揺蕩



「良い話と悪い話があります。どちらから聞きたいですか?」──そんな言葉から始まる話が、ハッピーエンドで終着した試しはない。

 監督生は、部屋の中央にそびえるウォールナットのデスクに腰掛ける学園長を見た。組み合わせた十本の指の上で、カラスにも似た珍妙な仮面の長い嘴の先がこちらに向けられている。その下にある表情は読めない。なにひとつも。
 それから、その前に連なる談話用のソファのうちの一つを、我がもの然として座るデイヴィス・クルーウェルを見た。錬金術を専門とする学園の教師であり、彼女の担任でもある。そんな彼が今、学園長室で、回りくどいクロウリーの言葉に眉をひそめている。
 監督生だけが、立ち尽くしてその光景を俯瞰していた。左右の本棚にはたくさんの本がひしめき合っていて、図書室の一角のようだ。部屋の最奥にある窓から入り込んだ陽射しが、クロウリーの背中を照らして長い影を作っている。

 今この場所にグリムはいない。きたる『なんでもない日のパーティ』のお菓子をトレイ先輩が試作すると言っていたから、味見と称してそこに託けているはずだ。
 ならば、彼の言った二つの話≠ヘどちらも自分に関わるものなのだろう。

 ──ひとつは確かに良いことが。
 ──もうひとつはきっと、想像も出来ないような悪いことが。
 監督生は再度、学園長を見た。

「良い話からでも、いいでしょうか」
「ええ、結構! 実は貴方の代の生徒たちで、入学時から一番成績が飛躍したのが君でした。特にクルーウェル先生の担当される錬金術ではグングンと成績を伸ばして、快挙も快挙ですよ。私も鼻がこーんなに高くなって……といっても、当たり前ですよねェ。入学時試験の問題の内容、貴方覚えてます? 『マーレイ樹は別名なんの木と呼ばれているか』なんて、私的にはボーナス問題もいいとこだったんですよ? あの日。それを答えられなかったのは、貴方だけでした」

 今ならば分かる。それがなんの木であるかも、それをボーナス問題だという彼の言葉も。
 それでも、当時は何も分からなかったのだ。なぜならば彼女は──

「マ、それも当たり前ですよね。だって貴方、この世界のお人じゃなかったんですから」

 窓の外で、さやさやと木々が波打つ。差し込んだ木漏れ日が、ゆらりと揺れている。
 監督生は、無意識に手のひらを握りしめた。桜色をした丸い爪が、ぐっと肉にくい込んだ。

「悪い話をしましょう。私も長い間調べて、ようやく行き着いた答えです──残念ながら、貴方が元の世界に戻る方法はありません。これは、決定事項です」

 放たれた言葉は鋭利な刃物になって、監督生に突き刺さった。
 平衡感覚がぐるぐるになって、高さと焦点が合わなくなる。ふらついた身体を、大きくどっしりとしたものが支えた。「仔犬、おすわりだ」クルーウェルの声だった。そのまま彼の毛皮の腕にホールドされた身体が、引きずられるようにしてソファに沈む。

「名前だけ聞いた貴方の故郷、ちゃァんと探したんですよ。エエ、それはもう虱潰しに。お陰で私、休日まで興味もない文献をあさる羽目になったんですからね。今なら極東の地理、場所くらいなら諳んじて言えそうですよ。聞きます?」

 項垂れた監督生の顔は、憔悴しきったようにぴくりとも動かない。
 さして気に留める様子もなくクロウリーは続けた。

「そこで面白い話を見つけました。千年に一度の周期で、ナントカ惑星の位置がぴたりと重なって、その時に監督生くんと同じように異世界人を名乗る人が現れたと。私はもう、これだとピンと来てしまって。調べましたが、次に重なるのは今から九百九十七年後です。貴方、それまで生きてられます?」

 否定と言うよりかは、もう何も聞きたくないとばかりに監督生はわずかに首を横に振った。

「そういうことです。貴方はもう元の世界には戻れません」再度、学園長が事実を突きつける。それを楔にして、監督生の瞳からぽたりと涙が落ちた。太ももに弾けて、制服にじわりと滲んでいく。

 眠れない夜。元の世界に戻れなかったときの想定をしたこともある。それでもいつも同じ場所でつまずいて、曖昧になっていたことだった。
 学園を卒業したあと、自分はどうやって生きていけばいいのだろう。

「──もしかして君、今、学園を出たあとは野に放り出されるとでも思ってません?」

 素っ頓狂な声に、監督生はその顔を持ち上げる。まだあどけない、少女の顔だった。

「まったく。そんな生まれたての赤ん坊を外に追い出すようなこと、私だってしませんよ! そんなことをした暁には、私、グレートセブンの像に顔向けできませんからねッ。ひとまず、卒業後も当面はここにいるといいでしょう──とは言え君には学園の雑務諸々を手伝ってもらいますが。問題は、宿ですねェ」

 学園長の長い爪が、ぽりぽりと皮膚を掻く。ふっ、とその指に息を吹いて、学園長はまた頬杖をついた。

「貴方のお住まいの寮、そろそろ改装かなにかしら手を加えないと設備不具合で引っ掛かってしまうんですよねェ。ちょうど貴方が卒業する年に魔法省の監査が入る予定ですから、その時には何とかしないといけないんです。ハァ。諸々の費用、見積もりを取ってから依頼書を作成して理事長に承認印を貰って……これ、来年私ちゃんと長期連休取れます? あーヤダ。こういったこと、卒業したら貴方にお願いしたいんですよねェ」
「つまり、仔犬に当面の小屋が必要だと?」

