きみとシークレット
あの子とモモの話?
まあ、そうね。きっと二人のことを一番よく知ってるのは僕だと思う。二人が今の関係になるまでの間をずっと傍で見てきたし。
これを言ったらモモは嫌がるんだけど──実は最初、モモってあの子に対して、こう、好意的ではなかったんだよね。そう。誰に対してもすぐに打ち解けてしまうあのモモが。ふふ。意外? まあさっきも言った通り、この話をするとモモは拗ねるんだけど。今やあの通りだから、自分があの子に対してそんな風に思ってた事実ごと消してしまいたいみたい。まあそれも実際は勘違いで──何? 楽しそうって? そうね。モモが自分の感情に振り回されてるなんて滅多にないから、それを見るのは楽しい。ちょっと妬けちゃうけどね。なんて。
ああ、話が逸れちゃった。ごめん。
あの子のことは知ってるよね。そう、新しいマネージャーちゃん。おかりんが自分に後輩ができたって嬉しそうに紹介してきたときのこと、今でも覚えてる。あの子も僕らと初めて会った時はすっごく緊張してて──自己紹介で自分の名前すら噛んだ子を見たのは初めてだったかな。っはは。面白いよね。IDOLiSH7の挨拶の時もそうだったけど、僕たちって初対面の人を緊張させるくらい大御所になってたんだね。ちょっと感慨深いな。
とにかく、しばらくの間は僕らRe:valeについてマネージャーの仕事を実地で学ぶって研修をしてたんだよね。それが僕たちとあの子の出会い。そう、あの頃のモモは──。
◆ きみとシークレット
シュワっと広がる炭酸をごくりと飲み込んで、空のペットボトルを片手に階段をかけあがる。今日も世界の調子は良好。パレットに広げた絵の具みたいな空の青に、信号はオールライトグリーン。毎日がびっくりするくらい楽しくてハッピー! ……なはずだったのに。
「千さん。おはようございます」
「うーん……おはよう名前。今日も早いね。仕事は慣れた?」
「はい! と言っても、やっと皆さんの仰ってることが分かってきたくらいで。すみません、ご迷惑をかけてないといいんですが……」
「どうして謝るの。名前はいつも頑張っていて偉いよ。焦らずに、一つずつ覚えていこう」
聞きなれた声が耳を掠めて、ピタリと足が止まる。ドアの隙間からこっそりと覗いた先で、ユキの手が徐に持ち上がって、優しい速度で彼女のつむじに落ちた。そしたら名前はまるで花がほころぶみたいにはにかんで、「ありがとうございます」ってゆっくりと目じりを落として。
じり、と胸の中で何かが焦げ付くような感触が、血管を通って身体中に広がっていく。オレは何だかイヤな気持ちになって、地面の先の、お気に入りのシューズのつま先を眺める。それはいつもの光景で、そして今日もまた、揃えた足先は前に踏み出せないまま。
おかりんの後輩の、新しく入ってきたマネージャーの名前。
素直で明るくて、たまにミスもあるけど、毎日誰よりも早く事務所に来るくらいとにかく一生懸命で。ふわりとした笑顔がすこし幼くて、誰に対しても優しく丁寧に接する。そんな彼女のことが、実を言うとオレはほんの少しだけ得意ではなかった。
「へえ。モモが誰かを苦手、ねぇ。そんなこともあるんだ」
ソファから有り余るほどの長い足を組んで、英語のリスニングを聞かされるペルシャ猫みたいな顔をしたユキはぱちりと目を瞬かせた。大切に磨かれてきた宝石のようなヘーゼルグレーの色は、その中で細かな光をいくつも放っている。
「う〜ん。別に苦手ってワケじゃないんだけど……なんて言うか、あの子がユキと話してるとこ見ると、すっごくモヤモヤすんの! オレ、ユキが取られるんじゃないかって心配なのかなぁ」
ついつい抱きしめたクッションに顔を埋める。くしゃりとお腹のあたりで折れたクッションは、オレが顔を上げるのを待ってから、元の形に戻るべくゆっくり背を伸ばし始めた。
「取られるってそんな。面白いね。僕はもう五年もモモとずっとRe:valeやってるのに」
くすりと笑ったユキがオレの髪のひと束を手に取る。「そうだけどさぁ」といじけてみせると、そのまま優しく髪を梳いた指先はユキの輪郭へと戻っていった。
