いつかまた、



 それはいつもと変わり映えのない昼下がり。
 赤い魔法石のついたペンが、エースの手の中でくるくると弧を描く。五百年前の湾岸魔女戦争について語るトレインの声を右から左に聞き流しながら、暇を持て余した彼はふと隣に座る監督生を盗み見た。魔法石のない、ありふれたペンを握った華奢な手のひらが紙の上をさらさらと滑って、黒板の文章とトレインの言葉が丸っこい文字になる。女みてーな字。なんて独りごちて、そりゃ女なんだし当たり前かと頬杖をつく。

 ここは男子校であるナイトレイブンカレッジ。その中で、彼女は唯一の女子生徒だった。
 オンボロ寮の監督生である名前が女性であることを知っているのは、学園長をはじめとする教師陣、そして寮長クラスの生徒と、エースのように一部の同学年の生徒たちだけだ。
 彼女は元々はこの世界の人間ではなく、どうやら色々訳アリで彼女の魂がこちらに来てしまったらしい。かつては元の世界に戻るべく学園長に掛け合ったり、様々な大陸にまつわる書籍を探ってはいたようだが、そういえば最近はそんな姿もすっかりとご無沙汰だ。ある時から、彼女は元の世界のことを口にはしなくなった。何か心境の変化でもあったのだろうか。

 隣からは変わらずペンが紙を滑る小気味良い音が聞こえてくる。十インチほどの隙間は、それくらい静かだった。少し前までは、ランチ後の魔法史とくれば隣からは生意気な猫の寝息が聞こえてきたはずなのに。

 グリムがいなくなってからもうすぐひと月が経つ。正確にはいなくなってしまったのではなく、死んだ。心に降り積もる後悔の中で、それでも一つだけ言わせてもらうなら、そうせざるを得なかったのだ。

 エース達が入学してから立て続けに起きた寮長らのオーバーブロット事件。その度に残されたブロットの欠片──闇の力に染まった魔法石を食べ続けたグリムはついに恐ろしい化け物へと形を変えてしまった。彼の名を呼び続ける名前の声すら届かず、ただ悪戯に皆を傷つけるだけのグリムは、監督生のもとで一つになった寮長たちの力で止められ、そして最期は彼女の腕の中でその目を閉じた。

 もしあの時、ブロットの石を食べるグリムを止めていたら。そんな、どうしようもない未来を何度も考えた。後悔とは後から悔いること。よくできた言葉だ。監督生のそれは、もっと計り知れないだろうが。

 グリムのなき後、事実上一人になってしまった監督生は他寮への転寮も提案されていたらしい。ただ集団生活の中で女だとバレないように暮らすのはなかなか難しく、また彼女自身あの古臭い建物に愛着も湧いていたのだろう。「ゴースト達も居てくれるし」と監督生は結局そのままの生活を選んだ。もしかしたら、グリムとの思い出をせめて残しておきたかったのかもしれない。
 ドーナツの穴のような埋められない寂しさを抱えながらも、監督生は決してそれを誰かに見せたりはしなかった。そうせざるを得なかったエース達に気を遣っているのかもしれないし、彼女もまた、自分自身を責めているのだろう。
 それでも授業は一つもサボらずに、魔力がないから参加出来ない飛行術ですら、木陰からその様子を眺めている。穏やかなまなざしで、ずっと。いっそ彼女が本当に魔法士になれたらと密かにエースは思っていた。そうすれば、元の世界にだって帰らなくて済むだろうに。

 そういえば、監督生は何故元の世界の話をしなくなったのだろうか。もしかしたら何かきっかけがあったのかもしれない。
 ──例えば、恋とか。
 くだらない思いつきだったが、エースの心をそわそわと揺らすには十分だった。好奇心か、はたまたそれ以上の名前のついた感情か。とにかくこの授業が終われば聞いてみようと、エースはいつもより進みが遅く感じる時計の針を睨んでいた。


「名前ってさ、好きな奴とかいねーの?」

 移動教室のさなかに、何でもないような素振りで問いかける。「えっ!」とテキストを抱えた彼女は少し焦ったようにエースを見上げると、そのまま気まずそうに眉を下げた。

「な、なに? 急にそんなこと聞いて」
 本当にただの思いつきだったのだが、この反応はもしかして当たりを引いたのか。しどろもどろの声ににやりと口角を上げる。対する監督生は、なんとかこの場を取り繕おうと言葉を探すような素振りで、結局何も見つからなかったのかエースの視線から振り切るように顔を背けた。

