アジュールブルーの波打ち際で



 明くる日の朝。
 クラスに入る前の監督生を掴まえて、エースは少し気まずそうに、それでも隠しきれないほどの心配を携えて監督生に声を掛けた。

「昨日。お前が、倒れたって聞いたんだけど……その、もう大丈夫なのかよ」
「うん。もう平気だよ。……あの、」
「あのさ! 変なコト聞くかもしんねーけど……お前、急にどっか行ったりしないよな?」

 眉をしっとりと下げて、不安を露にするエースと対照的に、彼女はどこかすっきりしたような面持ちだった。謝罪と、それからたくさんの感謝を伝えて「話したいことがある」と名前はエースを人気の少ない学園内のベンチに誘った。
 思えば、名前が授業をサボるのはこれが初めてのことだった。「なんだかドキドキするね」とはにかんだ彼女は、それから真っ青な空をあおいで、少しずつ語り始めた。

 これは、元の世界にいた時の最後の記憶。
 青信号に飛び出した黒猫を追いかけて、居眠り運転の車に撥ねられる。そのまま前の乗用車にぶつかり大破した車は炎上し、投げ出された身体がその火に焼かれていく。呼吸の度に肺が焼け付くように痛くて、身体の感覚がじわじわと消えて、炎が身体を伝って少しずつ迫り来る。
 そんな夢を、グリムがいなくなってからずっと見続けていたこと。それが自分がこの世界に来る前の出来事だと気づき、それと同時期に手のひらや足元が不意に透けて見え始めたこと。
 自分は本当はすでに死んでいて、もうすぐこの世界からも消えてしまうのだと、彼女は少し眉を下げて、笑った。

 心臓が、冷たい水にぴしゃりと晒されたような気分だった。駆け出したくなるような気持ちをなんとか抑えつける。そこで、初めて気が付いた。名前が元の世界の話をしなくなったのは、それに気付いてしまったからなのだと。

「消えるって……あと、どれくらい時間あるんだよ」
「分からない。でもだんだん、自分の中の何かが薄くなっていくのが分かるんだ。もしかしたら明日かもしれないし、なんなら今日かもしれない」
「そんな。ウソだろ……」

 名前が、消えるなんて。そんなの信じたくないし、信じられるわけがない。なのに、あの日透けた彼女の髪が、腕が、鮮明に思い起こされる。
 なんですぐに言わねーんだよとか、そんな場違いで、どうしようもない怒りに身体がふつふつとする。分かってる。こいつの事だから、本当は誰にも言わずにひっそりと居なくなるつもりだったに違いない。それでも伝えてくれたのは、紛れもない彼女の自分に対する誠意と優しさだ。
 それでも、と手のひらをぐっと握りしめる。簡単に呑み込めるはずがなかった。こいつが消えるなんて、そんな馬鹿みてーな話があってたまるか。だって、昨日までの自分は何も知らずに、ただただ呑気に名前の好きな人を探っていたのに。

 ……そうだ。好きな人。こいつの好きな人は、それを知っているのか。──いやきっと、何にも言わず、その想いすら胸に仕舞ったまま消えるつもりだろう。名前がそれを良しとしても、自分はせめて、最期にこいつが幸せになれる方法を探したいと思ってしまう。
 そんな思いに駆られて、エースは腹を括ったようにそれを聞こうとした、その時。

「あれぇ〜。小エビちゃんとカニちゃんじゃん。ねぇねぇ二人とも、何してんの?」
 間の抜けた声に、思わず二人して振り返る。そこに立っていたフロイドは、あたかも今起きたばかりというように眠たげに頭をいていた。
「ゲッ。フロイド先輩……」
「え〜もしかしてサボり? カニちゃんはともかく、小エビちゃんはなんか意外〜」

 先程の決意もあえなく、フロイド先輩の独特のペースに巻き込まれてしまう。機嫌がいいのか悪いのか、判断がつかないような彼は、「そういえば」と傍らの監督生をじっくりと見つめた。