 どこまでも延びる学園長の話についぞ嫌気が差したのか、クルーウェルが口を挟んだ。

「そういうことです。クルーウェル先生、どこか当てでもあります?」
「俺の家だ。部屋なら空いている。今更仔犬の一匹増えたくらい、何も変わらん」
 淡々とした言葉が紡がれる。

 監督生は慌ててクルーウェルを見た。後れ毛の一本もない艶のある白髪が左に流れている。遠くからでも目を惹くような特徴的なコートの、先程自分の身体を支えていた腕の部分は既に毛並みがなめからに整えられていた。当人の性格の現れだろう。

「おやまァ──」クロウリーは大袈裟に仰け反った。それから、「考える手間が省けました。いやァ、流石はクルーウェル先生」と言葉に飾りをつける。
「それにしてもお優しいですね。何か理由でも?」興味本位をあらわにした声だ。
「決まっている」とクルーウェルは事も無げに返した。それから長い足を組んで、切れ長の目を流して監督生を見た。

「担任だからだ」


 ◆


 かくして、翌年に学園を卒業した元♀ト督生はデイヴィス・クルーウェルの家に迎えられた。

 小さなボストンバック一つで向かった先は、レンガ造りの広いデタッチハウスだった。
 呼び鈴の隣に駐車場が一台分あって、そこに彼の愛車が停められている。リビングルームには広いオープンキッチンとワインセラーがあり、いくつものボトルがその中で静かに息を潜めていた。
 彼女に宛てがわれたのは広々としたワンルームだった。大きなラグに、ベッドとデスクと本棚。どこか柔らかい色合いの家具は全て、彼女のために買い揃えたものなのだろうか。
 本棚の上にひとつだけポツリと置かれた、街の雑貨屋にあるような可愛らしい時計が、ようやくの家主の訪れを喜ぶかのように忙しなく針を動かしている。どこからみても彼の趣味とは思えないそれが、彼が彼女のためだけに用意してくれたことを証明していた。

「仔犬。今日からはここがお前の部屋だ。好きに使え」

 その言葉に、ずっと張りつめていた感情が不意に緩んでいく。
 ──ここが、私の帰る場所なんだ。
 身よりもない。生きるための知識も術もない。そんな彼女にできた確かな居場所。
 めそめそと鼻をすする彼女の姿に、その意味を掴み損ねたクルーウェルは少しバツの悪そうな顔をして、「荷物を置いていろ。その間に何か作ってやる」と部屋を後にした。

 一人になったその部屋で、監督生は静かに荷物を下ろした。噛み締めるように部屋を見回して、それから、ベッドの上に置かれた可愛らしいクッションをそっと抱きしめる。
 開け放たれた窓。風がカーテンを靡かせて、その隙間から、穏やかな夏の日差しが入り込む。

「……ただいま。こんにちは。よろしくお願いします」

 どこか、懐かしい匂いがする。



 デイヴィス・クルーウェル──先生。
 趣味は愛車の洗車と、たまに凝った料理を作ること。家事は得意な方で、あまり手伝いを好まない。お休みの日は学芸誌の論文を片手にワインをあけて、なにか難しいことを唱えている。

 それが、彼女がクルーウェルの家に住んでから知ったことだった。彼に言わせれば料理も化学の一つで、決められた量を順番通りに入れさえすれば大抵は成功するらしい。
 朝、彼が作ってくれたミネストローネの鍋を眺めて、監督生は錬金術の大釜を思い浮かべた。頭の中でグツグツと煮詰まった、粘ついたセルリアンブルーの液体はやはり目の前のこの料理と一緒とは思えない。

 今日、クルーウェルは個人で飼育する温室の植物の世話をするために既に家を出ている。監督生はオフのため、彼の車のエンジンの音をベッドから聞いていた。
 スープボウルに一人分のスープを入れて、ダイニングテーブルに腰掛ける。一枚板で作られたそのテーブルの上にはバスケットがあって、その中には毎朝常に二種類のパンが入っている。
 『好きな方を選べ。両方食べたいなら食べていい。食べる気が無ければ置いておけ』──というのがかつてのクルーウェルの言葉だ。今朝はクロワッサンとバケットが一つずつ、薄い紙に包まれていた。上質なバターの香りが、ここからでも漂ってくる。それに添えられたホットチョコレートの粉は、彼一人でなら決して好んで買わないようなものだ。

 少なくとも彼女にとって、デイヴィス・クルーウェルは教師を超えた、完璧な男性だった。
 確かに監督生は既に学園を卒業しているのだから、彼女にとっての彼が先生というタイトルではないのは正しい。
 それでも。

 ──どうしようもない時に、自分を助けてくれた人。
 ──ひとりぼっちになった自分に、居場所を与えてくれた人。

 彼がいなければ、自分はとっくに知らない土地でのたれ死んでいたかもしれない。そうでなくても、今ほどの幸福があったかどうかは分からない。
 監督生にとって、彼はもうずっと特別な存在になっていた。それが恋だと気づいたのは、窓辺に枯葉が落ちる冬を越えて、みずみずしい春を迎えてからだった。
 
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