トロイメライを聴かせて



 シャンデリアの下で伸ばされた手を取った。
 ガラスの靴は履いたまま。
 午前零時の魔法はまだ解けない。


 クリスマスの足音がすぐ傍まで来ていた。少し浮き足立つ街並みと共にナイトレイブンカレッジの生徒たちの心もいくらか浮ついている。それには間もなく訪れるウィンターホリデーへの楽しみが二割、そして残りの八割は。

 ひとたび授業が終わり、トレインが教材をまとめてクラスルームを後にすれば、無理やりに押し込めていたものが堰を切るように誰もがその話題を口にする。
 さまざまな色をした会話の中で、ふと後ろの席からスピーカー越しにワルツの音が響いた。軽やかなオーケストラとアン・ドゥ・トロワのリズムに合わせて、三十人には満たないほどの男子生徒たちがおもむろに身体を揺らしはじめる。
 異様な光景だった。それでも確かに誰もが浮き足立っていた。それは、監督生の隣で携帯をいじるエースも例外ではない。

「なぁなぁ監督生。授業中ずっと見てたんだけどさぁ。これと、あとこの蝶ネクタイ。お前ら的にはどっちがいいと思う?」
「うーん……個人的には、こっち?」
「どっちも同じに見えるんだゾ。オマエ、昨日も別のネクタイ見せてきたのにまだ決めてなかったんだゾ………」
「ハァ? ぜんっぜん違うし。でもこのチェックのやつもイケてんだよねー。な、監督生。これとかどーよ?」
「う、うん。エースらしくていいと思う」
「だろ? あとさぁ──」と慣れた手つきで下へ下へとスクロールする親指に、げんなりとした様子のグリムがふわぁと欠伸する。

 まもなく訪れる学園合同クリスマスプロム──それがこのざわつきの原因であった。
 二年から四年までの生徒が対象となるこのパーティは、ロイヤルソードアカデミーやアシュリーレディースカレッジなどをはじめとした唯一の他校との合同行事である。
 右も左も男子ばかり。普段から嫌というほど同性に囲まれて生活しているナイトレイブンカレッジの寮生にとっては、このプロムが絶好の出会いの場とされていた。特にエースたち二年生は今年が初めての参加となるためか、一段と気合が入っているようだ。

「マジでキメなきゃなんねーの。ロイヤルソードアカデミーの奴らにはぜってー負けたくねえし。──ゲッ、これ一個で三万マドルとかマジかよ。タキシード付きの間違いじゃねーの」
「あの、プロムっていわゆるダンスパーティー……なんだよね? 勝ち負けってあるの?」
「オレもケイト先輩から聞いただけなんだけどさぁ。プロムって誰とでも踊れるらしいけど、気に入った相手にはなんか受付ンときに貰える花を贈るらしいぜ。それが多ければ多いほど人気者の証明ってワケ」

 つまりはその花を多く貰えた方が、エースが言うところの勝ち、、なのだろう。「へぇー」と曖昧な相づちはあまりにも他人事の響きを持って落ちる。目敏く拾ったエースがじとりと目を細めた。

「ところで監督生は? お前ももうタキシードとかレンタルしてんの?」
「いや……当日は寮がクロークになるかもしれないから、そこで見張りでもしてようかなって」
「ハ? 何、お前もしかして参加しないの?」
「うん。ダンスなんて、踊ったこともないし」

 意外も意外、といった様子でついにエースは画面から顔を持ち上げた。それからデッサンの遠近感を鉛筆で計る画家のように監督生を注視しては、「マジ?」と信じられないものを見るような目つきで眉間にシワを寄せた。
 彼らにとってはダンスはエレメンタリースクールからの嗜みかもしれないが、しかし監督生にはそうともいかない。加えて、自身の役割が男性役≠ナあるならなおさらだ。
 誰も知らない異世界から、突如としてこの世界にやってきたオンボロ寮の監督生。
 それがこの男子校での唯一の女子生徒だと知るのはディア・クロウリーをはじめとする教師陣とグリム、そしてあと一人≠セけだ。
 男子校の中に女が紛れていると皆が知れば、学園内の風紀が乱れてしまうかもしれない。そしてそのひみつは勿論彼女自身をも守るためでもあり、普段から努めて男子生徒のように振る舞うように心がけていた。