「ふーん。へ〜? そっかぁ。お前も一丁前に恋とかしてたんだな」
「ち、ちがう。別に何にもないって。ほら、もう行こうよ」

 後頭部で手を組みながら勿体ぶって歩くエースのブレザーの裾を引く。されど彼は、好奇心を貼り付けたその表情を崩しはしない。

「で、誰なワケ?」
「な、なにを……」
「ウチの寮だったらやっぱりトレイ先輩ってとこ? それかオクタヴィネルのアズール寮長かー、スカラビアのジャミルさんとか? あーでもオマエ、ジャックとかエペルとも仲良いもんなぁ。でもさすがにマレウス先輩レベルは反応しづれーからちょい勘弁な? オマエがツノ太郎とかいって紹介してきた時心臓止まるかと思ったから。マジで」

 怒ったリドル寮長のように真っ赤になる顔に、つい面白がって追撃を続けてしまう。されど否定はしないその姿に、突拍子の無い勘もたまには当たるものだと自画自賛。
 手当たり次第に色んな人の名前を出すも、結局名前の首が縦に振られることはなかった。最後に「もしかしてオレ?」と試してみるも、「それはないから大丈夫」と真顔で返される。なんかちょっと、腑に落ちない。

「ちぇっ。結局誰かは教えてくれねーのかよ」
「ひみつ! もうこれ以上は何も答えないからね」
「まっ、でも最近オマエあんまり元の世界の話とかしなくなったし。好きなヤツがいるなら別にもうちょっとここに居てもいいんじゃねーの?」

 照れくささに自分の気持ちはなんとなく隠したまま、「デュースだって喜ぶし」と付け加える。別に他意はない。なんてことは無い言葉だった。それなのに、どうしてか悲しそうな顔をした監督生にふと視線が奪われる。
 立ち止まった廊下の隅。窓から入り込んできた微風が髪をなびかせる。肩口で揺れるその毛先が、不意に薄く透明になった気がした。

「お前、いま……」
 されど瞬きのあと、首を傾げた彼女はいつも通りだった。見間違いか、多分光の反射か何かだろう。言葉を訂正する間もなく次の予鈴が鳴り、二人は慌てて廊下を駆け出した。


 ◆


 真昼の陽射しを吸い込んだアスファルトの熱さを頬に感じていた。横向きの信号機がチカチカと点滅している。ああ、赤になる。はやく、ここから動かないと。
 されど身体はぴくりとも反応しない。身体と心がちぐはぐに引き離されたような、不思議な感覚だった。はやく、動かないと。あれ、でも。

 どうして私は、こんなところで寝転がっているんだろう。

 その瞬間、腕に炎がついて勢いよく燃え上がり始めた。肌が焦げるような熱に炙られる。瞬く間に広がっていくその炎に、耐えきれずに悲鳴をあげた。


 勢いよく起き上がって、パジャマの襟元を掴む。何度も浅い呼吸を繰り返してようやくそれが夢だと気づく。
 嫌な夢だった。現実と見まごうほどのリアリティを持った夢は、静まり返った夜を揺り動かす。サイドテーブルの時計はまだ夜中の二時になったばかりだ。
 襟元を握りしめたまま、身体を丸めて膝に瞼を押し当てる。静寂が胸を突いて、どうしようもない焦燥感と寂しさをつれてくる。狭いはずのベッドが、とても広く、空っぽに感じてしまうほどに。

 それはグリムが消えてしまったあの日から、何度も繰り返し見た夢だった。その夢が段々鮮明になっていく気がして、言いようのない不安をやり過ごそうとぎゅっと目を瞑る。

 ……不安な夜にいつも思い浮かべる人がいた。きっと彼≠ノとっては迷惑かもしれないが、思うだけならバチも当たらないだろう。

 昼間のエースの話を思い出す。好きな人がいるのかと聞かれて、どきりと胸が高鳴った。見抜かれてしまったのだと心が焦って、それでも否定できなかったのはきっと、ずっと傍にいてくれた友人と、この気持ちに嘘をつきたくなかったからだ。
 元の世界の話をしなくなったと彼は言った。ここに居てもいいのだと。そうすれば、喜んでくれる人がいるのだと。
 それでも、私は。
 窓の外を見上げて、揺れる月に囁きかける。
 ごめんね、エース。私が元の世界の話をしなくなったのは、好きな人ができたからじゃないんだ。


