ジェミニの残像



「先生!」
「先日の新刊の売上も上々でした。さすがは夢野幻太郎先生ですね」
「げんたろー!」
「ボクと一緒にチーム組もうよ! この世界を面白くしよう!」
「おーい、幻太郎!」
「誰でも一つや二つ、触れられたくねーもんあるだろうが!」
「幻太郎」
「幻太郎」



「夢野くん」

 はっとして顔を持ち上げる。その一秒にも満たない間に脳は彼女だと認識し、すっかりと馴染んだ仮面を、それでも外さないようにと笑みを貼り付けた。

「やあ、こんにちは。奇遇ですね」

 眉目も言動も服装も、その何もかもが完璧な夢野幻太郎≠ナあるのに、彼女だけは頑なに彼のことを『幻太郎』とは呼ばなかった。それこそが、彼女が彼を幻太郎として認識していない証左だった。どうしてだろうか。消し去られた弟のことなど、もう忘れてしまえばいいのに。

 彼らが偶然にして出会ったのは昔から馴染みのある喫茶店だった。昔は三人で、少しの贅沢をするような気分でここに来ていた。頼むのはいつも同じもので、珈琲とレモネード、それから少し固めのプリン。もう、意味を持たない記憶だ。
 あれから三度目の夏が来た。兄の治療費のため、そしてすべての過去を消し去るために以前住んでいた家は引き払ってしまったので、昔のようにして彼女と過ごすことはほとんど無くなってしまった。それでもどうしても手放せなかった離れの四畳半には、もうずっと近づいていない。

 彼女は向かいのソファに掛けて、アイスコーヒーをひとつ注文した。「プリンはよろしいのですか」自然に出てきた言葉に驚いた。彼女は少し眉を下げて、「いいの」と唇を持ちあげた。その瞳だけが、泣きそうに見えた。

「素敵なお友達ができたみたいだね」

 届けられたアイスコーヒーを、彼女はストローでくるりとかき回した。カラン、と四角い氷がグラスにぶつかる音がする。「元気そうで、よかった」

「友人──ああ、乱数と帝統のことですか。そうですね。毎日それなりに騒がしく過ごしています」
「そっか」白いストローの中をコーヒーがあがって、それからまた落ちていく。それは彼女の視線の動きと一緒だった。落ちた視線は、幻太郎の手元を見ていた。

「夢野くんも、もう、レモネードは頼まないんだね」

 ぽつり。雨のような声が聞こえた。その雨が、幻太郎の前に置かれた珈琲の波紋を揺らす。赤い唇がしずかに揺れていた。

「それ、いつも幻太郎が頼んでたやつだよね……」

 言葉は平静を保てずに、砂のように崩れていく。その声に、涙の気配がした。

「おねがい。夢野くん。消えようとなんてしないで。どこにもいかないで……」

 くしゃりと彼女の顔がくずれて、潤んだ瞳からぽつりと涙がこぼれおちた。目を見開く。どうして。ずっと、彼女には幻太郎ひとりいればいいと思っていた。なのに、彼女だけがまだ、いつかの残像に縛られている。

「──どうしてですか。『夢野幻太郎』は、ここにいるのに」

 彼の言葉に、彼女はいっそうに目をゆがめて、席から立ち上がり彼の前から走り去った。残ったのは、いつかの懐かしい香りだけ。その一瞬が消え去ったあと、何も出来ないまま彼は視線を落とした。
 あの日の自分の選択。それが正しいことであると思っていた。信じていた。それなのに。

「──兄さん」

 教えてくれ。俺は、どうしたらいい。
 片手で顔を覆う。アイスコーヒーの縦に長いグラスから、伝ったしずくがぽたりと落ちるのを見ていた。



If you press me to say why I loved him, I can say no more than because he was he, and I was I.
 ──なぜ彼を愛したのかと問い詰められたら、「それは彼が彼であったから、私が私であったから」と答えるほかないのです。



