






浅水の足は速くなり、いつしか走っていた。

導かれるまま辿り付いたのは、源氏山公園。




「………っ、はぁっ………」



全速で走ったために上がった息を、整える。
深い呼吸を繰り返せば、動悸も幾分収まってきた。


人がいない公園は驚く程、静寂に近い。
今夜の月は、懐かしさすら感じる。



「……姫君が見上げている月は、お伽の世界の入り口だからさ」



浅水の考えを読んでいるのか。
振り返れば、やはり「彼」。



「もうちょっと普通に登場してくれないかな」
「そうすれば、驚く姫君の麗しい姿を見る事が出来ないだろ」



唇の端を心持ち上げる。
笑みにも似た表情。
愉しげな色を湛える眼。

こんなヒノエは、殆どお目にかかった事がない。



浅水の恋人は、こんな表情を浮かべないから。




「久し振りだね、姫君」




久し振り。
そう言われる程には長くないけれど。
そう首を傾げながら返すと、彼は笑った。



「ふふっ…いいね、その反応。姫君との逢瀬を待つ身には、僅かな間でも焦がれる程に長く感じるのさ」
「そうだっけ?違う様に感じるけど」



自分を思ってくれる、自分を想ってくれる、そんな眼ならよく知っている。
彼は、浅水の恋人のような眼をしていない。
それ位は難なく分かる。



「手厳しいね。まぁ、もう一人のオレを引き合いに出されちゃ敵う訳ないか」



クスクス笑う彼の中に、僅かな違和感を感じた。
一瞬だけ過ぎる影。



「………ねぇ、ヒノエ」
「姫君は知っているかい?」



浅水の言葉に被せる、性急な彼の問い掛け。
言葉を発し注意を引いておきながら、ふと空を見上げる彼の輪郭が淡く輝きを放った。

さぁ……と、撫ぜる程の風が、彼の髪をふわりと揺らめかす。
頭上の月を見上げたまま、眼だけを浅水に向けた。

月の光を受けて、紅が朱金に見える瞬間。
心臓が、跳ねる。










「一度目は偶然。二度目は必然。なら」








この先の言葉を、知っている。











「……三度目は、運命…」
「流石は姫君。正解だよ」



満足そうに喉を鳴らす。
優しく眼を細められると、やはり「彼」と彼は同じ。

そういえば、自分は何故この言葉を知っているのだろうか。
何かの本で得たのかも知れない。

けれど、自分がこの答えを知っていると確信しているような、彼の様子が引っ掛かった。




それに、今ここで「運命」と言わせた彼の真意が分からない。
言葉遊びなどではない事は、伝わる。
何故なら、彼を包む空気が真剣だったから。



「運命かどうかは分からないけど」
「…運命だよ。オレとお前がこうして逢瀬を重ねる事は、約束されていた」
「何のこと?いい加減話してくれない?」






二度の邂逅ははぐらかされてばかり。
どうせはぐらかされるのだ、今回も。





どこか諦めていた浅水だが、今度は違うようだ。
こちらに向き直って、彼は肩を竦める。
浅水の隣に立つ木に背を預けると、小さな笑みを浮かべる。


おもむろに伸びる指先。
反射的に身を竦めると、彼の眼は更に細くなった。



「本当は、お伽話を聞かせてやってもいいけどね」



長く節のはっきりした彼の指。
今は短くなった浅水の髪に触れる。
熊野にいた頃は背を流れる程度に長かったのに。
この世界に帰って来てすぐに、本来の長さに戻ってしまった髪に。


その仕種すら、彼とは違う。
搦めとるような、どこか強引で。



…「彼」も彼もヒノエなのに、どうして違うのか。



「同じ熊野で育ったのにね」
「同じ熊野でも、違うさ」


思わず滑り出た浅水の言葉に、即座の返答。
彼は笑っていた。



「オレの世界にはお前はいなかった。そして、もう一人のオレにはお前がいた。だからさ、同じオレでも違う」
「……貴方とヒノエの違いは、私だと言いたいの?」
「姫君はどう思うんだい?」



問いには問いで返す。
そこは同じ。

何の衒いもなく浅水を射抜く視線は、強い。



もうひとつの世界に自分はいないと言う。
ならば、目の前の彼は見付けたのだろうか。


何故だろう。「彼」を待つ者がいると、直感してしまうのは。



「悪い。思ったより時間がない」
「まだ何も聞いてないのに」



つい恨めしい口調になるのは、軽い失望から。

結局何も教えて貰えないのだ、今回も。
謎は謎を呼び、また考える日が増えてしまう。



「ははっ。星の姫君の心を掻き乱すつもりはなかったけどね………そうだな。ひとつだけ、教えてやるよ」



胸元に下げた逆鱗から、白い光。



暖かい光に包まれる彼は、懐かしい神の息吹を感じさせてくれた。










「………いつか、姫君が助けを求めた時。オレはどこまでも飛んで行くよ」












「………え?」




聞き返した時には、もう。

誰もいない、残された光のみ。










「どうして貴方が、知ってるの」



幼き日、彼と交わした『約束』の言葉を。








浅水は倒れそうな身体を、側の木に凭せる。
たった今まで彼がいた事を証明するかのように、ぬくもりが残っていた。




「私の知らない所で何が起こっているの」



自分が感知し得ない所で、歯車が軋む音が聞こえたよう。

何かが動き出しているのに。
取り残された気がするのは、何故?





木に凭れたまま、ずるずると座り込んだ。







空を仰ぐ。

いつもの月がそこにあった。
「彼」が連れて来た月の名残は何処にもない。






あの月光が恋しいのは、きっと。











………もうすぐ、彼が迎えに来る。

確信とも言える思いを胸に、浅水はじっと月を見上げていた。








  

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