 ◆


 テストが終わってからのモストロ・ラウンジは普段よりいくらかは空いている。逆にテスト前は、アズール先輩の対策ノートにあやかりたい人達がポイントカードを埋めるべく通いつめるため繁忙期のようだ。それをこなしながらテストでは学年でも一番を争うほどの点数を取ってしまうのだから、同じ人間だとは思えない。それは言葉のあやで、実際に彼は人間ではなく人魚なのだけど。

 「小エビちゃんだぁ〜。遊びに来たの?」とフロイド先輩に通されて、いつもよく座るガラスに近い角の席に掛ける。人目に付きにくいとの、珊瑚がきれいに見えるから、ここが一番好きだった。
 「ねぇねぇ小エビちゃん何頼む? オレ今たこ焼き作りたい気分」「えっと、スペシャルドリンクで」とご機嫌な先輩とこのやり取りを三回くらい繰り返して、鞄の中からポイントカードを二枚取り出した。ひとつは全部貯まっていて、二枚目は今日のこのドリンクでようやく最後の行にたどり着く。貯まったものの、何をお願いするにも勿体ない気がしてすっかり使う機会をなくしていた。でも、はやく使わないと。どうするべきかとカードと睨めっこしていると、横からすっとコースターが敷かれた。

「どうぞ、スペシャルドリンクです」

 心臓がどくんと跳ね上がる。すらりとした白手袋の指が、綺麗な色をしたドリンクをその上に置いて、離れていく。その指先につられるように見上げると、胸の中で熱っぽいものがぎゅっとなって、じわりと広がった。

「アズール先輩」
「こんにちは、名前さん。ご贔屓にしていただいているようで何よりです」

 やわく弧を描いた薄い唇から、笑顔がひとつ。支配人自らのお出ましに、つい背筋を正してしまう。いつも忙しい時はデシャップでオーダーの振り分けや指示をしている彼が表に出てくるのは、知っている限りでは珍しいことだった。

「おや、もう二枚目が貯まりそうですね。ありがたい話だ。何か希望はありますか? 何でもして差し上げますよ」

 テーブルに置いたままの一枚と、手の中の二枚目を覗き込んで、アズール先輩は声の調子を上げた。緊張からか、少ししっとりとした親指の窪みがカードの隅に丸くついていた。

「はい。いつ使おうかずっと悩んでて。でもこの前の魔法薬学のテスト、ダメダメだったからアズール先輩に教えてもらえばよかったです」

 彼を前にして上手く喋れているだろうかと、それだけが不安になりながらぎこちない笑みをつくる。どんどん早くなる心臓の音は、彼に聞こえてしまってはいないだろうか。
 ふむ、と彼は何かを考えるようにして眼鏡の細いところに指を当てる。その隙間にストローをさして、ドリンクを一口飲んでようやく、その冷たさが火照りを冷ましてくれた。

「勉強でしたら、都合さえつけば幾らでも教えてあげますよ」
「えっ。でも私まだ、これ一枚しか貯まってなくて」
「……別に、あなたからそれに対しての対価を要求したりはしません。僕も復習がてら丁度いいですし、他人に教えることほど身につく勉強法はありませんから」

 ぼんやりとたゆたうようなものを抱えながら、彼の口から流暢に紡がれる言葉たちを必死に追いかける。うれしい。うれしい。どうしよう。そんな感情がうまく言葉にならずに、ただ「いいんですか? ありがとうございます」と頭を下げる。その後ろを、どこから現れたのかジェイド先輩が「さすがアズール。お優しいですねえ。僕にも教えていただきたいです」とすらりと通り過ぎ、「お前は自分で出来るだろう、ジェイド」とアズール先輩が冷ややかにその背中に声をかけた。