 それは彼ら≠ェ消えてしまう、少し前のこと。

「あなた、あの子のことが好きでしょう」

 何気なく発せられた言葉に、文字を追いかけていた視線を慌てて持ち上げる。脈絡の無い言葉だった。言葉のあるじは、自らの余裕を表すようにして頬杖をついてペンを指で持て余している。二人きりの四畳半。そこに今更何を隠しても、彼はきっと見つけてしまうのだろう。

「……もう。幻太郎って何でも分かっちゃうんだね」

 読んでいた途中の彼の本をそっと持ち上げてまごついた口元を覆う。幻太郎はくつくつと笑って、「視線は何よりも雄弁ですから」と目をやわめた。

「喜んでいるんですよ。兄として、弟のことを大切に思ってくれる人がいるというのは何よりも嬉しいことです。それがあなたであれば尚更」
「そう? うーん、そう、かな……」

 煮え切らない返事でごまかす。幼なじみである彼にずっと心の中を見透かされていたというのは、どうにも照れくさくて少しこそばゆかった。それに、彼はどうして今になってこんなことを言ったのだろう。ずっと気付いていたのなら、そのまま暗黙の了解みたいにしてくれたらよかったのに。

「あの子のこと、ずっと見ててあげてくださいね。特にあの子は、自分のことを軽視しているきらいがあります。そんな時は、お前はお前だって何度でも言ってやってください。──俺の分まで」
「──幻太郎? なに、急に……」
「いえ、何でも。さて、あなたがどうしてあの子を好きになったのか、その馴れ初めでも聞きましょうかねぇ」
「いーや。もう! これ以上揶揄うなら私帰るからね」
「帰らないでおくんなまし〜。麿はそなたともう少しお話したいでおじゃる〜」

 半目になって彼を見ると、彼はまたくすくすと笑って、何事も無かったかのように原稿用紙にペンを滑らせた。わざと大きくため息をついて、目を閉じる。窓から入り込んだ陽射しが太ももを照らす暖かさ。彼が文字を刻む音。切り取られた箱庭のような世界のなか。それが、何よりも好きだった。

 そしてその数日後。彼らは姿を消して、残されたのは幻太郎を演じる彼の姿だけだった。
 あの日。私は大切なものを、ふたつも失ってしまったのだ。



 喫茶店を飛び出たその足であてどなく街を歩く。本当は今すぐにでも蹲ってしまいたくて、それでもあの日の幻太郎の願いだけが、彼女の足を動かしていた。

 ──ねえ幻太郎。私じゃもう、何も出来ないみたい。

 このままだと、本当に彼≠ヘ世界から自分を消してしまう。それでも彼を止める術はなかった。幻太郎が戻ってくるまで、彼は自分を夢野幻太郎だと騙り続けるのだろう。それでも、もう私に出来ることなんて──

「ねぇねぇオネーサン。ちょっといい?」

 前に立ち塞がるような軽薄な声に顔を持ち上げた。頭に被った水色のフードからちらつく、どこか人工的なピンク色が眩しい。
 彼のことは知っている。飴村乱数。このシブヤの街を代表する存在だ。知っているはずなのに、からだがこわばる。彼の水色の瞳は、こんなにも冷たい温度をしていただろうか。
 何もかもがそっくりなのに、何かが絶対的に違う。それは奇しくも、いつも彼に対して感じていることと同じだった。