「確かに、お前って女みてーに細せし小さいから、どっちが女役か分からなくなりそ〜。つーか参加しないならお前の花、オレにチョーダイ」
「賄賂は良くないよエース。ちゃんと女の子から貰わないと」

 窘めるような言葉に、「ちぇー。ハイハイ。当日見てろよな。オレの胸元花畑にしてお前んトコ遊びに行くわ」とエースは椅子に深くもたれかかった。その指がまた、ネットショッピングの検索一覧に戻る。

「オレサマはパーティにごちそうを食べに行くんだゾ。仕方ないから、オマエにもちゃんと持ち帰ってやるからな」グリムの大きな丸い瞳にはすでに七面鳥の丸焼きの幻想が見えているようだ。弾んだ声を携えて、えへんと鼻を鳴らす。──そういえば、自分は参加しないとはいえグリムにはせめてリボンくらいはつけてあげなきゃ。使えそうな布はまだ部屋にあっただろうか。
 監督生は壁にかかった丸い時計を見つめた。ここ最近ずっと耳にする、昼下がりのクラスルームには不似合いなワルツの音が、耳鳴りのように頭の中から離れそうにない。


 ◆


 オンボロ寮の扉を開くと、長い廊下には、今朝にはなかったはずの色とりどりのドレスがずらりと掛けられていた。
 つややかな硝子玉の瞳がその輝きを覗かせる。「──わあ!」靴も揃えないままに駆け寄って、ハンガーラックにいくつも掛けられたドレスを手に取った。細やかなレースに、丁寧に編まれた薔薇の刺繍。スパンコールがきらりと光を反射する。華やかなパーティドレスは、それだけで年頃の女の子の気分を高揚させる魅力がある。

「可愛い……」

 膝丈のフレアドレスを手に取って、監督生はうっとりと目をやわめた。赤い花の飾りが胸元にいくつも散りばめられた、デコルテラインを見せたうつくしいドレスだ。ウエストマークに真っ赤なリボンが結ばれ、桃色の生地に、ベールのように透け感を残したレースの素材が膝下まで続いている。
 その隣に並ぶ、少し大人っぽいアルパイン・ブルーのドレスを手に取っては、「すてき……」とつい恍惚のため息を漏らしてしまう。首元を彩る刺繍から細やかなレースで作られたケープの、その胸元には繊細な花の刺繍がいくつも誂えられている。ウエストからはふわりと広がるAラインの膝丈スカートが、されど色の効果もあってかすこし大人びて見える。

 ──もし、私が。
 ──もし、私が女の子≠ナあれたなら、こんな素敵なドレスを着る機会があったのかな。

 ドレスに触れた手が、ゆっくり落ちて、やがて静かに離れていく。
 それは、考えても仕方のないことだった。そもそもこんなに素敵なドレスなんて似合うわけがない。このドレスに合うような高いヒールだって履いたこともない。だから私にはきっと、この服を着る資格もない。

「あら、帰ったのね。邪魔してるわよ」

 目の前のドレスにも負けず劣らずの華やかなテノールが耳を擽った。
 慌てて振り返って、まだ着たままのコートの裾を掴む。「ヴィル先輩」声に出すと、肌の奥で、熱っぽいものがぎゅっと締まった。

「コートくらい脱ぎなさい。ほら、掛けてあげるから」とヴィルは監督生からコートを剥ぎ取るようにして、キャスターのついたハンガーラックにそれを掛けた。その隣には、一目見ただけでもその気品が伝わるような黒のコートとグレーのマフラーが掛けられている。
 リビングの暖炉がついているのだろう。寮の中はほんのりとした温かさが漂っていた。今こうして二人の服が掛かっているラックだって、今朝まではどこかの部屋の中に眠っていたものだ。かつて合宿でこのオンボロ寮に寝泊まりしていたヴィルは、もはや勝手知ったるといったように彼女の城に立っていた。
 姿見に映った自分の、鼻の先が赤くつめたくなっているのを見て、少し気恥しい気持ちになりながら目を逸らした。それから冷えた指先をぎゅっと内側に丸め込む。「──ヴィル先輩、お久しぶりです」

