はつ恋



 すきになる ということは 心を ちぎってあげるのか。だから こんなに痛いのか。
 − 工藤直子 『痛い』より


「ジェイドってさぁ、何であんな女と付き合ってんの?」

 思いつきが、そのまま言葉になって出たような声だった。読んでいた本に栞を綴じて、愛すべき片割れと向かい合う。先程まで課題に取り組んでいた筈の兄弟は、今や片腕を枕にデスクに突っ伏して、親指と人差し指で挟んだペンをぶらぶらと揺らしていた。

「唐突ですね。ふむ。強いて言うなら、断わる理由がなかったからでしょうか」
「とか言ってっけど、絶対断るのめんどくさかっただけじゃね? ジェイドってホント来るもの拒まずだよねぇ。アイツ、この前もベタベタくっ付いててさぁ。見ててチョーうざぁい。気色わりぃっての。オレ、あんなんじゃ勃たねーんだけど」
「おやおや。フロイド。僕が彼女に欲情出来るような言い方はやめてください」

 あは、と何かに気付いたようにしてフロイドがにたりと笑う。そのまま天に向かって大きく伸びをした彼の、自分と同じ色をした水縹の髪がはらりと揺れた。その先にある壁掛け時計の針は既に四時を指している。視線の先を同じくして、ジェイドはテーブルの上に親指の爪ほどの分厚さの本を置き、静かに椅子から立ち上がった。

「あれぇ。ジェイド、今日バイト?」
「ええ。残念ながら。今日も少し遅くなるかと思います」
「ふーん。風呂だけ沸かしとくから。頑張ってねぇ〜」

 玄関まで見送ってくれたフロイドに手を振って、まだ高い位置にある陽の眩しさに目を眇める。クーラーの効いた室内から一転して、靄のような熱が身体を包んだ。立っているだけで、じわりと汗が滲むようだ。夏はまだ終わりを知らない。



 海が近いこの街は、マリンスポーツが盛んなだけあって夏は必然的に人が多くなる。
 すらりとした長い足が向かう先は、海辺に建てられたロッジのようなレストラン。それが彼の一時的なバイト先だった。暇を持て余していた頃、今お付き合いしている彼女に誘われて何となく始めたものだ。立地や建物は良いものの、夏を過ぎれば途端に稼働率が落ちるその様に、『運営方針が最悪だ。僕なら……』と苦言を呈していた幼なじみのアズールの言葉を思い出す。

 主観的にも客観的にも、ジェイドは要領が良い。
 二週間前に始めたばかりのこのバイトも、今では入ったばかりの新人を付けられるほど、すっかり板についていた。退屈にさえ感じてしまうような日々に、それでも辟易するわけでもなく彼は歩みを進める。
 端的に言えば、どうでもよかったのだ。今までの二十年と少しの人生に、滞りを感じたことは無い。だから、とめどなく流れ続ける水に、それを歯がゆく感じたり思いを馳せたりはしない。
 ゆるやかな坂道に合わせて傾斜した彼の視線が、ピカピカに磨かれた革靴に落ちる。その中に映る無表情な自分の影を、静かに眺めていた。蝉の声が、遠くで響いている。


 ◆


 制服に着替えてきっちり五分前にホールに出ると、見知らぬ女が一人、どこかぎこちない手つきでシルバーのカトラリーをセットしていた。
 そういえば、彼女が自分の友人≠一人バイトに誘ったのだと言っていたような気がする。しかしフロアを見渡しても当人の姿は見つからず、無機質な紙に並んだ少しずつ減っていく出勤日数を見る限り、大方誰かを代わりに出勤させて自分は休む魂胆なのだろう。

「それ、フォークが一つ抜けていますよ。あと、もう少し右側にセットしてみましょうか。椅子の、ちょうどこの辺りを目印にするとやりやすいと思います」
「あっ! すみません……」
「いえ、謝らないでください。ああ、ご挨拶が遅れました。初めまして。新しく入られた方でしょうか?」
「はい。今日からお世話になります」

 名前と名乗った彼女は、さながら緊張が服を着たかのようにおずおずと頭を下げた。小さなつむじが見え隠れする。合わせて名乗ると、「あ、あなたがジェイドさんなんですね」と少しほっとしたように頬を綻ばせた。可愛らしいえくぼが、ひとつ。その姿を見る限り、彼女が例の友人であることは間違いなさそうだ。
 派手さを好む彼女とは違い、名前は、一言で表すならば普通=B聞けば、二人は同じ大学に通っているらしい。随分振れ幅のある交友関係だ。とても二人の仲がいいとは考えづらいが、きっと女の社会には自分の知らない何かがあるのだろうと少し下世話な考えを持ってしまう。
 アサインを見る限り、彼女は今日から僕について仕事を覚えていくようだ。シフトも、それに沿ってぴったりと合わせられている。このシフトを見た彼女に何か文句を言われては面倒だなと、ジェイドはやわく口の肉を噛んだ。