「小エビちゃんさぁ、昨日倒れてたっしょ。もう大丈夫? ヘーキ?」
「はい。もうすっかり元気になりました。あの、知ってたんですね」
「うん。だってオレたちその時すぐそこにいたし。アズールが突然目の色変えてすげー勢いで走っていくからマジでびっくりしたぁ。そしたらその先で小エビちゃんが倒れてんだもん。そのままアズールが担いで持ってったから、そこまでしか知らないけど」
「……アズール先輩が、ですか?」
「そーだよ。アズールが」

 余程意外だったのだろうか。名前は目を大きく見開いたまま、呆然としているようだった。確かに、お世辞にも体育系とは言えないアズール寮長が監督生を担いでいくなんて、あまり想像できないシーンだ。

「ってか戻ってからのアズール、すっげーオカシイんだけど何か知らね? 昨日も突然ラウンジ休んで、夜中もずっと錬金術でなんか薬みたいなのいっぱい作ってんだよねぇ。お陰でオレまで寝不足なんだけど。チョーダルい」

 言うだけ言って満足したのか、はたまたこちらに興味を失ったのか。こちらの返答を聞く前に「じゃあね。バイバーイ」とフロイド先輩は手を振りながら去っていった。マッジで掴めない人だよな、と頬をいて、先程から一言も喋らない監督生を見遣る。
 そして、気付いてしまった。

「お前……」

 驚きと、嬉しさと、切なさと、寂しさと。それらを全部ひっくるめた、今にも泣きそうな顔をした名前の表情がそこにあった。
 それがどうしてかなんて、聞くまでもない。あの馬鹿みたいにニブいデュースですら、今の彼女の顔を見れば一目で気付くだろう。
 ああ、恋をしているのだ、と。

「名前──お前の好きな人って、アズール寮長だったんだな」

 はっとして、少し困ったように眉を下げて小さく微笑む。彼女は何も言わなかった。されどそれこそが、何よりの答えだった。



 少し硬い医務室のベッド。ツンと鼻につくような薬品と、他人のように息をする清潔なリネンの匂い。その中に、記憶の大切なところに置いていた、覚えのある爽やかなコロンの香りが混じっていた。

 やっぱり昨日、自分を助けてくれたのはアズール先輩だったんだ。
 それだけで、どうしようもなく胸が満たされる。一生分の幸せを吸い込んだみたいに、心の奥のところがぽかぽかとしていた。
 器用に見えて、その実少し不器用なところもあって、それでも誰よりも優しい人。
 ──そんな人を好きになれて、私はどれだけ幸せなんだろうか。

 エースからの提案で、午後からの授業もエスケープ。トレイン先生には怒られてしまうかもしれないけど、反省文と掃除なら慣れたものだ。
 中庭の広い芝生に移動して、そのまま芝の上に鞄と身体を投げ出し、二人で色んな思い出を語りあった。
 三人が食堂のシャンデリアを大破させて、ドワーフ鉱山に行ったこと。皆で花嫁のゴーストに求婚したときのトレイ先輩の歌と、エースの浮いた台詞。二年になってからもマジフト大会はやっぱりツノ太郎率いるディアソムニアが優勝して、レオナさんとはもはや冷戦状態になっていた。その後のウィンターホリデーではエースとデュースが気を遣ってか早く戻ってきてくれて、寮にいたオクタヴィネルの人達も合わせて皆でニューイヤーをお祝いした。明け方までラウンジではしゃいで、次の日は皆で死んだように眠ったっけ。

「君の〜〜ベールは〜〜」
「漂白したての布巾みたいで〜」
「ッハ。なっつかしー。マジで一生笑えるわこの歌。つーかさ、お前って、そン時からあの人のこと好きだったワケ?」
「そうだよ。へへ、みんな気付かなかったでしょ」
「マージかよ。気付かねー……」

 エースが顔に手のひらをあてて、空を仰ぐ。いつもより近くに見える真っ青な空が、どこまでも遠く続いていた。穏やかな風が実験室からの少し科学的な匂いをつれて、二人の髪をさらさらと靡かせる。
 ひとしきり笑いあった後、エースはふうと一息ついて、首を後ろに傾けながら監督生の方を向いた。

