天海月船 | ナノ
 




熊野が星の檻に包まれる夜。


いっそ、このまま愛しき人を包み込んでくれないだろうか。





埒のない願いを天に捧げる。


この先の自分に幸はなくともいい。

未来など望まない。





ただ少しだけあなたを引き止めて、居られたのなら。
 





あなたが、あなたを必要とする世界に還るまで。



















「一華……また、逢えますか?」



一歩下がったカノエの口から零れ落ちた言葉。
その思いも寄らぬ甘さと切なさに、一華は眼を見開く。
言葉にした本人も咄嗟に口を覆っている事から、思いも寄らない一言だったらしい。


帰り道に何度、同じ言葉を口にしかけただろうか。
例えそれが困難だとしても、会いに行くと。



「ええ、きっと」




秘めて来た想いは、一度堰を切ると止められない。
それが限られた逢瀬だと知っていれば、尚更。



邸から近づいている気配は、もう間近まで迫っていた。
見知ったものがひとつ。
潜められた気配すら他にない事から、烏から報告を受けたヒノトのようだ。

時空は違っても、熊野は熊野。
一握りの人物しか知らぬ獣道にカノエの後ろ姿が消える。
それから弟の足音が聞こえた事に、一華は密かに安堵の息を吐いた。
















かさり、沓音を立ててこちらに歩み寄る。
気配を絶ったまま不意に近づき混乱させぬ為に、こうして人が近づく音を立てるのは、思い遣りと言うべきか。

だが、今の場合には違う意味合いを持つ。
何故ならヒノトは、一華が気配に気付いていると知っているから。
彼に逢わせぬ様、カノエを帰した行動からもそれは証明出来ている筈だ。



静かな足取りが却って彼の感情の裏腹を伝える。
どうやらヒノトの怒りは予想以上らしい。



「わざわざ出迎えてくださったの?」



振り返り、普段と変わらぬ笑みを向ける。
するとヒノトも同じ微笑を返した。



「親愛なる姉上様のお帰りなら出迎えない訳にいかないんでね」

「あら、嬉しいこと」



怒りの矛先は、烏を振り切っての外出を咎めているのか。
それとも、カノエをヒノトの眼から遠ざけたことか。

恐らく両方だろう。
ならば、次にヒノトが口にする言葉に予想が付く。



「一華、今のは誰だ?」

「勝浦の人ですわ。女性に夜道は危険だと送って下さったの。邸までと仰って下さったけれど、あなたが居れば充分。ですから帰って頂きました」



随分な言い様だが嘘ではない。

双子とは不便なもので、互いに嘘は見抜く。
それゆえヒノトはこんな時、率直な態度を通してくるのが厄介だと思う。
が、父や大叔父とは違い、純粋な面を残す彼を尊敬はしているのだ、これでも。



「ヒノトが気になさるのなら、引き止めておくべきでしたわね」

「……いや、それならいい」



ヒノトの表情から考えは窺い知れない。
どうやら真意を反芻しているのだろう。
だが、一華がこれ以上話す気がないとだけは悟ったらしい。



「とにかく帰るぜ。身体を冷やすといけないからな」



無造作に差し出された手を握る。
カノエに触れたのとは反対の手だった事に、密かに安堵する。


熊野の男は女性の扱いに長けている。
それはヒノトも例に漏れず、外では随分と遊んでいる様だ。
だがそんな彼も、一華の前では時折少年時代の面影を見せる。
尤も一華自身も、ヒノトの前では気が緩んでしまうから、お互い様と言えなくもないけれど。



…問題は、これから先。




溜め息を隠し、胸の中で何度も呟いた名を繰り返す。
そうすれば僅かながらに口元が緩んだ。



「ヒノト、明日から暫く弁慶叔父上の庵に通わせて下さいませ」

「弁慶叔父……か、何の用件か訊ねても?」



開口一番で「否」と返さないだけまだ良い。
一華に対して過剰な心配性の彼にしてみれば、そうしたいのは山々だろうけれど。

だが、大叔父が絡む事柄ならばそう無碍に却下できない。
敵に回すと恐ろしい、深い知識と洞察力の塊…ヒノトが一番警戒しているのは、間違いなく彼。

だから自分も、彼の名を口にした。



「それは言えませんわね。内密にと叔父上と誓いましたもの」



時間があれば叔父に口裏合わせを願えたのに。
勿論そうなれば、今迄の経緯を全て明かさねばならぬだろうし、その上でヒノトや父に正直に話せと諭される可能性は高い。


けれど、一華は叔父の別の一面を知っている。



「叔父上に……ね」



ヒノトの眼がきらりと光る。
やはりこれ位では納得されてくれる程、可愛い人間ではない。
前方から柔らかな声がしたのは、そんな事を考えていた時。



「ヒノト、あまり一華を困らせては嫌われてしまうわよ?」

「…母上」

「女の子を苛めないの。一華、お帰りなさい」



短距離と言え暗くなった道を、邸から歩いてきたのか。
近づく気配は感じていたものの、それが母であったことに二人は驚く。
夜道を一人で歩くなど危険ではと、自分を棚に挙げ思ったが、すぐに烏の存在に気付いた。



