弦月の狭間 | ナノ
闇羽
 




はらはらと肩に降り落ちるのは、共に眺めた桜でもなく。


身体を濡らしては駄目だと、力強い腕が抱き締めてくれた日に降っていた、雨でもなく。


静寂と神秘に満ちた空気を併せ持った、冷たい雪でもなく。





……もっと無機質な、埃と木片。



本宮はさっきの爆風を受けて壊れかけている。





そうと知りながら逃げ出さないのは、消えてゆく温もりを手放すつもりなど微塵もないから。





















何が起こったのか。混乱しきった頭でも何とか整理出来た。

もう一人のヒノエの悲痛な声を見捨てる訳に行かず、私達に出来ることがあるならとやってきたのは熊野本宮。



以前行った儀式を再び繰り返したのは、消えゆく「彼女」の実体に熊野権現の神気を注ぎ込むことによって繋ぎとめるためだった。







…なのに。







耳を響いたあの音は、決して儀式が成功したそれではなく、真逆のもの。

何らかの力によって跳ね返されたらしい、と気付いたときには既に遅く。
倍返し、と言わぬばかりの気が爆発となって私達に向けられた事にいち早く気付いたらしいヒノエは……
その身を盾にして私を護ってくれた。



「ヒノエ…っ!ねぇ、起きて!」



床に横たわらせたヒノエをそっと抱きながら、口越しに息を何度も吹き込んだお蔭で、クラッとする。

こうして此処で名を呼ぶのも幾十を数えただろうか。

両袖を引き千切り繋ぎ、大きく裂けた背中を縛り付けた。
応急手当とも言えぬ稚拙なことだけれど、溢れる紅は止める事が出来たと思う。



止まった呼吸をどうにかしようと人工呼吸を始めても……時間が経つばかりで悪化する一方。




「…嫌!」




このまま、あなたは居なくなるの?

どうすることも出来ぬまま私は、また失うというの?

私と、お腹の命を護るよ、と笑ってくれたヒノエを?






「……ヒノ、エっ」



涙というものは溢れすぎると、流している感覚も麻痺する様だ。

冷たくなって行く身体を掻き抱くこの腕が、震えてる。

















『一度失っただけでも辛いのに、それを再び失うことになったら、次はどんな地獄が待ってるんだと思う?』

耳の中で何度もリフレインする、苦しそうな声。

…儀式が失敗に終わったなら、彼の愛する彼女はどうなってしまったのか。
ふと想いを巡らせて、最悪の事態に結びついては慌てて首を振る。













そんな事許せない。











今度は時空を超えるなんて、出来ない。
今すぐ邸に走り望美に頼めば、逆鱗の力を貸してくれるだろうけど。

…超えるつもりもないの。


私のヒノエは、この彼しか居ない。
一度だけ時空を超えて貴方に逢いに来た私を、犯した過ちごと包んでくれた大きな貴方は、此処。




「もう、私を置いて逝かないで……!ヒノエ!!」




喉が裂ける程叫んだ。



「貴方の居ない世界なんて意味がないのに!!」









「……大丈夫」










余人のないはずのこの場に突然降った声は、柔らかいものだった。

壊れかけていようとも此処は聖域。
怨霊など近寄ることは出来ない。


だとすれば、騒ぎを聞きつけた巫女か女官だろうか?


振り向けば光に包まれた一人の少女が立っていた。




「…誰?」






問う声は間が抜けていると我ながら思う。
けれどそんな事を気にしている余裕もなくて。

白い光が彼女の身体に消えてゆく様をどこかで見た事がある、と記憶を手繰るも上手くいかない。



「あなたの声が聞こえたの。だから迷う事もなかった」

「私の、声?」

「そう、あなたの。神気の軌道を辿っても範囲が広すぎるから。助けを求める声が聞こえたから、私は間に合ったの」



まるで謎掛けの様に、言葉遊びのように。


長い髪を揺らして小さくクスリと微笑う彼女に感じたのは既視感。
会った事があるか、何かに似ていると言うのか。


……ああ、そうか。
さっきの白光は逆鱗から発せられたもの。
一度だけこの光を纏ったことがある。



「貴女は誰?」

「私は…カノエって呼んでもらえる?風花」


考えるように視線を揺らしたのはほんの一瞬。
すぐさまにっこり笑う楽しげな瞳とは裏腹に、私は少し息を呑む。


名乗った覚えなど、ないというのに。

そして、カノエというのは彼女本来の名でもないはず。


眼を細めた私の前で彼女は座り、視線の高さを揃えて来た。
こうしてみると年は私と同じか、少し下だろうか?
意外と幼い事に気付く。

じ、っと見つめる真摯な瞳に、何処となく懐かしさを覚える事が不思議。





「この人を助けたい?」

「……っ!助けられるの!?」

「言ったでしょう?間に合ったって。どうする?」

「助けて」




即答する。

ヒノエを助けられるならその術など今は関係ない。



「分かったわ。この人を助けるから…………     を助けて」



深く頷くカノエが指すのは「誰」か、聞かずとも。


当たり前だと頷けば、何処か嬉しそうに笑う少女の耳元で、銀の羽根がきらりと揺れた。
けれど、こちらに手を伸ばす時には瞬時に楽しげな光が消えている。
カノエの意図を感じ取りヒノエから手を離せば、彼女の手は鼓動のない胸元へ。



「………」



小さな小さな、聞き取れぬ小声で、恐らく呪言を呟いたのだろう。
途端にこの場を占める神気が濃くなったのがそれを裏付けている。

同時に、翳した手の平が徐々に光り出す。

息を殺す私の前で、光が手とヒノエの胸に繋がり一本の線となった。





緊迫した独特の空気を感じ取るのは、今日で二度目。





不思議と、ヒノエは助かるんだ、という絶対的な安堵を覚えた。
それは、この光が熊野権現の癒しの波動だからか。




………熊野権現の力?