「お前のさ、好きな人≠フどこが好きなわけ?」
「えええ……聞くの? なんか恥ずかしいなぁ」
「あったりめーじゃん。ほら、はやく言った言った」
「しょうがないなぁ。ではモストロ・ラウンジの限定フード付きドリンクセットで手を打ちましょう」
「はー!? 有料かよ!」
「あはは。嘘だよ。……ここだけのひみつだからね」

 また空を見上げて、大切な宝物をひとつずつ取り出すように想いを馳せる。水のせせらぎにも似た凪いだ声が、泡を吐くようにそれを紡いでいった。

「誰よりも努力家なところ。どんなに大変なことも、それでもさらっとやってのけちゃう
ところとか」
「ふんふん」
「言葉ではすっごく利己的に見えるけど……困ってたりしたら助けてくれたりして、ほんとはすっごく優しいところ」
「へー」
「リーチ先輩たちと悪巧みしてる時の楽しそうな表情とか、前に勉強を教えてくれた時の穏やかな声とか、飛行術の授業ではちょっと弱気になってるところも、全部好きだなぁ」
「ははっ。ウケる。あの人たちホント飛行術だけは苦手だもんな」
「えーっとね、それから……」

 両手では数えきれないほどの彼の好きなところが、とめどなく溢れてくる。そうして、もう届かない、届けるつもりもない想いを静かに昇華させていく。
 好きだった。
 彼が、好きだったのだ。
 たとえこの想いが消えて、皆が自分のことを忘れてしまったとしても。それだけは、確かに今ここにあったのだ。
 胸を締め付けるような監督生の独白。そのすべてを聞き届けて、エースはやおら立ち上がる。それから不思議そうに彼を見上げる監督生の方を見て、言った。

「ありがとな。俺、お前に出会えてよかったわ」

 くしゃりと笑って、その顔が涙で崩れる前に、エースは最後に監督生の頭を撫でた。そのままどこかに向かう彼の行先を視線で追いかけ振り返ると、そこにはなぜか呆然と立ち尽くすアズール先輩がいて、エースはその肩に軽く手を置いて去っていった。
 状況が読み込めずに、監督生の表情が赤くなったり青くなったりと忙しなく変わっていく。
 うそ。アズール先輩は、いつからそこに。まさか、今の告白もずっと聞いていたのだろうか。二人とも名前を出してはいないとはいえ、それが誰かなんて火を見るより明らかで。もしかしてさっきのエースのは、誘導尋問だった?

「名前、さん……」

 珍しく狼狽したようなアズール先輩の姿に、されど自然と監督生の気持ちは凪いでいた。言ってしまったものはもうどうにでもなれと不思議と緊張が溶けていく。きっとこれは、エースからの最後のプレゼントだと思うから。

 放り出したままの鞄から、監督生が何かを取り出した。
 ゆくりなく差し出されたのは、一枚は最後まで、二枚目は最後の行までたどり着いたポイントカード。

「アズール先輩。最期に、私を海に連れて行ってくれませんか」


 ◆


 裸足で砂を踏んで、彼女はまるで子どものようにはしゃぎながら寄せる波を蹴る。アジュールブルーの波打ち際。捲りあげた裾から覗く白い足首が、少しだけ透けて見えた。

「全部思い出したんです。私、とっくの昔に死んでいたんだって」

 手のひらで水を掬いあげて、彼女は全てを飲み込むように穏やかに、元の世界の最後の記憶を語ってくれた。まだ遠い水平線を眺めて彼女は微笑む。眩しくて、なのに目が離せなかった。焼き付くような感情は甘くほろ苦い。それを恋と呼ぶのだと、彼はもう分かっていた。

 彼女のその後ろで、逆光のように射す陽が、昨晩は一睡もしていないアズールの瞼にじわりと沁みる。
 それは、学園長と彼女の話を聞いてから、彼女が少しでも長くここに留まれるような、強力な魔力を注入した薬を作れないかと夜通し作り続けていたからだ。それでも、ついぞ完成はしなかった。結局僕は何も出来ず、彼女はこの世界から消えてしまう。ならば、せめて。

