エリクサー



 モストロ・ラウンジは今日も今日とて大盛況であった。ガラスに隔たれた水槽から、美しい色をした魚達がその様子を伺うように泳いでいる。その優雅さとは似ても似つかない、目の回るような一日を過ごし、ようやく一息ついたのはすでに夜の十時を過ぎた頃だった。
 食堂はとっくに閉まっている時間なので、九時を超えてからは希望すれば賄いが提供される。とはいえ一癖も二癖もあるオクタヴィネル寮長やその側近と共に食事をしたいという物好きはそうおらず、近頃はよく手伝うようになった監督生と夜食を囲むのが最近の流れであった。

「どうぞ。今日もご苦労さまでした」

 白磁の角皿が差し出される。本日のメニューは薄くスライスした肉のソテーと付け合わせのサラダ。黒いハットのその下に銀色がかった薄紫の髪を揺らめかせ、アズール・アーシェングロットはVIPルームのソファーにその身を沈めた。監督生へのメニューとは違い、彼の前に置かれたのは海藻たっぷりのサラダとスープのみだ。

 空腹に焦らされ一口含めば、じわりととろけるような肉の食感が舌を満たしていく。以前マレウスにも言ったが、アズールは本当に料理の腕がいい。対する彼は、契約書を傍らに、少しげんなりとしたような顔でサラダをつついていた。

「あなた、よくそんなものを食べますね」
「確かに、こんな遅い時間にお肉なんて食べたら太っちゃうかもしれないですけど……。でも美味しいですよ。先輩も食べますか?」
「いえ、僕は結構です。あまり食欲がありませんので」

 苦味を無理やり噛み潰したような顔をして、彼はあっさりと拒絶した。よほど昔の姿には戻りたくないのか、陽が高いうちですら彼は綿密にカロリー計算を怠らない。

 隣のラウンジスペースではジェイドとフロイドが床の掃除をしている。従業員の使い方には些か問題はあるものの、この忙しさと学業を両立出来るのだから本当に大したものだ。ラウンジでのアルバイトが決まった際にグリムにも声を掛けてはみたが、以前契約の元で酷使されたのが相当効いたのか、二度とここでは働きたくないと一蹴されてしまった。彼女が勤務している間は、エースやデュースのところにいるはずだ。

 最初こそお互い警戒の紐が解けずにいたものの、近頃は、特にアズールとは賄いの時間を通じて打ち解けられてきた気がする。だからこそ、気が付いた。

「あの。先輩、何かありましたか?」
「はい?」
「いえ……なんだか悩んでるように見えたので」

 コツン。シルバーのフォークの先が陶器にぶつかる音がする。水底のような沈黙が駆け抜けた。それを嫌って、ガラスのコップに手を伸ばす。ごくり、と嚥下する音がいやに耳に残った。
 
「その胸元のブローチはマレウスさんからですか」

 常に論理的である彼にしては珍しい、脈絡のない言葉だった。思わず食事の手を止めて頷く。

「そうです。この前、作ってくれて。よく分かりましたね」
「それはそれは。分からないのはあなたくらいのものですよ」

 それはどういう意味だろうか。その表情を伺えど、視線を逸らして、白磁の皿を見つめるその目が何を考えているのかは分からない。

 ソテーをフォークで刺しながら、不意に先日のレオナの言葉を思い出した。あの時はよく分からないまま帰ってきてしまったが、首輪とは、もしかしたらこのブローチのことを指していたのだろうか。だとしたら、どうしてあんな物言いをしたのだろう。考えようとするも、靄のように頭が霞む。慣れないアルバイトに疲れているのだろう。

