「師範」
蝶屋敷の縁側で、優雅にお茶を啜っていた時だった。彼女が「師範」と呼んだのは。
その言葉で一瞬、時間が止まった気がした。だが残念ながら時は進んでおり、気付けば湯呑みのお茶は全て零れていた。慌ててお茶を拭く、そんな一部始終を張本人は黙って見つめているだけだった。
「か、カナヲ…?なんで私の事を師範と呼ぶの?」
お茶を零した理由は、それである。
カナヲはいつも通り無言で銅貨を投げ、手の甲でそれを受け取る。
出た面は『表』だった。
「聞きました、先日の話」
表情一つ変えずに彼女は口を開いた。
これで『裏』だったら、何も説明はしなかったのだろうか。それはそれで問題だと名前は苦笑いを浮かべた。
確かにカナエとの話で面倒を見ると決めたが、こんなにも早くその日が来るとは思っていなかった。そもそも継子では無い子に「師範」と呼ばれるのは変な気がする。まぁ助けると約束した以上、どう呼ばれようと彼女の面倒を見るのには変わりはないか。
「剣筋くらいなら…見てあげられるかな」
そこから名前とカナヲの特訓が始まった。
最初、カナヲの剣筋を見た時は驚いた。カナエの花の呼吸を見様見真似で覚えていたのだ。どうやら彼女は目が良いらしい。
しかし、完璧には程遠かった。呼吸も乱れており、体幹も無い。これは基礎体力から付けるべきと、名前は更にカナヲへ体力作りを指示した。
「あらあら、まぁ…」
「姉さん、いいの?」
「いいのよ、こんなに早く始まったのは予想外だったけど…カナヲ、なんだか楽しそうじゃない?」
「楽しそう…か」
名前とカナヲが鍛錬している所を、胡蝶姉妹は静かに見守っていた。いっその事、剣士を認めればいいのに。まぁ言ったところで彼女らは首を横に振るだろう。
だいぶ剣筋も体幹も前よりは型になってきていた。カナヲの成長を感じながら、今日も鍛錬を続ける。
そして彼女との約束を守り続け、1ヶ月が経ったある日。
最も親しい友人、胡蝶カナエがこの世から消えた。
それからの日々はあまり覚えていない。蝶屋敷とも疎遠になり、カナヲとも会わなくなった。彼女には悪いと思ったが、それどころではない。自分の精神を安定させるので精一杯だった。
その後、蟲柱になったしのぶがカナヲを継子にしたと耳にした。しのぶが継子にしたということは、彼女がこれからの「師範」である。
しのぶが師範ならば安心だ。カナヲが迷う事はもうないだろう。
いっその事、自分を忘れてくれたら楽なのに。
それでも、カナエとの約束を破った事には変わりは無い。ずっと名前を…それが縛り続けている。
……………………………………………
名前はある場所に向かっていた。
もうすぐ夜が明ける。夜が明けたらこの最終選別は終了だ。
カナヲに出会い、色々な記憶が頭の中を駆け回った。カナエとの出会い、カナエとの日々。そして…カナエとの最期の時。
…カナエは自分のせいで死んだのだ。
その事実は変わらない。そして忘れてはいけない。
彼女を受け入れるのには、もう少し時間がかかりそうだ。
「じゃあ…受け入れることができた時は…?」
もしそんな日が来るとすれば…。
今まで1度も顔を出した事の無い、カナエが眠っている場所にでも会いに行ってみよう。
遅いと怒られるだろうか。いや、きっといつもみたいに、彼女は花のような笑顔で迎えてくれる。
あぁ、本当は君に会って謝れればどんなにいいだろうか。
風で散る藤の花びらが名前を包む。
気付けばここは、藤の花が咲く始まりの地点。名前の予想通りの顔触れが、そこには揃っていた。彼らに気付かれないよう、背後から一部始終を静かに見守る。
これから色々な事があるだろう。
『人を守り、鬼を斬る』それが使命である。
その中で、大切な人を失う時も来るかもしれない。…自分のように。
この背中を守れるように柱である自分は、もっと強くならなければならない。
そう、学ばせてもらった。
鬼殺隊の未来を背負う若い君たち。
心から歓迎しよう。
「ようこそ、鬼殺隊へ」
不揃いな傷跡たち
(さて、この子達の事を報告しなければ)