「僕の好きな人の話をしましょう」

 手のひらの中でたゆたう透明な水を眺めていた彼女が、ふとこちらに視線を向ける。その表情は、どこか泣きそうにも見えた。

「僕の好きな人は……そうですね。一言で申し上げるなら巻き込まれ体質、と言いましょうか。いつもトラブルの中心にいるような方です。裏を返せば、誰からも頼られ、皆に好かれるような人でした。いつも楽しそうに笑って、時には怒って、それでも結局手を差し伸べてしまう。そんな方です。また彼女は大変努力家で、慣れない環境に身を置きながらも、魔力もないのに苦手な科目にもめげずに勉強していることを僕は知っています。僕はそんな彼女を、気が付けば目で追っていました」

 ぱしゃり、と手のひらから水がこぼれ落ちていく。それと同時に、丸い瞳からすらりと流れたその一粒を、ただ美しいと思った。

「アズール先輩の、好きな人……きっとその人は、幸せですね」
 彼女の声が震えて、涙の予感がする。

「ほんとうに、しあわせ……」

 ついにくしゃりと顔をゆがめて、彼女はとめどなく溢れ出る涙を何度も拭いとる。その身体を、そっと抱きとめた。返すように、細い手が背中に回される。

 夢のような時間の中で、どうしようもない夢を見る。
 まもなく始まるホリデーに、あと一行で貯まるポイントカード。そんな小さな未練が、彼女をこの世界に繋ぎとめはしないだろうか。
 分かっていた。僕は御伽噺の王子様ではないから、愛や口付けで泡になる彼女を救うことは出来ない。僕は偉大な海の魔女ではないから、彼女を生きながらえさせるだけの薬を作ることは出来ない。
 それでも。

「……僕は、決してあなたを忘れません」
 それを無かったことには、したくない。

 彼女が願った忘却魔法。実は、それを防ぐための魔法を自らに掛けておいた。そして、『昼からの授業が始まったらどうか中庭に来て欲しい』と駆け込むように自分を呼び出しにきたエースにも。別れ際の彼は、アズールの肩に手を置いて「よろしくな」と囁いて去った。その顔が、くしゃりと歪んで、泣いていることにも気付いていた。
 白波が革靴に染み込んでいく。細い手首を取って、祈るような声が喉を抜けた。

「次に死ぬ時は海の中にしてください。でなければ、あなたを見付けられませんから」

 丸く見開いた彼女の目が、やがて緩く弧を描いた。やわめられたその目尻から、またひとつ粒が落ちる。
 彼女の足元が、ゆっくりと薄くなっていく。

「アズール先輩。次に会う時も、私のこと、見つけてくださいね」

 掴んでいるはずの手が消えていく。たまらず、涙に濡れたその頬に手を添えた。駄々を捏ねる子供のように、必死にその熱を繋ぎとめようとする。いやだ。離したくない。行かないでくれ。

「ありがとう。大好き」

 最期に花開くように笑った彼女は、背中の海を透かして、そうして見えなくなった。頬に添えたアズールの手のひらに残した涙が、彼の手を伝ってぽたりと落ちた。




 空の青はやがて柔らかな赤になり、また深い青を連れてくる。
 そろそろ戻らなければ、ジェイドやフロイドが心配するだろう。だから僕は帰らなくてはいけない。彼女がいなくなっても、誰もが皆、オンボロ寮にいた監督生のことを思い出せなくなってしまっても、自分たちの日常は止まることなく続いていくのだから。
 一人になったその場所で、静かに砂浜を踏む。砂が鳴る音が耳に残っていた。ぽっかりと心に空いた穴を埋めるかのようにふとポケットの中に手を入れると、そこには彼女から渡された二枚のカードが入っていた。
 少し角の折れた、その二枚を見つめて、アズールはまた歩き出す。帰る間際にもう一度振り返り、アズールはその青の美しさを目に焼き付けて、そっとその目を閉じた。記憶の中で彼の名を呼ぶ、凛としたその声に思いを馳せながら。


 いつかまた、アジュールブルーの波打ち際で。
 会えたならまたもう一度、君と恋がしたい。
 
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