 ──ヴィル先輩。ヴィル・シェーンハイト。
 世界的スーパーモデルで有名マジカメグラマー。そしてこのナイトレイブンカレッジにおけるポムフィオーレ寮長。

 彼の持つ肩書きを並べるには、まだまだ言葉が足りないほどだ。それに今回は、『クリスマスプロムの実行委員』の役職が増えるのだという。
 主に衣装や装飾品を担当する彼から、このオンボロ寮を一時的なクロークとして使用したいと電話がかかってきたのは昨日のこと。エペルを通して鍵を渡して、帰ってきたらこの衣装の山だ。まるで寮全体がウォークインクローゼットになったようで、どこか落ち着かない。

 四年に進級してからは、他の生徒に漏れず実習で外部に出ているヴィルと会うのは久しぶりだった。勉学にも一切手を抜かない彼は、得意の魔法薬学の才で有名なカレッジの研究室にいるのだとエペルから聞いた。

「実習は、どうですか?」
「悪くないわ。機材も薬品もすべて一流のものが揃ってるし、人の質も高い。ホリデーが明けたらますますこの学園には帰れなくなるから、今のうちにエペルを仕込んでおかないと」
「そう、ですか」明るく取り繕った声は、すぐにそのはりぼてを剥がされて落ちていく。しなやかに伸びた彼の長い足に傾きかけた視線を、なんとか持ち上げた。息を吸って、吐いて。不器用な笑顔ではにかむ。「頑張ってくださいね」

 ──誰にも言っていないひみつがある。
 監督生は、ひそかにヴィルに想いを寄せていた。ずっと内に秘めてきたこの感情は、エースだってデュースだって、グリムにだって気付かれてはいないはずだ。
 しかし、彼女にとってのヴィルは言わば雲の上の存在のようなもの。恋慕の情を持つことにさえ罪悪感を覚えるほどに、ヴィルは自分からはかけ離れている。そう思い込んでは、その芽に何度も蓋をしてきた。今までも、それしてこれからも、ずっと。
 くすりと微笑んだヴィルが、ずらりと並んだ衣装へと視線を向ける。長いまつ毛は、監督生の方を向いてなくても綺麗なままだ。

「プロムまであと五日しかないって言うのに、未だに衣装を揃えられてないっていうヤツらがいるから呆れるわ。特にアンタの学年はダンスレッスンもまだまだ。初めての参加は言い訳にはならないわよ。アンタも、準備は万全でしょうね?」
「いえ。私は参加せずに、クローク番でもしようと思います」

 授業合間のショートブレイクにまでうんうんと頭を悩ませていた友人を思い浮かべながら、苦笑いで答える。

「は?」アメジストの瞳が動揺していた。丸く見開いた瞳のその中に、監督生が映っていた。「アンタ、本気で言ってるの?」
「えっと。私、今までダンスなんてしたことなくて。それに……タキシードを着て女の子
をリードするなんて、私にはできないから」

 沈黙がぱたりと落ちてくる。それを取り繕うように人差し指で頬をかいて、「あの……すみません」と叱られる前の子どものように監督生はぎゅっと服の裾を掴んだ。服が皺になるから辞めなさい──とかつて言われた癖は、まだ治せそうにない。

「──それ、レンタル品なのよね。どうせなら着てみたらいいじゃない」

 掛けられた言葉が、何を指すのかが分からず、監督生はぱちりと瞬きを繰り返した。ヴィルの手が、先程まで監督生が見とれていたドレスを手に取ってやっと、それ、、が何を指すのかが合点した。白い爪先まで整えられた、柔糸で編み込んだような彼の指先に包まれたドレスは、さっき一人で見ていた時よりもずっと素敵なものに見える。

 監督生の本当の性別を知っている唯一の生徒──それがヴィルだった。
 何があった訳でもない。ただ磨きあげられた彼の審美眼が、彼女の骨格や体つきをみてその事実に気付いただけだ。
 アンタ、女でしょ──かつてさらりと言われたその言葉ほど、監督生の内心が震えてさざめきたったものは無い。

「えっ。でもこんな素敵な服、私じゃ着こなせません」
「服に着られることになるのは想定済み。そうね、アンタならこの色の方が映えるわ。……うん、悪くない。コルセットはアンタ一人じゃ難しいでしょうから今はいいわ。でもペチコートはそこの部屋にあるからちゃんと履いて。それから足は……五くらいかしら」
「あの……先輩、あの」
「ほら、持って。ヒールは部屋の前に置いておくから早く着替えてきなさい」

