『名前さん…』
誰かが自分を呼ぶ声がする。
ぼんやりとしていて相手の顔は見えない。
夢の中で自分の手を取り、一生懸命に呼んでいるのだ。何処かで聞いたことがあるこの声は、一体誰の声だろう。
とりあえず、まだ眠たいからもう少し寝かして欲しいものだ――
「名前さん!!!」
「う、うわ!!」
「あ。やっと起きましたね。おはようございます」
「…千寿郎く…ん…せんじゅ…千寿郎くん!?」
夢の中だと思っていた出来事は、どうやら現実のようで、寝ていた名前を千寿郎が一生懸命に起こしていた。
何度目か分からない呼び掛けで、目を覚ました名前は昨日の記憶を急いで探る。
昨日、縁側で夜風に当たりながら杏寿郎と話をしていて…隣に千寿郎くんが寝ていて…杏寿郎の体温が暖かく感じ…それから…
「記憶が無い」
確かに昨日は杏寿郎と話をしていた。
そこまでは覚えている。
話をしていた筈なのに、何故自分は布団で寝ているのだ?
寝ぼけて布団を引いて寝た…。
いやいや、そしたら何故千寿郎が自分を起こす?
「どうしよう千寿郎くん…本当に記憶が無い」
「え!?大丈夫ですか!?自分の名前分かりますか!?」
「いや、あの、そこまでの記憶が無いって訳じゃ無くて…自分がここで寝るまでの記憶が無いんだ」
「あ、そっちですか…びっくりしました。名前さんも兄上も昨日はぐっすりでしたからね」
「ん?名前さんも『兄上も』??」
何故そこで杏寿郎の名前が出てくるのだ。
まさか冨岡事件に引き続き、杏寿郎とも何かしてしまったのか…。
まさか…今度は一夜を共にしてしまった、とか?
あぁ…もう、お嫁に行けないかもしれない。
名前は深い溜息を付き、その場で項垂れた。
「名前さんが何を考えているのか何となく分かりますが、名前さんの心配しているようなことは何もありません。ちなみに名前さんが布団に居る理由は、昨日、兄上がここまで運んで下さったからです」
「き、杏寿郎が?」
「はい。夜明け前ですが、僕が目を覚ますと名前さんと兄上が縁側で座ったまま、お互い寄り添って眠られておりました」
「え」
「それを見た僕は、兄上だけを起こして名前さんをここまで運んでもらったのです。名前さん、とても深い睡眠だったのか、兄上に抱き抱えられても起きる気配がありませんでしたよ」
「だ、抱き抱えられっ…!!」
死にたい。
その一言に限る。
杏寿郎に寄りかかり、爆睡した挙句…抱き抱えて布団まで連れてこられたとはもう恥の中の恥だ。
確かに昨日は『杏寿郎の体温は暖かいな』と思った。けれども…
さすがに布団まで連れて来てもらったのは、杏寿郎に申し訳ない。
「…そういえば杏寿郎は…?」
先程から千寿郎と話すばかりで、問題の杏寿郎の姿が見えない。
気配も感じ無いから外にいるとは思うのだが…
「一度家に帰ってます。『また後で迎えに来る』と伝えて欲しいと兄上から」
「そ、そっか…」
自分ばかり寝てしまって、杏寿郎の身体は休まっているだろうか。
昨日も任務終わりに呼びつけてしまったのだから、とても心配だ。
「名前さん、さっきから考え事が多すぎです。ずっと一点を見つめては難しい顔をしてますよ?」
「え、あ、ごめん…」
「兄上の事なら心配しないでください。兄上もぐっすり寝ていたと言ったはずです」
「その『ぐっすり』って?」
「ふふ、実はですね…」
『兄上が警戒心も無く、人前で寝るのって中々無いんです。僕が兄上に近付いても起きませんでしたからね。それほど名前さんを信用しているんだと思います。自分の身体を名前さんに預けて寝ていたくらいですから』
「中慎ましそうで何よりです」
と最後に笑顔を見せた千寿郎。
杏寿郎の弟が言っているのだから、本当だろう。
「そっか。信用…されているんだ」
名前も杏寿郎の事を信用している。だからこそ、千寿郎が言った言葉がとても嬉しかった。
寄り添って寝ていたというのは少し恥ずかしいが、安心していたから自分も彼に身を委ねていたのだろう。
なんだか久しぶりに目覚めがいい朝である。
「もうすぐ兄上が来ます。勝手に台所を借りてしまったのですが大丈夫ですか?」
「全然問題ないよ」
「ありがとうございます。朝餉の支度が出来てますので、名前さんも早く身支度を」
「ありがとう…」
勝手に連れてきて、勝手に食事の相手をさせて、挙句の果てにはご飯を作ってもらうとは、愚図にも程がある。大の大人が本当に情けない。
何か千寿郎にお礼をしなければ。
「千寿郎くん…欲しいものとか無い…?」
「え!いきなりどうしたんですか!」
「いや、歳上の愚図さを挽回したくて…」
「気にしないでくださいっ!」
「そう言われても困る」
「こちらも困ります!」
「お願いだよ…何かさせて…」
「えーっ…あ!」
困った表情を見せていた千寿郎だが、何か思いついたのかいきなり笑顔へと変わった。
「なになに!?」
これで挽回だと言わんばかりに、名前は千寿郎の言葉に食いつく。
そんな彼はもじもじと恥ずかしそうにしていた。
きっと普段、買って貰えない何かだろう。物を欲しがる仕草は、とても可愛い。何でも与えたくなってしまう。
「何でもいいんですか?」
「大丈夫、何でもどうぞ!」
「では…兄上と結婚していただき、僕の姉上となってくださ…「違う違う違う違う!!」
「何でもいいと言ったじゃないですか!それに名前さん!僕は本気ですよ!!」
「確かに言ったけど、それとこれは別!…嘘でも言っていいことと悪い事があります!」
この兄弟はある意味似たもの同士、ぶっ飛んだ考えをお持ちな兄弟である。
性格は全く違うくせに。
彼女は先程よりも深く溜息を付き、また項垂れてしまった。
正しく嘘をつきましょう
(『結婚』とかどいつもこいつも簡単に言うんじゃありません!!)