弦月の狭間 | ナノ
残光
 




身体が欲する訳でもないのに、深くなる眠り。
もう何度となく、時計を確かめて愕然とする朝を迎えていた。

違和感を覚えたのはいつの事だろう。



それすら思い出せないほど、今の自分に不安を覚えている。
以前は毎夜のように見ていた夢も、今は訪なう気配すら見せなかった。


ベッドのスプリングがぎし、と音を立てる。
明りを消したままの室内に一人座っている光景は、見る者によっては疑問や推可を持つだろう、と浅水は苦笑を浮かべた。


眠れない訳ではない。
むしろ横になればすぐにも睡魔は訪れる。
いや、下手をすれば眠った記憶すらない時もある。
元の姿に戻るまでは考えられなかった事。







ただ、今日は眠りたくないような、そんな気がした。








有川家は既に静寂の中。
それもそのはず。時計を見れば午前三時を過ぎていた。


「…まぁ、今日くらいはいいか」


誰に聞かせるでもなく呟くと、立ち上がりクローゼットを開けた。
冬の深夜は冷える。
ダウンジャケットを取り出すと、ひやりとした独特の素材感が、指先を撫でていく。

ためらう事なく袖を通すと、ジッパーを上げた。
物音や気配に敏感な有川家の現住人達に気付かれぬよう、細心の注意を払い外に出た。
玄関を閉める時に僅かだがカチリと音を立てるも、誰一人とて起きる気配がない。
浅水はほっと息を吐いた。



取り立てて理由があった訳ではなかった。
ただ、眠りたくなかっただけ。
深夜の空気は清とした緊張感を与えてくれる。
十年の歳月、自分が生きて来た世界。
あの世界の神気に何処となく通じるものがあると感じたのは、願望なのだろうか。
















「…月に誘われて躍り出たのかな、姫君」


…やはり、見つかった。
最初に浮かんだのは、嘆息にも似た呟き。
けれど嫌なはずがない。
自分にとって彼と言う存在は、計り知れないものなのだから。
ゆっくりと振り返る。
背後に立つのは当然と言うべき、彼。


「夜の一人歩きは危険だぜ?悪い男が姫君を奪うかも知れないからね」
「…ヒノエこそ、こんな時間にどこに…」


言いかけたまま途切れた言葉。
何故だろうか。
ヒノエに対してためらいを抱くなんて。
じっと目を凝らすが、そこにいるのは間違いなくヒノエだった。


「ふふっ、可愛いね。オレに見惚れているのかい?」
「………っ」




何故だろう、何かが違う。




浅水の中で違和感が生じる。
だが、何がと聞かれた所で説明出来ない。
目の前いるのは確かに彼なのに、自分の足は止まったまま動かなかった。


「…ヒノエ?」
「………姫君には、オレの姿が他の誰かに見えるわけ?何がお前の目を曇らせているのかな?………浅水」


ニヤッと笑うその目が、一瞬だけ艶を帯びる。
匂い立つ色香、と言うべきか。
浅水は瞠目し、そしてふと掴んだ。
違和感の正体を。


「………貴方は私の知ってるヒノエじゃない。違う?」
「姫君は面白い事を言うね。オレは正真正銘オレだけど?」


そう、確かに彼はヒノエだ。
偽者でも、怨霊が変化した訳でもない。
それだけなら彼の言葉は正しいだろう。




だが、それで納得するはずなどなかった。


「そうじゃなくて、私の知ってるヒノエじゃないってこと」
「へぇ………流石は熊野の神子姫様、といった所かな」


『浅水』と名前を呼ばれて気付いた。
そこに込められたものが純然たる好奇心であると。

初めて聞いた名を復唱する時にも似た、新鮮な扱い方をしていると。




十年、共に生きて来たのだ。
それは些細な違和感をも、浮き上がらせるに充分な年月。




いつもの彼の唇から滑り出る自分の名には、もっと深い感情が込められていた。
そう気付いた、とも言えるべき瞬間が今だろう。


「それとも、熊野の神子なんか関係なし、といった所かな?………そこまで想われている熊野別当に妬けるね」
「十年は伊達じゃないよ」
「だろうね」


ヒノエの些細な変化なら、気付かないかもしれない。
だが、彼が「別人」か否かなら分かる程に、近くにいた。


目の前の彼から感じるのは、過ぎる程の余裕。
少なくともヒノエが浅水を見つめる時には、もっと様々な感情を湛えた眼をしているのだ。
目の前の同じ容姿の彼の唇から零れた言葉には、僅かばかり赤面してしまう。
同じ姿でも、違う彼。
浅水自身の身体がそれを感知しているようだった。


「で?わざわざここに来る用って何?」


彼が違う時空から来た彼だとしたら、ここにいる目的が気にかかる。
自分の前に姿を見せたということは、目的は自分なのだろう。
浅水の問い掛けにヒノエはクスクス笑った。
如何にも面白くて堪らない、と言った様に。
やはりこの彼は、自分のよく知るヒノエと明らかに違うのだ。


「頭のいい姫君は好きだよ。何も考え付かなくなる位、オレに染めてみたくなる」
「………悪いけど、駆け引きをしたい訳じゃないから」



「ふふっ、せっかちな姫君なんだね。オレがここに来た理由、そんなに知りたい?」





くい、と顎を掴まれた。
じっと挑む様に据える浅水の眼を間近で覗き込む。
眼に帯びる艶が、月の光に煌めいた。
ふ、と口の端で刻む笑みを浮かべる。
そうすれば彼の表情を、一層読み取れないものに変えた。

…これ以上、何かを仕掛けるつもりがないのは伝わる。けれど彼が何を思って間近な距離を選んだのか、掴めそうもなかった。


「…でも、これはオレの口から言わない方がいいかな」
「……本人に聞けということ?」
「そうだね…」


深くなる微笑と共に指が離れた。
同時に、彼自身との距離も。


「…オレから言えるのは一つだけ。熊野の男は姫君に弱いってこと」


浮気に注意しろとの警告なのか。
その思いが表情にも出たようだ。
彼は一瞬眼を細め、継いで優しく笑った。
そして先程の科白をもう一度繰り返す。




「熊野の男は姫君に弱い………愛しい女の為なら何だってするんだ。だから…」





一旦言葉を区切り空を見る彼に釣られて、浅水も視線を上げた。





「………………」














彼の最後の言葉は、空気を裂く音に紛れて聞き取れなかった。




視線を戻せば、さっきまでそこにいたのを証明するかのような白き光の名残。





時空を超えて戻って行ったのだろう、本来の世界へ。







「………眠い」





いくら文明が発達し明りが絶えなくても、今は深夜だ。
閑静な街に人の姿はない。

大きな欠伸を一つ。
急速に訪れた眠気と戦うように歩を進める。









有川家を出た時は何とも感じなかったのに、今は無性に求めていた。


「帰ろう」


誰となく呟いて、踵を返す。
さほど遠くない道程は、不思議な逢瀬を繰り返し思い起こす。









………声が今、聞きたい。

名前を呼んで欲しい。









希う想いは切実な程に、彼に向けられていた。












「浅水」







万感の想いを込めて、名前を。



思わず落とした溜め息。
けれど同時に振り返ったから、彼に気付かれていないだろう。













…眼裏に焼き付いた、白き光は消えなかった。







 

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