 フィッティングのあとに赤いドレスを渡されて、言葉を紡ぐ隙もなく空き部屋に押し込められる。目の前のアンティーク調の鏡だけが、ドレスを両手に抱えて困惑する彼女の姿を映していた。
 でも、試着だけなら──とひとまず制服を脱ぎ捨てる。サイドジッパーを下げてドレスに腕を通すと、自分が自分でなくなるような特別な気分になった。さっきまでの心配はどこへやら。鏡に映る自分の唇は、ゆるく弧を描いている。

「素敵なドレス……」

 さらけ出されたデコルテの部分を指でなぞる。少し服に着られている感は否めないものの、それでもサイズもぴったりなこのドレスはまるで監督生のために用意されたような、そんな気分にすらなった。
 くるくると身体を左右にひねりながらフレア部分を靡かせる。膝下にかかるほどのスカートがふわりとして、それだけでお姫様にでもなったような気分だ。
 せめて手ぐしで髪を整えてから、監督生はおずおずと扉を開いた。その先にはヴィルの髪色のようなシャンパンゴールドのヒールが置かれている。そっと足を通すと、それはまるで自分のもののようにしっくりと足に馴染んだ。見ただけでサイズを当ててしまうのだから、やはり彼はすごい人だ。

 思えば女の子の姿をした自分を誰かに見られるなんて一年以上ぶりのことで、今更ながらに緊張してしまう。とくとくと心臓の音が忙しなく、うっすらとした汗が手に滲んだ。

「ヴィル先輩」ドアに隠れるようにして声を掛けると、彼はすぐに振り向いて、「こっちに来なさい」と手招きした。言われた通りに駆け寄る。腕を組んで、上から下までくまなく見つめるその視線に、まるで品評会の査定を待つ参加者のような気持ちになった。彼の顔を見るのがこわくて慣れないヒールに視線を落とす。

「いいじゃない。よく似合っているわ。あとはヘアメイクである程度印象を変えれば、誰も目の前にいるのがアンタだって気づかないでしょうね」

 されど、ふわりと花開くようにして掛けられた、優しさを含ませたその声にようやく監督生は顔を持ち上げることができた。彼の瞳のアメジストがゆるくやわめられる。自他ともに厳しいヴィルにしては棘のないその言葉に、胸の奥でじわりとあたたかいものが広がっていく。

「ありがとうございます。このドレス、さっきもすごく可愛いなって思って……だから着れてうれしかったです」

 スカートに足を通した瞬間、やっと本当の自分になれた気がした。男の子の振りをするのは嫌ではないけれど、やはり監督生は、きらびやかな宝石やドレスに目を奪われるような年相応の少女で。
 彼女の内に秘められた、その健気さと愛らしさがヴィルの胸を打った。彼女よりも美しい女はたくさん知っているのに、物陰でひっそりとドレスに目を奪われていた、コルセットの締め方も知らないような少女が一番輝いて見える。
 監督生だって、本当はダンスパーティーを楽しみたいはずだ。ダンスパーティーのクロークで、すれ違う華やかな女子生徒の姿を目で追っては、その羨望の気持ちをまた胸の奥に仕舞い込む。そんな監督生のことを想像すると、胸が締め付けられるようだった。

「それじゃあ私、着替えてきます」と折り目正しく一礼した監督生の腕を、「待ちなさい」とヴィルが掴む。
 逸る気持ちに、衝動に突き動かされた。
 ここからは、賭けのようなものだった。

「──アタシが、アンタをプロムに連れて行ってあげる」


 ◆


 クリスマスプロム、当日。
 きらびやかに飾り付けられた会場内で、豪華なシャンデリアの光が眩しかった。長いテーブルの上は立食スタイルで食事がずらりと並べられており、「ごちそうがいっぱいなんだゾ〜!」とグリムがはしゃぐ声が端まで聞こえてくる。