 口に含んで、咀嚼する。噛み締めたところからじわりと染みでる油は適度にさっぱりしていて食べやすかった。ふと視線を感じて、向かいに座るアズールを見つめ返す。

「美味しいですか」
「はい。すごく美味しいです。アズール先輩の作るものは全部」

 素直に感想を述べる。けれど、彼はそれ以上何も語らなかった。咀嚼して、ドロドロになった最後の一口が奥に流れ込んでいく。




 元々短期の契約であったラウンジでのアルバイトはついに今日で終了となる。そういえば、結局最後までマレウスは来なかった。元より彼が好みそうな場所ではないというのは察するところではあるので、当たり前といえばそうかもしれない。ならば今度は客として二人で来るように誘ってみようか。そんなことを考えていると、アズールから賄いの声がかかった。どうぞお先に、と恭しく胸に手を添えたジェイドに箒を託して、VIPルームへと向かう。

 今日のメニューは美味しそうな唐揚げだった。ジェイドが作ったらしい。あまり揚げ物や肉を食べるところを見かけないアズールのお皿にも、メインのサラダに添えられるように二つ乗っている。視線を察したのか、彼は眼鏡のブリッジに中指を当てどこか気まずそうに目を逸らした。

「それにしても、本当に助かりました。この忙しさを乗り越えられたのもあなたのおかげです」
「いいえ。自分も楽しかったです。賄いもいつも美味しかったし」

 噛み締めると、口の中にじゅわりと熱い肉汁が広がっていく。これからはこの時間が無くなってしまうのは少し残念だ。

 世間話のような話をいくつかして、フォークをお皿に置く。アズールはすでに食後のティーに口をつけていた。きらめく水槽が蛍光灯の光を吸って、その光が制服の太ももに反射していた。きらきら。ゆらゆら。

「そう言えば、最後に一つお聞きしたいのですが」

 カップをソーサーに置いたアズールが声を潜める。眼鏡がつやりと光って、彼の思慮深い水色の瞳を透かした。

「――あなた、どうして人魚を食べたいなんて思ったんですか?」

 短い息が、声にならずに溢れ出た。アズールが何を言っているのか、理解できなかった。喉の奥に大きな岩がつっかえたように、息ができない。頭にかかった靄が引いていく。その奥で、何かが見えたような、気がした。
 血の気の引いたような、ひどく狼狽した監督生の姿を見て、アズールは眉をひそめた。何かがおかしい。どくり、どくり。鼓動が早くなっていくのを感じる。白い手袋に包まれた指を忙しなく組み替えながら、アズールは一つ一つ確かめるように言葉を紡いでいく。

「あなたは、人魚の肉を食べてみたいと思っていたのではないのですか。されど僕たちが海の出身であるから、気を悪くしてはいけないと、仰るのを躊躇っていたのではなかったのですか」

 目を見開いたまま、忍び寄る悪寒を振り払うようにして何度も首を横に振る。喉の奥と舌の横側から、ぶわりと唾液が溢れ出てくるのを感じた。アズールのこめかみを、一筋の汗が伝う。宵闇のような声が、記憶から引きずり出される。


『アーシェングロット。一つ取引をしないか――?』


「嘘だ。あなたが食べたいと言うから、気付かれないように食事に出してほしいと言われて、彼≠ニ契約を結んだんです。だから僕は、この前、あなたに――」

『あなた、よくそんなものを食べますね』

 彼の言葉と共に、噛み締めた瞬間、ソテーからじわりと滲みでる油の食感がフラッシュバックする。瞬間、胃の中から全てが這い出てくるような感覚に口を手で塞いだ。堪えきれずに、先程食べたばかりのものが隙間から落ちていく。何と、何ということを。私は。叫んだはずの、アズールの声が、遠い。

 人魚の肉を食べてしまった。それがどういう事なのか、いくら博識なアズールでも分かりはしないだろう。その伝承は、ここでは名前すら見つからない、どこかの国のものなのだから。人魚の肉を食べれば永遠の命を得られる。どこかの国にはそんな言い伝えがあるのだと、知っているのは、ただ一人だけ。

「何を考えている――マレウス・ドラコニア!!」

 奥歯を噛み締めたようなアズールの声が残響する。いつかの夕陽の橙と、反射する宝石のような光が、頭の中でぐちゃぐちゃとしていた。胸元の黄緑がその色を深めて、すべてを飲み込んでしまわんとするように。
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