「それにしても、モモが人のこと苦手っていうなんて本当に驚いた。それも名前にねえ。いい子だよ、彼女。それはモモだって知ってるでしょ」
「知ってるよ! でもなんて言うかさ、見てるとモヤモヤするっていうか……なんでか分かんないけど、ふたりが話してるの見てると変に焦ってくんだよね」
瞬間。ショーウィンドウが反射するみたいにして、ユキの瞳の中でつやりと光が流れた。そのまま唇をやわく緩ませてオレを流し見る。梅雨のときの紫陽花にも似た、視界の中でしずかに目を引くような美しい笑みだった。やっぱりユキは完璧で、いつまで経ってもオレの一番で。だからきっと、オレはただユキが必要以上に誰かを気に掛けるのが面白くないだけだ。
「モモが気に食わないのは、本当にあの子なのかな」
膝を台にして頬杖をついたユキの指先が、不規則なリズムで頬をタップする。どこか遠くを見るようにして、目をすがめて。
「……なにそれ。どういう意味?」
「僕が言ったら面白くないでしょ。それに、こういうのはモモ自身で気付かないと」
「だから何に!?」
答えを急いでみたけれど、ユキは素知らぬ顔をして、「何かに振り回されるモモも新鮮」と面白おかしく笑うだけだった。それ以上聞き出せる余地なんてせいぜい封筒ののりしろくらいにしかなさそうだ。悔しいけどユキの考えてることはちっとも分からなくて、ギブアップの代わりにう〜と唸りながらクッションにアゴをうずめる。
ユキに向けられた彼女の笑顔。少し紅潮した頬と、ゆっくりと和らいでいくまなじり。
再生と停止を繰り返すように、それがなぜだか頭に焼き付いて離れない。それからずっと、名前も知らない、線香花火くらいの小さな火種がじりじりと胸を焦がし続けていて。
一向に晴れない梅雨時の空みたいな気持ちを抱えながら、ため息と共に目をつむる。ああもう。瞼の裏にまで焼き付くの、やめてほしいんだけど!
これはオレの自論だけど、バラエティで大切なことは、やっぱりその場のノリを掴んで自分のモノにすること。
たとえ想像すらしてないようなボールが飛んできても、ライン際寸前のミッドフィルダーみたいに拾っていい方向にむかうようにパスをする。それが一番とは言わないけど、これはバラエティが得意なオレなりの考えで、だからオレは人との距離を掴むとか、こう来たらこう返せばハズレはないとか、そういうのが他人よりも上手なんだと思ってた。
「百さん! お疲れさまです」
「ゴメンゴメン! 待たせた?」
「いえ、全然です! これからのスケジュールの確認が今終わったので助かりました」
「それって待ってんじゃん! ほんっとゴメン。このとおり!」
今日は久しぶりの収録の日。ユキは午前からの撮影が少し押してるみたいで、オレは珍しく彼女と二人きりでスタジオに向かっていた。少し後ろで忙しなく動く狭い歩幅に気付いて、なるべく自然を装って歩くスピードを落とす。それだけで、どこか不安げに傾いていた眉毛がふわりとほころぶのをみて、胸の辺りが葉っぱで軽く撫でられたみたいにむずむずとしていた。
「今日はAスタジオで、Re:valeの楽屋は西の三番です。久しぶりの収録ですね。わたし、百さんが司会してるところ見るのいつも楽しみなんです」
「えーなに? そんな風に言われると、モモちゃん張り切っちゃう!」
「きっと百さんって、誰よりも周りのことが見えてるんだと思います。だからあんまり話せてない人に話題を振ったり、緊張してる人をほぐそうとしたり。そういう気遣いがすごくすてきだなぁって、いつも見てて思うんです」
「そ、そう? ……へへっ。頑張っちゃおっと」
「はい。今日も百さんのMC、楽しみに見学させてもらいますね。応援してます」
彼女の言葉にはいっそ清々しいくらい混じり気がなくて、そういう自然さとか、ひたむきさが好ましいと思う。だからオレも名前が来たばかりの頃は誰よりも可愛がっていたし、それなりに仲良くできていたはずだった。
なのに。
今、オレが彼女のことを苦手だと思う理由はふたつある。
ひとつは、ユキと話してるところを見ると胸のあたりがチクチクとすること。(つまりイコールしてユキが取られないか心配だから!)
