天海月船 | ナノ
 




幼い頃、母の膝で聴いた物語。


優しい声で紡がれる不思議な出逢いに想いを馳せ、いつか訪れるのだと言う運命を心待ちにしていた。







忘れられない面影を今でも求める私。



運命とはどれ程残酷でどれ程愛しいのか。




幻でないあの人に、此処で出逢うなんて。

















 
夏が終わり秋を迎え始めた。



「弁慶叔父様に頼まれていた書を届けに行くわ」



そう女房に言い置き、逃げる様に邸を出る。

急いだのは、弟のヒノトが間もなく海から戻って来るから。
最近口煩くなった彼は、危険だからと一華を一人では出したがらない。
可能な限り彼が付いてくるか。
もしくは烏を付けて来る。


一華自身、それに否を唱えるつもりもない。
双子の片割れであり時期頭領でもあるヒノトを大切に思うし敬愛しているのだ。


それに、数年前に起きた一華の誘拐未遂事件。
ヒノトが心配して少々過保護気味になっても仕方ないだろう。




けれど今日は、彼を連れていけない理由があった。



「父上は無理強いしないと仰ったけれど。叔父上に相談すべきでしょうから」



相談の内容は、平家からの使者が告げた内容。

使者としてやって来た彼の顔を思い出せば、憂鬱な溜め息がまた生まれた。














本宮の裏手から那智の滝を降りて行けば、静寂の中響く水の鼓動。

幼い頃から一華はよく此処に来た。
両親や、父の叔父と。
ヒノトと二人で来ることが一番多かったのは、共有した時間と絆があるから。
日が暮れるまで遊んだ幼い頃の二人。
大人になるにつれ互いに忙しくなり、あんな風に過ごすことはなくなった。

そして同時にヒノトへの秘密が増えていく。










尤も、一華の抱える最大の秘密は

誰にも打ち明けられないけれど。









「……   」



こうして誰もいない場所で

密やかに名を呼ぶことしか、出来ない。




















下流に進むにつれ、水音が激しくなっていく。
水辺に、畳まれた衣を発見したのは偶然だった。



「入水自殺…ではなさそうね」



ちらりと見て判断したのは、衣が水に濡れぬように置かれている事。
それならば放って置くべきだろう。

そのまま歩を進めるつもりだが、ふと足が止まった。
気になったのはその着物の色。
思わず手を伸ばし、触れた。










記憶にまだ、鮮やかに残っている。

この衣を身に纏っていた、人物を。






「……カノエ?」




その名を、心の中で幾度呼んだことか。









「一華」




忘れられなかった声が、自分の名を呼んだのはその時。
期待と不安で振り向けば単衣姿の青年の姿。

駆け寄り、思い切り胸に飛び込みたい衝動を堪えるのが、こんなに労力を使うなんて。



水浴びをしていたのは、やはり彼だった。
















「ここで会ったのが一華で助かりました」



一華が手にしていた被衣を頭から被り、カノエが言う。
弁慶に会うために出掛けた事が幸いした。
どうせなら彼と、勝浦で買い物に付き合って貰うつもりで、金子を持っている。


言葉を返さず笑いかけ、二人は勝浦の町に向かった。

宿に着くまでは、他愛のない会話を楽しんで。
漸く本題に入ったのは、案内された一室に落ち着き、人の気配がないことを確認した後。



「今度は、あなただけなのかしら?」

「そのはずです。姉とは離れていましたし、逆鱗は今、姉の手元にはないんですよ」

「逆鱗の力ではないと仰るの?」

「恐らく。僕にも良く分かりませんが」

「…そう。でしたらいずれ、父上にお会いした方が宜しいですわね」




逆鱗の力ではない。
そして、時空を超えたのはカノエだけ。


ならばやはり、本宮にいる両親の元へ連れて行けばよかったのだろうか。
少なくともカノエに出逢った直後は、そのつもりだったのだ。


濡れた単衣姿に、冷たい風が吹きつけるまでは。


此処から本宮へ帰るより、勝浦の入り口で宿を取る方が、距離は半分で済む。
馴染みのない土地で病に伏せるなんてさせたくなかった。



「…それが理由で、私の判断である以上、あなたの身柄は私が預かりますわね」



言い切れば、意外だったのだろうか。
少しばかり眼を見開き、すぐ後に頷いた。



「随分と有り難いお誘いですね」

「ですから、あなたは私に従って下さいませ」



申し訳ないと思わせないよう、遠回しに先手を打つ。
笑いながら言えば、一華の意思が伝わったらしい。



「断る理由は今の僕にありませんよ」



柔らかに細くなる眼は、自分のものとも弟のそれとも違った。












「……あら、もう帰らなくては」



気が付けば外は夕暮れになりかけていた。
時の経過も忘れていたなんて自分らしくもない。
密かに苦笑しながら立ち上がれば、あわせてカノエも立ち上がった。
彼の意図に気付き、衣を取ろうとした手を、手で制す。




「ご心配には及びませんわ。勝浦は庭の様なものです」

「いくら慣れ親しんだ土地でも、暗い中帰らせるわけはいきません」

「あら、多少の武術も心得ていますもの。それに、連れ立って歩くのは危険でしょう?」



この時空で、カノエの赤髪は非常に目立つ。
髪に赤を持つのは熊野でも僅か数人でしかない事は、あまりにも有名だから。
しかもその全員が別当家と濃い血縁なのだ。
同じ色のカノエを見れば、現別当にあらぬ疑いをかけられる可能性が高い。


ヒノトだと誤魔化せればいいがそれは不可能。
破天荒で陽気な彼は、勝浦にも日常的に徘徊しているのだから。




それに、たとえ嘘でも弟だと言いたくなかった。

個人的な理由だけれど。




そんな遠回しな牽制も、カノエは一蹴して笑う。



「衣を被るから平気です。僕も熊野の男ですから」



だから、女性を送るのは当然のこと。

決然と言われ、これ以上は否と言わせぬ迫力を感じさせられては、折れるしかない。



「……諦めるほかありませんわね」

「分かって貰えて良かった」



あと少し、時を共有できる喜びを隠し、笑い返す。



「では、お願いしますわ、カノエ」



今は堂々と呼べる、名前を。




 



何十回も何百回もくちずさむたび恋しくて恋しくて











  

 
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