The Eve


 ジェイドとフロイドに担がれるようにして帰ってきた監督生に、グリムは慌ててすり寄った。いつも、何があろうとも笑顔を絶やさなかった彼女がこんなにも憔悴しきっているのは初めてだった。何があったのかと問い詰めても、二人は声を揃えて「知らない」と返す。嘘をついているようには見えなかったので、これ以上追及するのはやめておいた。

「なぁ、オマエ、どうしちゃったんだゾ」

 ベッドの傍らに小さく座り込んで、ぺちぺちと頬をつつく。色素の薄い唇から、今にも消えてしまいそうなうわ言のような声が聞こえて、より一層不安が募った。

「元気出すんだゾ。ほら、オマエが好きな、オレ様の爪切り。今なら好きなだけさせてやるんだゾ」

 そうだ。グリムは爪が伸びるのが早いから、こまめに切ってあげないと――。瞬間、頭に閃光が走った。飛び起きて、丸めた自分の爪先を食い入るように眺める。桜色の皮膚から少しだけ白が見える、丸く整えられた十本。最後に切ったのは、いつだった?

「どうして……どうして」

 グリムの爪は伸びているのに、同じ頻度で切っているはずの自分の爪だけが伸びていなかった。ラウンジで人魚の肉を食べたのはつい一週間ほど前でしかない。されど、最後に爪を切ったのは一ヶ月はゆうに昔のはずだ。
 変化は、もっと前からあったはずだった。思い出せ。マレウスの行動を。言葉を。彼から貰ったものを。ブローチ。コーヒー……。

『人魚の肉に、血か。ふむ』

 何かを会得したような言葉に、ぞくりと身体が粟立った。肌寒い日のテラスで、夕陽の落ちた図書室で、何度か差し出されたコーヒー。その中に、例えば夜の眷属を統べる王の末梢の血が入っていなかったと、誰が証明できようか?

 がくがくと震える身体を抱きしめるようにして包む。ああ、なんということだろう。状況はもう、自分だけでどうにかなる話ではなくなってしまった。逃げなくては。帰らなくては。彼が、気付かないうちに。

 立ち上がり、外へと飛び出す。足がもつれて、何度も転びそうになる。胃酸で焼けた喉が痛かった。脇目も振らず夜のカレッジを走り抜けて、学園長室の扉を叩いた。のんびりした声で扉を開いた彼は、されど彼女の姿を目にして、急いで中に匿った。

 声も発せないほどに、喉が乾いていた。差し出された水を飲むことさえ怖がった彼女を、何とか宥めすかす。ようやく一口それを含んで、目を閉じる。それから、震える声でこれまでのことを話し始めた。図書室、コーヒー、ブローチ。そしてモストロ・ラウンジでのこと。

「ああ、なんという……。あなたには分からないでしょうが、そのブローチには彼の魔力が込められています。恐ろしい程に強い力です。もしかしたら、このブローチがあなたの変化に関係しているのかもしれない。さあ、一先ずそれをこちらに」

 震える手で胸元のリボンからブローチを外し、学園長の前に差し出す。テーブルの上で揺らぐそれは、夜の中でもなお美しい光だった。ごほん、と咳払いをして、ディア・クロウリーは続きを紡いでいく。

「実は、あなたが元いた世界に戻る手段の検討はついています。こっそり研究を進めてはいましたが、現時点では与えられるのは片道切符だけでして。そちらに戻れば、あなたはもう二度とこの世界には戻ってはこれないでしょう。しかしそれは、言い換えるなら、元の世界に戻ったあなたに此方から干渉することもまた不可能ということ」

 それが、今のあなたを救う唯一の手段です、と彼は続ける。もはや、その言葉に縋るしかできなかった。おずおずと頷く彼女にふと見せた表情は、仮面の下に隠れたまま消えた。

「時は一刻を争います。すみませんが、皆さんへのお別れの時間を与えることはできないでしょう。元の世界に戻る儀式は半宵の深夜二時に鏡の間でしか行えませんから、私はそれまでに準備をしておきます。時間になれば寮に迎えに行きますので、あなたもそのつもりで支度を進めておくように」

 学園長の付き添いの元、再び寮へと戻る。心配するグリムに努めて明るく振舞って、そっと寝かしつけた。寝息が聞こえてきた頃を見計らい、静かにお別れの言葉を告げる。視界を掠めた明るい色に目を向けると、笑顔になるようにと抜かれた一本の黄色の花が、彼女の枕元に添えられていた。

 引き出しから便箋を取り出す。月明かりだけを頼りに、震える手を何とか動かしながらこれまで関わった全ての人に手紙を書き綴った。元の世界へ帰ること。謝罪と、溢れるほどの感謝。またいつか、と書いた文字を消して、代わりにさようならを。そうして、大切に封筒にしまい込んだ。

 しんと静まった部屋の中。ベッドにもたれ掛かるように座って、ただひたすらに時を待つ。チクタクと時を刻む音が、鼓動の音にリンクして、これまで過ごした日々が、泡の夢のように浮かんでは消えていく。楽しかった。幸せだった。元の世界のことを、忘れそうになるくらいに。それが、こんなことになってしまうなんて。

 トントン、とドアをノックする音が聞こえた。重い身体をなんとか立ち上がらせる。最後に一度だけ振り向いて、唇だけでさようならを告げる。息を吸って、吐いて。瞼を縁取るような熱が落ちてこないように、少しだけ顔を上げて、静かに扉を開いた。


「――迎えに来たぞ。人の子よ」
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