もうひとつは、彼女の前だといつもみたいに上手く話せない気がすること。
『何かに振り回される』ってユキは言ったけど、確かに言い得て妙かもしれない。彼女といるとたまに自分の感情が上手くコントロールできなくなって、結局手の中でこねくり回したよく分からないものだけが落ちていく。それはお世辞にも上手とは言えなくて、それでも理由は分からないままで。得意だと思ってたものが、突然オレの中から消えてしまう。そういうのがきっと、オレは苦手だった。
「はい、休憩入ります! 次回セット15:45でお願いします!」
張り切ったディレクターの声を皮切りにして、各々が貼り付けた仮面をゆっくりと外していく。オレたちRe:valeは通しだけど、ここを挟んでから出演するメンバーの入れ替えもあるからか、スタジオの中はいつもより賑やかな色をしていた。
「名前ちゃん」
辺りはざわついているはずなのに、誰かが彼女の名前を呼ぶ声がいやにクリアに聞こえた。ボトルのキャップを回しながら、半ば無意識に背を向けて声に耳をそばだてる。
「朝長さん! あの、先日は本当にありがとうございました。結局ご馳走になってしまって、」
「別に、俺から誘ったんだし。忙しそうだったのにしつこく誘っちゃってごめん。来てくれて嬉しかった。……どう? この仕事も慣れてきた?」
「はい! おかげさまで、何とか」
どこか緊張したような、おずおずとした名前の声が耳に届いて、斜め上に傾けたペットボトルがぴたりと止まる。
──先日はありがとうございましたって、つまりは、ふたりでどこかに出掛けたってこと?
そう考えるだけで、さっきまでの撮影で昂っていたものが急に冷えていくのが分かった。そのまま冷たい水を流し込んで、手の甲で唇をぬぐう。
「まあまだこの世界の分からないことも沢山あるだろうしさ。それで、もしよかったら今日も夜食べに行かない? 美味しいイタリアンを見つけたんだよね」
「え? あ……今日は、その」
明らかに困ったような名前の声が、核心から逸れたままさまよう。大方、先輩だから断りたくても強く断れないんだろうな──なんて推測しながら、水を元の位置に戻して唇をやわく噛んだ。
「なに? もしかして予定あった?」
また、だ。
名前とユキが話しているのを見ると、影のようにしつこく付き纏ってくるモヤモヤとしたなにか。それがまた、雨が降る前の曇り空みたいに分厚くなってオレの心を覆いつくす。どうしてだろう。今名前が話してるのはユキじゃないし、だから、こんなことを思う理由もないはずなのに。
──モモが気に食わないのは、本当にあの子なのかな。
不意に頭をよぎったのは、いつか聞いた言葉で。
ねえユキ。何となくだけど、今やっと分かった気がする。オレが本当に気に食わないのは。オレの心がずっと晴れないでいるのは。
名前が、オレじゃない男の人と話してるからだ。
「名前! 今日の撮影のことなんだけどさ……ってゴメン! 話し中だった?」
振り向いたはずみで靡いた名前の髪がゆれる。見開かれた瞳は、ブリリアントカットされたダイヤモンドみたいに小さな光がいくつもちかちかとしていた。
「夜のスケジュールについて確認したかったんだけどさ。邪魔しちゃってゴメン!」
「わかりました! えっと、夜の……?」
「そっか、忙しいみたいだね。残念。また声掛けるよ」
トモナガサンが誰かは知らないけど、少なくとも察しのいい人で良かったと思う。高級車のワイパーみたく軽く手を振って、仕上げにウインクをひとつ落としてからその人はまた人混みの中に紛れていった。爽やかな去り際と大人びたオードトワレの香り。その匂いが霞んで消えるのを待ってから、ふうと一息つく。
「ごめん。困ってるように見えたからさ」
少しだけ声を潜めて、手帳を握りしめる名前に囁きかける。名前はまだ状況が掴めてないのか、「ごめんなさい。今夜って何か撮影ありましたっけ……?」とクイズ番組で自分だけ回答が違った時のような不安気な表情でページをめくっていた。
「ないよ? って名前、分かってて合わせたワケじゃなかったんだ!?」
「えっ。あ、そっか。そっかぁ……」
堪えきれずに笑いとばせば、胸の中に覆いかぶさっていた何かが晴れていくのが分かった。恥ずかしそうに手帳で口元をかくす名前に、かわいいだとか、愛おしさにも似た何かが込み上げる。それは今まで靄の中に隠れていて気付かなかっただけで、本当は最初からずっとここにあったもの。
「……百さん。もしかして、たすけてくれたんですか?」
顔を真っ赤にしてこっちを見あげる名前に、胸がどくどくと駆け足で走り出す。ねえ。待ってよ。これって。