序章



 とある男子生徒は学園長室の前に立っていた。手にしているのは個人休暇における鏡の間の通行申請書だ。先日、姉から結婚式を挙げるのだと連絡があった。ホリデーの期間ではないにしろ、全寮制のこの学園から出るには申請用紙に学園長の承認が必要となる。

 何度かノックをしてみるも返事はない。不在かと踵を返そうとしたその時、柔らかな秋の風が内側からそっと戸を押した。その小さな隙間からこっそり中を覗いてみる。やはりそこにあの奇天烈な学園長の姿はなかったが、好奇心が彼を中へと誘った。

 中央奥に構える大きなデスクと椅子、その後ろで開いたままの窓から若い木々がさやさやと囀っている。両脇にそびえる棚を敷き詰めんばかりの本は色んな言語が混じっていて、まだ二年に進級して間もない彼にはその内容は理解できそうにもない。

 ふとデスクの上に木製の写真立てを見つけて、彼はそっとそれを自分の側に向けた。随分と年季が入っているのか、縁にはいくつか裂け目のような亀裂があった。少し悪いことをしているような気持ちで覗き込むと、一人の若き女性がこちらに微笑みかけるように笑っていた。その傍で猫にも似た変わった魔物が楽しそうに飛び跳ねている。普通であれば写真は動いたり喋ったりするものだが、この写真は魔法史の教科書で見るようなただの静止画らしかった。ともすれば、やはり随分と昔のものなのだろう。

 経年劣化により少し色褪せてはいるが、よく見れば女性はナイトレイブンカレッジの制服を着ているようだった。この学校は創立以来男子校であると聞いている。ともすれば、彼女は一体?

「おやぁ。君、どなたでしょう」

 後ろから掛けられた声に思わず背筋が伸びた。白磁のカップを片手に、この部屋の主――ディア・クロウリーは焦った面持ちの生徒の顔を覗き込む。

「学園長! か、勝手に部屋に入ってしまい申し訳ございません」
「コラァー! ……と怒りたいところですが許しましょう。私、優しいので」

 学園長である彼は生徒が手にした用紙を一瞥し、ああ承認ですねと椅子に腰かけた。幸いなことに写真を勝手に覗いたことを咎められる気配はなく、ともなれば生徒の好奇心が言葉を紡ぐ。

「この写真の女性、学園長の娘さんですか?」

 クロウリーはぽっかりと口を開けて、アッハッハと仰け反らんばかりに大きく笑った。余程面白かったのだろうか。ヒィヒィと声を引き攣らせひとしきり笑ったあと、慈しむようにして写真立てを手に取った。鼻が長く伸びた、珍妙な仮面の下に隠された表情は見えない。

「彼女は私の大切な生徒でした。魔力も何も無い、ただの人間でしたが」
「魔力がない? それでもナイトレイブンカレッジの生徒だったんですか?」
「ええそうです。彼女はとある寮の監督生として精一杯ここでの生活を楽しみ、そして」

 太陽が雲に隠れ、一瞬で辺りが暗くなった。強い風が木々を走り抜けて、葉がさざ波を立てた。

「かの国の王≠ノ隠され、消えました」

 短い息を飲んだ。ふと、幼い頃に母から聞いた話を思い出す。
 ――茨の谷に近付いてはいけないよ。人の子はなおさら。囚われたら最後、二度と帰ってこれやしないのだから。

「すべて昨日の事のように思い出せますよ。ええ、私は今でも悔やんでいます。だからこそ、この悲劇を繰り返さないためにも、私の犯した失敗≠語り継いでいくべきでしょう」

 もう随分と古くなったその写真を、まるで宝物のように両手で包んで、クロウリーはぽつりと滴る雨のように誰かの名前を囁いた。気が付けば背筋が伸びていた。表情を引きしめ、唇を真っ直ぐに引き結んだ生徒の姿を一瞥し、目を閉じる。瞼の奥で、屈託もなく笑う彼女の、胸元のリボンに留められた薄緑のブローチが忌々しく光っていた。


(それではお教えしましょう。二年に進級した彼女がかの王――M.Dによって忽然と姿を消した、その僅か二ヶ月足らずの出来事を)
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