「ただ今戻りました、母上」

「苛めてるとは、随分人聞き悪いんじゃない?」

「まぁ、違ったのね。ごめんなさい」



一応謝罪は述べた上で、母──風花はクスリと笑う。



「ヒノト、父上が困っていたわよ。お話の途中で席を立つなんて、よっぽど一華が心配だったのね」

「…母上!」

「用件は私が聞いてあげるから、あなたは父上の所へ行きなさい」



あっさりと言う風花に、ヒノトは思わず絶句した。
けれど、父の話を中断したのは事実。
母の言葉を蔑ろに出来る訳もない。
まだ問いたげにこちらを見るものの、すぐに頷き身を翻した。



「ああ、それと疑り深い殿方は嫌われるわよ」

「…肝に銘じておくよ」



立ち去らんとしたヒノトも、流石に苦笑した。
風花の声は容赦ない。
「一華に烏の監視を付けるな」と匂わせている辺り、父に…いや、大叔父に似ている。

それは熊野に嫁いで身に着けた、したたかさだろうか。

いつか聞きたいと思いながら、こちらを振り返る風花を静かに見つめた。



「らしくないのね、一華」

「母上には…お見通しですわね」



返す言葉に詰まり、ややあって苦々しい面持ちになる。
そんな一華を静かに見、風花は寂しそうに眼を細める。



「どうかしら?何も見えていないかも知れない。ただ、一華の声がいつもより鋭い事と、ヒノトが無表情だったから。何かあると思うのはそれで充分でしょう?」



静かに意識を済ませば、視線を感じる。
誰が聞き耳立てているとも知れぬこの場では、話し難い。



「……母上。今は何も言えませんわ。けれど、いつか…」

「分かったわ。何も聞かない。でも、これだけは覚えていて」




言葉を区切り、風花は空を見上げた。
一華も釣られて首を傾けると、満天の星。





静かな空間。




何故かこの風景を覚えなければ、と思った。
母がそれを望んでいるのだとも。












「あなたの人生はあなたのものよ。私がヒノエを選んだように、あなたの人生を選びなさい」



その時吹いた風が冷たさを帯び、身震いが起こった。
初秋の夜は深い。
昼間との寒暖の差は、実際よりも大きく感じて。



「流石に寒くなってきたわね。戻りましょうか」

「はい、母上」



たった今交わした会話の事など忘れたかのように、二人肩を並べた。









 



夜が明けたばかりの空気は深々としたもの。
静けさと厳かなそれは、加護を与えてくれる髪の息吹の様に感じる。


まだ葉が青いこの季節。
暫く経てば紅葉に色を変えるだろうが、今はその時期ではない。
けれど夏とは違い、覚えるのは肌寒さ。
道を急ぎながら身体を両手で抱き締めた。






急かされるのは、ただ逢いたい一心から。






一華の想いが見せた泡沫の夢幻でないと、証明したくて。
昨夜は短く感じた道程が、今朝は遠く感じた。

勝浦に着き、見知った宿を訪れば、女将の挨拶を受ける。



一華と気付かれてしまったか。




一瞬ひやりとしたものの、どうやら頭から被った衣を見ている。
昨日の宿泊客と似た雰囲気を醸しているから、間違えているのだろう。
確かに、一華とカノエは似ていなくもない。

……同じ血が流れているのだから。



「部屋は……こちらでしたわね」



入り口に立ち戸に手を添え、小さく呟いた。
そうする事で、室内にいるカノエの警戒を解こうとする。

戸は、一華の手に力が籠もる前に開かれた。








夢ではない。
彼は、此処に居る。
此処に……一華の、手の届くところに。








泣きたい程の安堵を覚えた、その時。

信じられない光景に固まってしまうとは、一体誰が予想しえたのか。




「おはようございます、一華」




いっそ眩しいばかりの笑顔。
驚いたのは、その髪。
どうやら昨夜の内に色を変えたらしい。


紅でないその色は、見慣れぬ筈なのに、妙に似合っていた。

こうして見れば、変わってしまった髪色だけでなく、物腰や口調までそっくりだと思わずにいられない。
親子と言えば制裁を受けそうだが、兄弟だ、と言えば納得せざるを得なくなる。


それ故に理解したことがひとつ。
カノエが夜の内に会い、彼に提案した人物を。




「……弁慶叔父上…ですわね」



一華が庇護せずとも、彼はしたたかな考えと行動力を持っている。



そんな姿にまた惹かれたことは、胸中に深く秘めた。






願った罪の生まれたこの日を
生涯忘れることなどないのだろう きっと






  

 
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