 壁際に、フレアドレスに身を包んだ美しい少女がひとり。くるりと巻き上げられた艶のあるウィッグに、ピンクとゴールドをベースに施されたパーティ向けの化粧。まつ毛はしっかりと上を向いていて、光を吸い込んだ瞳がきらきらと輝いている。
 受付で渡された月下美人の花とシャンパングラスを片手に、すっかり壁の花を決め込んでいる彼女がかのオンボロ寮の監督生であると知るのは、彼女にヘアメイクを施したヴィル・シェーンハイトただ一人だけだ。グリムですら、今日は彼女はクロークの手伝いをしていると信じ込んでいる。
 決して自分だと他の生徒にバレないようにすること──それが、彼女がこのパーティに参加するための約束だった。しかしそのために、小心者の監督生は誰かと踊るでもなく、こうしてパーティの雰囲気だけを楽しんでいる。

 すっかり空になってしまったノンアルコールのシャルドネ風味のジュースと、気に入った相手に渡すように言われた月下美人の花を手に、監督生はそわそわと周囲を見回していた。最初はパーティに馴染もうとしていたものの、いくつも声を掛けられるうちに正体がバレるのが怖くなり、段々壁際に追いやられて今に至る。そもそも踊る気だってさらさらなく、お花だって冗談抜きでエースにでも渡してしまおうかと思っていたくらいだ。

「こんばんは。ドリンクのお代わりはいかがですか?」
「あっ、あり──!」

 声のした方へ顔を上げると、そこにはモストロ・ラウンジよろしく給仕に回るジェイドの姿があって、監督生は慌てて声を噤み、代わりにぺこりと頭を下げた。勘のいい彼らに、声で自分だと気付かれてはたまらない。
 背の長いタキシードにカマーバンドを着けたジェイドは、誰にでもそうするように、にこりと微笑みかけてそうしてまた去っていった。──気付かれなくてよかった、とほっと胸を撫で下ろす。
 そういえば、オクタヴィネル寮もこのパーティの実行委員に入っていたようだ。よくよくグラスを眺めれば、そこにはモストロ・ラウンジのロゴが入っている。こういうところでも宣伝が抜かりないと、監督生は遠くでテキパキと指示を出すアズール・アーシェングロットを眺めた。

 それにしても、これだけ人が多くてもやはり知っている姿というのは目につくものだ。
 連れ立って歩くエースとデュースに、食事のテーブルから張り付いて動かないラギー。グラス越しに写真を撮るケイトを眺めていると、目の前を「マレウス様はどちらに──」と話すシルバーとセベクが通り過ぎる。その向こうのシャンデリアの下で一際眩しいルークの金髪が靡いて、その隣で、ダンスの前から幾人かの女性に月下美人の花を渡されるヴィルの姿を見つけた。
 すらりと伸びた高い身長に、遠くからでも張りが分かるような黒いタキシード。シャンパンゴールドからラベンダーへのグラデーションが美しい髪は結いあげられて、彼の男性の部分を引き立てている。ヴィルがそこにいるだけで、まるで映画のワンシーンのようだ。
 眩しいシャンデリアの下にいる彼と、壁際でそっと息を潜める自分。
 やっぱり彼とは住む世界が違うのだと、まざまざと思い知らされる。

 ヴィルによって強く締められたコルセットのせいか食欲もなく、ただ立ちすくんでいるだけの足が少し痛い。せっかくダンスだって彼から教えてもらったのに、まだ誰とも踊れないまま、監督生はフロアに掛かるワルツに耳を傾けていた。
 彼に花を渡せる名前も知らない女の子たちが、ただただ羨ましくてしょうがなかった。つい先日まではこのドレスを着れるだけでも十分だったのに。自分の中からにじみ出るような欲深さに嫌気が差して、監督生は手に持ったグラスをぐいっと煽った。

 ──もう十分楽しめたかな。
 壁際の時計はパーティの開始から一時間半を指している。お開きになって騒がしくなる前に、そろそろ退席してしまおう。それに、少し外の空気を吸いたい気分だ。
 そう思ってグラスを下げ台に置いた瞬間、ホール内にまたワルツの音が鳴り響く。明るく華やかなその音が、今はただ、暗い気持ちになって監督生の胸に染み込んだ。

 ──せっかく教えてもらったのに、こんなに可愛くしてもらったのに。踊れなくてごめんなさい。
 心の中で懺悔をして、会場を後にしようとしたその時。
 白い手首を、誰かが掴んだ。
 振り向いた瞬間、監督生の瞳にじわりと涙が浮かぶ。