 挨拶もそこそこに、ディナーの準備を一つずつ手ほどきしていく。週末の入口の夜は忙しい。それが名前を追い詰めないかが少し心配だったが、彼女は教えられたことを一つ一つ丁寧にこなしていた。少し時間は掛かるとはいえ、その真面目さが心地よかった。きっとあの女も、名前の愚直なまでの従順さが気に入ったのだろうか。それが友人として≠ナあるのかどうかは、知ったことではないが。

「ジェイドさん。今日は本当にありがとうございました」
「こちらこそ。お疲れでしょうし、定時になったら上がってくださいね。お気をつけて」
「はい。お先に失礼します。お疲れ様でした」

 律儀に頭を下げた彼女を視線で見送って、明日のランチ営業に向けてシルバーをセットしていく。
 今しがた、彼女の手によって磨かれた、曇りひとつない銀食器。そこに映る自分の唇がゆるく微笑んでいるのをみとめて、ジェイドはそれをそっと伏せた。


 ◆


「ジェイド、最近バイト行くの楽しそうじゃん」

 革靴の紐を結ぶ間、背中から掛けられた声にふと指を止める。声を発するまでに、ひとつ、ふたつと時間が落ちた。

「そうでしょうか。確かに、近頃は客足も増えて、退屈に感じる時間は減りましたね」
「ふぅん。オレもバイトしよっかな。なんか楽しいことあったら、オレにも教えてねぇ」

 行ってらっしゃい、と軸のない手のひらがぶらぶらと揺れる。きっちりと揃えた指先で振り返して、ジェイドは真夏の空を仰ぎ見た。

 近頃──いや、正確に言えば名前が同じバイト先に勤めだしてから。
 意識しないようにしていたものの、確かにバイトに行くのを億劫に感じることは日に日に減ってきていた。おくびにもそれを出してはいないつもりだったが、生まれてから、いや、母のお腹にいたときからずっと一緒だったフロイドに、見破れぬものはない。


 十三時。夏の暑さと共に稼働のピークを迎えつつあるレストランは、ジェイドが出勤した頃には大慌ての様子だった。ホールに出て、食器を下げながら挨拶をすれば、誰もが助かったと胸を撫で下ろす。
 洗い物が捌ききれず、必要な分のカトラリーが間に合っていない。食洗機にかけて、洗いたてのそれらを拭きながら、壁に貼られたシフトを一瞥する。
 名前は、ディナー前からの出勤のようだ。
 ふと、視線が彼女の出勤のラインを追っていることに気付いて、フォークの先を磨く手が止まる。取り払うように、すぐに手を動かした。

 ──どうでもいいだろう。彼女がいつここにくるか、なんて。
 言い聞かすようにして、呟く。忙しないホールの音が、遠くで聞こえている。


 十七時の、ちょうど十分前。バックヤードで休憩を取っていると、パソコンで出勤のボタンを押す名前の後ろ姿が見えた。こちらに気付くと、「おはようございます」と休憩中の自身に気遣ってか小さく頭を下げてくる。

「おはようございます、名前さん。今日はディナーからなんですね」
 あたかもそれを今知ったかのように、繕うための言葉が口先から滑り出た。

「はい。昼間は学校の図書室に行ってたんです。課題が、なかなか終わりそうになくて」

 笑って、指先で頬を掻く。せっかくの夏休みに、わざわざ大学の図書室で勉強する。その姿があまりにも想像がついて、くすりと笑ってしまった。彼女のことだ。きっと課題一つとっても、手を抜かずに馬鹿真面目にやっているに違いない。

 「そうですか。お疲れ様です」ペットボトルのミネラルウォーターを流し込む。付き合っている女からは、課題のかの文字も聞かなかった。大方今日も、どこかで遊び呆けているのだろうか。

 少しの会話の後、「今日もよろしくお願いします」と名前は再度一礼して、ホールへと向かっていく。パタパタと駆けていく、まだ新しいローファーを眺めて、からっぽになったペットボトルを握りつぶした。


 小一時間の休憩をとってホールに戻ると、男性社員の教えに丁寧にメモを取る名前がいた。冗談混じりに話す社員の言葉に、つられて名前が笑う。
 瞬間。心に棘がささったかのような痛みが、ちくりと胸をついた。
 白手袋越しの手のひらで、糊のきいたシャツの胸元を撫でる。どうして胸がざわめくのか。訳が分からなかった。ましてや、胸を支配する靄のようなこの感情の名前など。

「俺、そう言えば名前ちゃんの連絡先聞いてなかったよね。よかったら──」
「お疲れ様です。お先に休憩頂きました。ここからは僕が引き継ぎますので、先輩もどうぞ休憩を取られてください」

 一息に話して、胸に当てたままの手を伸ばし人の良い笑顔を浮かべる。
 『まったく。お前のそれは慇懃無礼と言うんだ』とかつてのアズールの言葉を思い出した。当時は『それはそれは』と言外にやんわりと否定したものだが、今となっては言い得て妙だとも思う。
 話の腰を折られ、行き場を無くして去っていく彼の後ろ姿を眺める。まだメモを取る姿勢のままの名前が、どこか嬉しそうに微笑みかけた。大きな瞳がやわめられて、血色のよい頬が、ほんのりと色を付ける。

 棘がささったあとの胸が、じくじくと疼いている。
 
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