人魚は永劫の時を望むか



 図書室では静粛に、というのはとある女王の法律――ではなく当たり前のルールだ。それに従うように、利用する生徒はみな寡黙に、時折微風が水面に吹くような静かなお喋りの声が広がっていた。

 マレウス・ドラコニアは図書室が好きだった。今時紙の本など時代遅れだという声もあるが、彼はむしろそれこそを愛していた。それに、ひとたび廊下に出れば聞こえてくる喧騒がシャットアウトされたようなこの空間は、なかなかどうしてしっくりと肌に馴染んだ。

「マレウス」

 鈴を放ったような声が波紋を広げた。心地いい響きをもって彼の耳をくすぐる。活字の海から視線を持ち上げると、いくつかの本を胸に抱えた監督生が立っていた。一つ目の表紙を見る限り、魔法史に関しての本だろうか。

「隣、座っていいかな?」
「許そう。もっとこちらに寄るといい」

 三人はゆうに掛けれるソファーを独占していたが、最高学年のディアソムニア寮長である彼を咎められるものなどこの学園にはどこにもいないだろう。彼が不在の間ですら、このソファーを使用することは暗黙のマナー違反とされているほどだ。
 彼女が隣に腰掛けると、すぐに周りの生徒から奇異の視線が寄せられた。あまり心地のよいものではないにしろ、それももう慣れたものだ。次第に視線が解けるようにして離れていく頃、彼女はマレウスが読み進めていた本のカバーを覗き込み、図書室の規則に倣い声を潜めながら囁いた。

「マレウスって何でもできるのにちゃんと勉強してるのがすごいよね」

 表紙からは内容が推測できなかったのか、小首を傾げる姿にクスリと微笑む。本を閉じて、黒手袋越しの指先でカバーを撫でた。金の文字が表面から少しだけ浮かび上がっている。高位錬金術の分厚い本だ。古い文字でエリクサー≠ニ書かれている。

「僕にだって分からないことはある。この図書室は僕の国のものよりも充実しているからな」

 四年生に進級してもなお退屈な授業は多いが、図書室だけでもこの学園に来た価値があったというものだ。もちろん彼にとっての価値は書物だけではない。例えば、隣に腰掛けるまだ幼き人の子。茨の谷――その次期王たるマレウスを前にしても怯えることを知らないその存在が、彼にとっては唯一無二の価値を持つことを彼女は知っているのだろうか。

「邪魔しちゃってごめんね。何の本を読んでたの?」
「これは錬金術の本だ。昔、人は錬金術で不老不死の薬を作ろうとしていたという。それに関する記述だ。お前やサバナクローの三年生は黄金の方が魅力的かもしれないが」
「不老不死?」

 妖精族の末裔である彼が、人よりも遥かに長い時間を生きていることは知っている。百年前の話でさえまるで昨日の事のように語る彼が、今更不老不死についての本を読んでいるのは少し不思議だった。

「せいぜい百年しか生きられない人間が永遠の命を望むのも無理はない。お前は、どうだ。それを欲しいと思ったことはあるか」
「不老不死? うーん、想像もつかないなぁ。百年もあれば、充分かなって思うけど」

 そうか、と落ちた声が少し残念な響きを含んでいた気がして、あわてて取り繕う。思えば何年も生きている、そうせざるを得ない彼の前で言うには少し失礼な言葉だったかもしれない。

「そう言えば、私の世界では人魚の肉を食べれば不老不死になれるとか、そんな言い伝えがあったよ」
「ほう。お前の国には人魚がいるのか」
「ううん、実際にはいないの。だから都市伝説みたいなものだよ。あとは吸血鬼が長生きするのは偉人の血を飲んでるからだーとか……うーん、それくらいかなぁ」
「人魚の肉に、血か。ふむ」

 馬鹿らしいと一蹴されても可笑しくないようなこんな御伽噺にさえ、あまりにも真面目な顔で頷くものだから面白い。
 人魚の肉を食べた少女は、八百年もの間、十代の頃と変わらない容姿で生き続けたという。それが幸せなことなのかどうか、監督生には想像もつかなかった。愛したものが自分を残して死んでいく。そのままならない苦しさも。

 それからは二人で並んで読書を続けた。机の上に課題を広げて、本と睨み合いながら進めていく。難しい問いに少しでも手を止めれば、ちらりともこちらを見ていないはずのマレウスが本を読みながらヒントを与えてくれた。

 いくつかの時間が経って、角度を落とした陽が図書室をやわく橙色に染めあげる。マレウスの胸元に差されたマジカルペンが、きらりとその光を反射していた。

「……どうした?」

 少しの間その眩しさを眺めていると、その視線を汲んだ彼がゆっくりと右目を傾ける。ペリドットの瞳を縁取る長い睫毛が影を作っていた。

「ずっと思ってたんだけど、そのペンについた魔法石、綺麗だね」
「これか? そうか。お前は持っていないのだったな」

 魔法を使用するためにある道具を、魔法が使えない自分が持っていたところで所詮は無用の長物だ。されど宝石にも似たその輝きは、正直に言ってしまえば羨ましかった。さながらショーケースの中のダイヤのネックレスに見惚れる年頃の娘のように。

「いいなぁ。ディアソムニア寮の魔法石、すごく素敵な色だね。マレウスの瞳と同じ色だ」

 だからこそ綺麗なのかもしれない。ゆるく開いた彼の瞳が、柔いオレンジの陽を吸収して揺れる。

「もうこんな時間か。夕食までは少し時間があるから、よければコーヒーでもご馳走しよう」

 窓から差し込む夕陽を眺めて、黒い手袋に包まれた指先がぱたりと本を閉じる。緩く弧を描くマレウスの口元につられて、自然と表情がやわくなる。

「ありがとう。じゃあ先に本を戻してくるね」

 ぱたぱたと駆けていく後ろ姿を眺めて、マレウスは席を立つ。隣接する喫茶店でコーヒーをふたつ受け取り、そっと右の手袋を外した。
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