「オネーサンってさ、夢野幻太郎の幼なじみなんだよね?」

 前に屈んで、飴村乱数はポケットの中からマイクを取り出した。思わず一歩後ずさる。

「夢野幻太郎って、チョォーっとだけ、ボクたちにとっテ厄介なんだよね。だって、ボクたちのだァいじなヒミツを知ってルんだもん」

 這い寄るような違和感。生気の感じられない瞳。まるで、壊れたあやつり人形と対峙している気分だった。

「それで、オネーサンに聞きたいンだけド」マイクが彼女に向けられる。まるで狙いを定めているようだった。飴を噛み砕いて、その口がにやりとひきつり上がる。

「オネーサンのこと、洗脳して中王区に入らせたら、夢野幻太郎にとってオモシロイと思う?」

 そこで初めて、彼女は何かに気が付いたようにして目を見開いた。

 ──ああ。もしかしたら、幻太郎はきっとこんな風にして。

 また一歩、逃げようとする足をなんとか止めた。目を伏せて、呼吸を整える。それから、真っ直ぐに前を見据えた。

「──思わないよ。私は、夢野くんにとってそんなに大きな存在じゃないから」

 その大きな目をぱちりとさせて、「ふぅん?」と飴村乱数は首を傾げた。問いかけに意味はなかったのか、若しくはさして興味もなかったのか、気にする素振りもせずに続ける。

「ま、いいや。それじゃっ。ボクはここで消えちゃうケド、またボクと会ったら今度は一緒に遊ぼうね。オネーサン」

 その言葉を最後に、向けられていた彼のマイクが起動される。頭の中を無理やり揺さぶられるような感覚の後、世界は真っ暗になって、そして何も見えなくなった。



 声が聞こえる。
 懐かしい声だった。そして、それは自分が失ってしまったものでもあった。目を閉じているのは心地が良くて、その中はつらい現実なんかよりもずっと優しくて、永遠にここにいたいような気持ちになる。
 頭にそっと手が置かれた。手のひらが彼女の髪の上を優しくすべる。愛おしさを携えた指が毛先まで梳かして、それを何度も繰り返す。
 ああ、この手は──。


 薄らと開かれた瞼に息を飲む。彼はまた振り絞るようにして彼女の名前を呼んで、細い肩を掴んだ。

「……ゆ、めの、くん?」

 朧気に動いた彼女の唇に、喉の奥がぐっと詰まる。そこから堰を切ったようにあふれだした感情に動かされて、上半身を起こしただけの彼女の身体を抱きしめた。

「良かった……っ。このまま、あなたまで目を覚まさなかったら、……っ」
「ゆめのくん? あれ、私、なにが……」
「乱数から聞きました。あなたを陥れようとしたのは真性ヒプノシスマイクの力です。使用者である彼のクローンが不完全だったため、本来の効果が出力されなかったようですが……良かった……あなたまで失ってしまったら、俺は──」

 回した腕の力が強くなる。このまま彼女までいなくなってしまったら。彼女が目を覚ますまでの間、そんな悪夢のような想像を何度も繰り返していた。何度も握りしめた手のひらに、爪の跡が残っている。

「ゆめの、くん」

 彼女は震える彼の背中に腕を回した。それが彼自身であることを確かめるように。「よかった。……夢野くんだ……」

 じわりと涙に滲んだ瞼を彼の胸にすり寄せる。あの日、幻太郎と一緒に消えてしまった彼がここにいる。震えるこころとその感情が、彼女の唇を揺り動かした。

「夢野くん。……私、ずっと夢野くんのことが好きだったの。今も、ずっと。だから、もうどこにも行かないで……」

 彼は目を見開いた。息が詰まる。自分で心に敷いたしがらみが、しずかに解けていくのを感じていた。
 自分は兄よりも劣っていて、だから彼女もきっと兄のことが好きなのだと決めつけて、彼女の涙も見ないふりをした。

 ──覚えておいて。他の誰でもない、お前を大切にする人がいるってことを。

 ああ、兄さん。あの日の兄さんの言葉は、そういう意味だったんだね。

 彼女の涙に濡れた瞳を見つめて、それから二人、引き寄せられるようにキスをした。今まで伝えられなかった思いを深く注ぎ込むようにして、何度も。
 手を添えた頬が、やさしく緩む。彼女はその手のひらの上にそっと自分の手を重ね合わせて、

「   」

 名前で呼ばれたのは、初めてだった。




It is not in the stars to hold our destiny, but in ourselves.
 ─運命は星が決めるのでは無い。我々の思いが決めるのだ。
 
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