 アズール先輩。アズール・アーシェングロット。ひとつ上の、オクタヴィネル寮の寮長。
 それが、監督生の好きな人だった。とはいえ、学年も違えば寮も違う彼と話す機会はそんなに多くはなく、廊下ですれ違ったり、こうしてモストロ・ラウンジでポイントを貯めるフリをして通うくらいしか接点はない。それでも、よかった。たまに彼を目にする時に、一瞬ふわりと身体の中を幸せな気持ちが風のように通って、それだけで満足だったのだ。本当に。
 臆病ながらも、少しずつ埋めてきたこの隙間を大事にしたかった。これ以上の何かを望んだりはしない。ましてや、告白するなんて。
 ああ。考えただけでも、微熱が出そうだ。

「またラウンジが休みの日に声を掛けますから、それまでに苦手な所をまとめておいてください」
「はい、待ってます。あの、本当にありがとうございます」
「……いえ、僕も」

 その言葉の続きを待っていると、丁度来客のベルが鳴って、その向こうではサバナクローの寮生がぞろぞろと列を作っていた。忙しくなる気配を察知して、「では、ごゆっくり」とアズール先輩は軽く一礼して入口へと向かっていく。彼が通り過ぎた後の爽やかなコロンの香りが、まだふわりと宙を漂っていた。


 ◆


 監督生の好きな人が分からない。
 あれ以来、注意して彼女が誰かと話すところを眺めてみたものの、どうにもピンと来ずに今に至る。
 彼女は誰とでも仲がいいように見えて、その実誰とでも距離を取っているかのような接し方をしている。砕けたように話すのはそれこそ自分か、進級してクラスが離れてしまったデュース、あと強いて言うならジャックくらいで、それ以外には限りなく平等だった。自分の知り合いに限定していたのがダメだったのだろうか。今度はもう少し範囲を広げて、
「……エース。エース! どうしたの、ぼーっとして。はやく行かないと置いて行っちゃうよ」
 本っ当に、全然分かんねー。

 二人でカフェテリアまでの道を歩きながら、さっきまでの授業について話す名前の顔を覗き込む。その白い肌の、丸い目の下に珍しく隈ができていた。
 これも彼女を見ていて気付いたことだが、最近の名前はやけにぼんやりとしている。その時の表情はなんと言うか物憂げ、というかいっそ儚げで、つい話し掛けるのを躊躇われるほどだ。

 グリムのことを考えているのか、はたまた恋煩いか。後者であればまだ救いがあるのだが。
 その目元の隈が指すとおり眠れていないなら、もしかして睡眠不足のせいでもあるのだろう。とにかくあまり調子が良くなさそうな監督生の姿に、ついこちらまで調子が狂ってしまう。

「あのさー。お前、最近大丈夫?」
「え?」
「なんつーか、体調悪そうだし……しんどいなら医務室とか、寮で休んどけよ?」

 名前は大きく目を開いて、そのまま二回瞬きをしたあと「ありがとう」と小さく笑った。その姿すらどこか辛そうに見えて、何とも歯痒い気持ちになる。

 その瞬間、名前が地面に躓いて前に転けそうになった。「わっ」と弾けるような声と、スローモーションにも見えるそのさなか、慌てて手を伸ばした先の腕が突然うっすらと?透けた?。されどそれも一瞬のことで、空を切るかと思ったその腕は、エースの手の中にある。掴んだところから、どくどくと早くなる鼓動と血の巡りが息づいていた。

 何だ、今のは。
 決して見間違いなんかじゃない。彼女は腕は確かに今、一瞬だけ透けた。

 焦りと衝撃に荒くなる呼吸を繰り返す。そういえば、前にも同じようなことを思ったはずだ。立ち止まった廊下の隅。窓から吹いた風が揺らした彼女の髪が、少しだけ透けて見えたあの日。
 間違いなんかじゃない。
 名前が、何かおかしい。

「……お前、ホントどうしたの?」

 やわく掴んだままの彼女の腕が、少しだけ震えていた。そのまま突然エースの手を振りほどいて、監督生は逃げ出すように廊下を走り出した。

「っおい! 名前!」

 追いかけようとして、ただそれを彼女は望まないような気がしてゆるやかに足を止める。通行人の嫌な視線が一瞬で集まって、それもすぐに解けていった。何が起きたのかも分からないまま、エースはただ一人、まだ少しだけ熱い自分の手のひらを見つめていた。