ふと引っ掛かりを覚えてもう一度カノエを見る。
そっと瞼を伏せている彼女が身に纏う衣装。これは…まさか。
線だった光はどんどん太くなり、明るさを増す。



キィ……ン



同時に、何処か遠くで金属の音が響く。
紛れもなく熊野権現の神気だという、もう一つの証。


黙って見つめていた視線に気付いたのか、重たげに瞼が開かれる。

絡み合う視線は一瞬で外れた。





ヒノエを挟んで座していた私達を、眩い光が分断するかのように視界を遮ったから。










「これで大丈夫。熊野権現の神気が、別当を目覚めさせる」

「……ありがとう」




光は急速に小さくなり、全てがヒノエの胸に吸い込まれていくのを見届けて、カノエはふわりと笑った。





ありがとう。





言葉は短いけれど胸が一杯で、唇が震えるから他に何も言えなかった。





だって、ヒノエを失わずに済んだのだから。
仄かに赤みが射した頬と唇。
耳を当てればとくとくと返る生命の歌。

最愛の彼を再び抱くことの出来る喜びが、それ以上の言葉を失わせた。


……助けてくれたカノエに色々と疑問はあるけども、再び涙が出そうになり、俯く。





「どう致しまして、風花」




手を握ってくれたカノエの手は暖かく、それが今まで神気を送ってくれた熱所以だと。
気付けば唇から勝手に零れた、さっき思い至った人物の名。



「カノエは…浅水さんなのかしら?」



突然の質問に、カノエの眼が丸くなる。
それからゆっくりと視線を巡らせ、言葉を探す。





彼女から生まれた光は、二度眼にしたものと同じだった。
その二度とも、熊野権現と深い縁を持つ二人のヒノエから。

例え神職であっても、これ程の強い神気を発せられる筈はない。

そう。神に深く愛された者のみが使えるのだとしたら?
カノエは「神の愛娘」という事になる。


二人のヒノエが教えてくれたじゃない。

神の愛娘、と呼ばれるただ一人の女性を……。





「風花はどう思う?」



クスリと瞳を揺らして尋ねてくるカノエの顔は、どこか楽しそう。



「質問には質問で返すなんて、これだから熊野の人は………」



思わず吐いた溜め息混じりの声は、最後まで紡がれる事がなかった。



ぼんやりと、けれどはっきりと。
私を見つめる一対の紅玉。



「…風花?」

「ヒ…ノエ?」




愛しそうな者を見る、そんな眼に涙腺が堰を切りそうになって。
泣いてしまえばプライドの高い彼が自分を責めてしまうから、堪えようとしたけれど。


グッと腕を引かれて、視界が塞がれた。



「オレの前では泣いていいって何度も言っただろ?姫君」

「……ヒノエっ……」

「はは、オレとしたことがお前を泣かせるなんてヘマしちまったな」



愛しい匂い。
熱い腕。片手で私を抱き締めたまま身を起こす。



「ごめん、それでもお前を護れたオレは及第点、かな?」

「………馬鹿。あなたがいなければ生きていけないのに…っ」



込みあがる想いに、そのしなやかな首に腕を回せば、癖のある赤髪が頬を擽った。
両腕で強く抱き締められる。
耳元で息を吹きかけてくるヒノエは何処までもヒノエのまま。
それがこんなに安心を与えてくれると思っても見なかった。



「じゃぁ、この詫びはいずれ、オレの身体で返すよ」

「…馬鹿。でも、その前に」

「分かっているよ、風花。まだ仕事が残っている。そうだろ?」



そうだろ?と問うのは私に向けたものでなく。

釣られて顔を上げれば、カノエが膝をついた。



「はい。私の力を添えれば恐らく成功すると思います、別当殿」

「何?…………ああ、なるほど。確かに熊野に縁が深いあんたがいれば、あちらも問題ないかもな」

「ええ」

「……カノエ?」



私と話していたときと打って変わって、カノエの態度は畏まったものになっていた。
ヒノエはといえば彼女を凝視したのも束の間、「何か」に思い当たったようで、ニヤリと唇の端を上げる。



……浅水さんでは、ない?


けれど、やはり喉元に違和感を感じるようなすっきりしない心地。

沈黙している私を立ち上がったヒノエが手を差し伸べ、立たせてくれる。



「風花。もう一度手伝ってくれるかい?」

「………いいわ」



もう一度。



衒いもなく笑いかける彼は、眩しい光。
今度は大丈夫だ、と自信すら感じる。




「あんたの望みがあの姫君なら、何があっても今度は叶えるさ。熊野の男は義理深いってね。恩人だからね……カノエ」


「ありがとう」









年相応な笑顔を浮かべたカノエの肩越しに、



壊れた壁と白い雪景色。







  

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