「ヴィル先輩……」
「アンタ、何勝手に帰ろうとしてるのよ。アタシに直々教えてもらっておきながら、まだ誰とも踊ってないでしょ」
「貸しなさい」とヴィルの手が監督生が持った月下美人の花を取る。それを自身の胸ポケットに挿して、それから彼が持っていた花を監督生の髪にすっと差し込んだ。呆然とする監督生の手を掴んで、ヴィルは彼女を明るいところと連れ出していく。

「ほら」

 目の眩むようなシャンデリアの下で、伸ばされた手を取った。
 ヴィルのリードで、監督生の足がワルツのステップを刻む。その足元はやはりどこかぎこちない。それでも先程までの足の痛みが、どこかへと飛んでいってしまったようだった。
 目じりと頬を赤く染めた監督生に、彼があまりにも愛おしそうな顔をするから何も言えなくなる。今はただ、耳に馴染んだメロディが終わらないことを。永遠にも思えるようなこの時間を、切り取ってしまいたかった。


 ◆


 夜空の下で、二人。
「座りなさい」と促されて、監督生はよろよろとベンチに座りこむ。さっきから足がズキズキと傷んで、もう一歩も動けない気がした。
 しゃがみ込んだヴィルが監督生の足からヒールを取って横に並べる。分かりやすいため息をついて、されど監督生の肩にコートを羽織らせるその手つきは優しかった。

「アタシの足を踏まなかったことだけは褒めてあげるわ。でも、アンタはもう少しヒールで歩くことに慣れなさい」
「うう……ごめんなさい……」

 座ったままに見上げれば、彼の胸元に挿した監督生の月下美人が美しく開いていた。夜に開いて、朝になれば萎んでしまうその花は、監督生に掛けられた魔法にも似ていた。
 それは、パーティーで気になった人にだけ渡す花。ヴィルの手によって髪に飾られたその花に触れて、冬の夜風に晒された監督生の頬が、ほんのりと赤くなる。

 ──でも、勘違いしちゃいけない。
 先輩は、優しいから、ひとりぼっちの私の面倒を見てくれただけだ。

「先輩、これ……お返ししますね」

 そっと髪から抜かれたその花に、ヴィルは虚をつかれたように目を見開いて、訝しげに眉をひそめた。何か言わなくては、と監督生はその花を両手で包み込む。

「私に気を遣ってくれてありがとうございます。今日、本当に楽しかった。久しぶりに女の子の姿に戻って、先輩とこうして踊ることができて──私、本当に幸せでした。だからこれは、先輩が本当に渡したい人にお渡ししてください」
「──アンタって、本当に馬鹿ね」

「えっ?」と声を漏らす監督生の手からその花を取って、ヴィルはまたその髪に挿し直す。そうして驚いたように見上げた監督生に、キスを落とした。
 一秒。二秒。
 少しの余韻を持って、唇がゆっくりと離される。

「アタシがただのボランティアで、アンタに優しくしてるとでも思ったの?」
 いつものように小馬鹿にするような言葉は、されど隠しきれない優しさをまとっていた。
 ついにこぼれ落ちた涙を拭いとって、ヴィルはまた、監督生の頬を撫でる。

「ホリデーが終わったらまた忙しくなるけれど……時間が出来たら会いに行くわ。だから、アタシが見てないからって自己研鑽を怠らないこと。良いわね」
「せん、ぱい……」

 冷たくなった白い頬を真っ赤にして、監督生はポロポロと涙をこぼす。頬に触れたヴィルの指に涙がすらりと伝うたびに、彼はくすりと笑った。

「私、ちゃんとヒールで歩けるようになります。八時より後には何も食べないし、夜も早く寝ます。だからまた、私と踊ってくれますか」
「仕方ないわね。……でもアタシももう今年で卒業だし、来年のことは知らないわ。アンタの背でも不格好にならないタキシードを探すか、せいぜいクロークの花でもしておくことね」
「ええっ。どうしてですか!」

 飴と鞭のような言葉に、監督生の表情が目まぐるしく変わっていく。
 その愛おしさに触れて、ヴィルはまたくすりと微笑んだ。

「馬鹿ね。アタシ以外の男と踊らせるわけないじゃない」
 
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