 昼休みの真ん中の、いろんな色をした廊下の中を一直線に駆ける。今はただ、ここではないどこかに、人から離れた場所に行きたかった。

 エースに見られてしまった。気付かれてしまった。

 突然逃げだした自分を、きっと不審に思うに違いない。でもあのままあそこにいて、うまく取り繕う自信がなかった。

 走ったことにより体内の酸素が薄くなって、寝不足の頭がくらくらとする。身体を引きずるようにして誰もいない外の渡り廊下の端に寄って、柱にもたれながら呼吸を整える。
 ずっと、毎日同じ夢を見続けて、寝苦しい夜が続いていた。夢の中の炎は日を追うごとにより鮮明になり、監督生を飲み込み焼き尽くそうとする。次第に眠るのさえ怖くなって、そのまま朝を迎えることだって少なくなかった。
 本当は分かっていたのだ。あの夢がなんなのか。より鮮やかになっていくその光景と、その理由を。
 ……いやだ。思い出したくない。許されるのならば、ずっとここにいたいのに。
 過呼吸のように、息をするのが苦しかった。シャツの襟元をぎゅっと掴んで、何とかそれをやり過ごそうとする。うつむいた先の足元が不意に透けて、その恐怖にまた呼吸が乱れた。次第に意識がぼんやりして、瞳の中のオートフォーカスがぐらりと揺らぐ。
 だめ、だ。意識が──……。
 強烈な眠気にも似た、どっしりとしたものが頭の中を占領する。その瞬間、視界が真っ白になって、名前はそのまま意識を手放した。


 ◆


「マジで腹減った〜。さっきの授業中、キャンディ食べようとしたらイシダイ先生にすっげー怒られたし」
「全く……当たり前だろう。あれくらいで済んだんだからまだいい方だ」
「ふふ。午後は体力育成の授業がありますからね。今のうちにしっかり食べておかなくては」

 廊下を連れ立って歩きながら、オクタヴィネルの寮長とその傍らの双子は一階の大食堂へと向かっていた。
 並んで歩くとどうにも圧がある三人の姿がガラス窓に反射する。アズールは決して小柄な方ではないが、この規格外の大きさの二人に常日頃囲まれていれば小さくも見えるものだ。「アズール先輩って、思ってたよりも背が高いんですね」とその昔、監督生から言われた言葉を思い出す。

 その窓の外、渡り廊下に見慣れた姿を見つけて、アズールはふと足を止めた。
 ──名前さんだ。
 意識した途端、不整脈のように鼓動が乱れる。彼女の姿を見つける度にこんな気持ちになるのは、いつの日からだったか。

 それはアズールにとって初めての感情だった。
 巻き込まれ気質で目が離せない彼女のことを、気が付けば自ら目で追うようになっていた。日常の中、彼女の姿を見れば嬉しくなり、彼女が誰かと楽しそうに話しているのを見れば、胸の中に鉛が敷かれたように重くなる。いつの日か、それを恋と呼ぶのだと知った。
 ありふれた恋心が、いつしか蕾を付けて膨らんでいった。いつかは元の世界へと戻ってしまうのだからと何度も蓋をして、それでもどうしてもその芽を摘み取れなかった恋だった。
 元より勝ち目のない勝負はしない主義だ。だから、彼女にこの想いを伝えようなどとは思わない。このガラス越しの距離くらいが、きっと自分にはお似合いだ。

 それにしても、彼女はそんなところで何をしているのだろう。
 そう疑問に思った時、ふらりと前のめりに監督生が倒れ込んだ。その瞬間、さっと血の気が引くのが分かった。息を飲むと同時に、アズールはその場所へと駆け出していた。後ろから自分の名前を呼ぶ二人の声も聞こえないほどに無我夢中で走る。ああ、今この場所が海であればもっと早くたどり着けるものを。今ほどここが陸であることを恨んだ日はない。

「名前さん!」
 名前を呼んで、その小さな身体を抱える。
 されどいくら揺さぶっても反応はない。青白い顔の下でだらりと腕が垂れる。嫌な未来を見た気がして、すぐに抱き上げて医務室へと駆け込んだ。
 昼休みだからか職員は誰もおらず、とりあえず二台あるベッドのうちの一つに彼女を寝かせる。その寝顔には、前にラウンジに来た時にはあまり目立たなかった隈が色濃く付いていた。
 睡眠不足だろうか。ならばいいが、別の病気の可能性だってある。魔法薬学は得意分野のひとつだが、生憎医学にはあまり明るくない。

 そっと触れた青白い頬は、人魚特有の低体温の自分の肌よりもひやりとしていた。
 どうして、こんな。まるで、死人のようじゃないか。
 手に触れたところから、愛おしさが秒針と共に増していく。これ以上離れ難いと思う前にとその手を引いた瞬間──監督生の肩が薄く透けるのを、アズールは見た。

「……は?」

 見間違いだろうか。いや、それにしてははっきりとしすぎている。慌てて肩の部分に触れるも、そこにはあるべきブレザーの感触がしっかりと存在していた。ともすれば、これは一体どういう事なのか。

 呆然としていると、誰かが急いでこちらに近付いてくる足音が聞こえてきた。今から医務室を出れば鉢合わせになるだろう。それと同時に、「ん……」と彼女が微かな声を上げた。別に悪いことをしている訳ではないが、何となく見つかりたくなくて、魔法で気配を消してから隣のベッドへ向かい二つを仕切るカーテンを引いた。

「監督生くん!」
「あれ、学園長……。私……」
「廊下で倒れたと聞きました。ああ、起き上がろうとしてはいけませんよ。そんな顔も青白いままに」

 ハーツラビュル寮のエース・トラッポラ辺りだろうと推測した予想に反して、意外にも現れたのは学園長だった。尚更出るタイミングを失って、アズールは見つからないように息を潜める。

「学園長。……私、もうダメかもしれません」

 今にも消え入りそうな監督生の声が聞こえる。その意味が、分かりかねていた。それでも学園長には通じたのだろう。二人の会話は滞りもなく進んでいく。

「夢が。毎日毎日見てる夢が、鮮明になって、全部思い出したんです。あの炎に焼かれる夢は、私がこの世界に来る前に体験したことだったんだって」

 一体、彼女は何を言っているのだろう。高鳴る鼓動に急かされて、その言葉の先を必死に覗き込もうとする。その内側で、五感を超えた何かが嫌な予感の気配を察知して、警鐘を鳴らしていた。

「私、ここに来る前の世界で、とっくに死んでいたんですね」

 昼間の喧騒が、一瞬にして無音になる。衝撃が胸につっかえた岩になって、呼吸さえ止めてしまうようだった。

 彼女が、死んだ人間? そんなはずは無い。だって今まで、そんな素振りは一度も見せなかった。笑って、怒って。いつも騒動に巻き込まれては、仕方ないなぁと困ったように微笑んで。グリムを喪ってからもなお気丈に振舞っていた。その強さを、うつくしさを、生きていると言わずして何と言うのか。

「……以前もお伝えしたとおり、貴方がこの世界でその姿を保っていられるのは、グリム君の魔力があったからでした」

 ぽつり。水面を揺らす雨のような声だった。後悔にも似た響きで、ゆっくりと言葉は続いた。

「グリム君は最期、恐らく無意識のうちに、自身の魔力をすべて貴方へと移しました。しかし今、身体が透けてしまうのは、その魔力が切れかかっているからでしょう。先日私の魔力を貴方にふんだんに送ってみましたが……効果は得られなかった。きっと、グリム君の魔力でないと意味が無い。それこそが、君たち二人が出逢った意味、その必然性なんでしょうかねぇ」

 一瞬透明になった彼女の肩。あの瞬間、もしかしたらそのまま消えてしまうのではないかと、そんな思いがふと頭をよぎった。その思いが頭の底に張り付いて、今も、拭えないでいる。

「少しでも長く身体を保てるための魔法薬も研究していますが、未だ成功はしていません……私は学園長でありながら、貴方を助けることすらできない。本当に、申し訳ありません」
「そんな……学園長のせいじゃないです、から。本当に、色々ありがとうございます」

 二人の声が、ゆらゆらと揺れて、沈黙が部屋を支配する。白いシーツに、ぽたりと雫が
落ちた音を聞いた気がした。

「学園長、お願いがあるんです」

 もし、私が。
 もし、私がこのまま消えてなくなってしまったら。

「その時は、皆に私の事を忘れる魔法を掛けてくれませんか」
 
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