Xの追憶



『小生、実は夢野幻太郎≠カゃないんですよ』



 四畳半ほどの部屋には、部屋を囲まんばかりの書架と陽のよく当たる机があった。その傍らに佇んだ背の高いポールハンガーが外套とカンカン帽を引っ掛けている。近頃は少し汗ばむようになった気温の中で、冷房の代わりに、二メートルほどの低い天井からシーリングファンが生ぬるい風を吹かせていた。
 陽射しの中で薄埃が宙を舞う。小さな部屋は静寂に満ちて、それでも耳をすませば、誰かの存在を確かに伝えていた。
 風になびいて、幾重にも積まれた原稿用紙が擦れ合う音。カツカツと万年筆が文字を刻む音。床に置かれたちゃぶ台の上で、カランと麦茶の氷が溶ける音。それから、そこに伏せた彼女のしずかな寝息。

「兄さん」

 声につられて、万年筆の音が止まった。ややおいて、長い指がシィ──と唇に添えられる。
「やあ」ふたつの視線は、ひととき優しく彼女にそそがれた。彼の訪問にも気付かずに眠り続ける彼女のその傍らで、作家・夢野幻太郎の本のカバーが光を反射している。
 机から一枚の原稿が風になびいて、はらりとその足元に落ちた。少しだけ独特な文字が、彼の名を末尾に記している。
 今や老若男女問わずの人気を誇るその著者──夢野幻太郎は、少し目を細めて、どこか女性的な柔和な笑みを見せた。

「おかえり、──」



Xの追憶 ─ 二人の夢野幻太郎




「ねーねーそこのオニーサン、ボクとデートしない?」

 午後二時、シブヤ。
 声の元に振り返れば、想像通りのピンク色が少し身体を前に屈ませて笑っていた。ペンキを刷毛で塗ったように鮮やかな髪の色は、雑多なこの街でもそうはいない。

「おや、どうしたものでしょう。あいにく小生はナンパや勧誘には乗らない主義でして」
「えー。ザンネン。ならデートはやめて、幻太郎のストーカーでもしちゃおっ」

 跳ねるような足取りで、鼻歌交じりに乱数は幻太郎の隣に並ぶ。なるほど自然だ、と幻太郎は心の中で思った。

 先日、幻太郎はとある一件により彼のひみつを知った。乱数が中王区の手によって造られたクローンであること。彼の本当の姿は、このような軽薄な物言いをするような男ではないということ。何もかもを知ってしまった後だというのに、それでも乱数が頑なにその姿≠演じ続けるのは、彼が飴村乱数というキャラクターを保ち続けたいからなのだろう。自分が、自分だという証明を。
 証明。
 自分という像を作り上げるのは結局のところ他人である。振る舞い、台詞、思考。それが自分のアイデンティティだと、レッテルを貼るのは自分ではなく他人の手だ。たとえそれが、作り上げられた虚像であったとしても。

「幻太郎はこれからどこ行くのっ?」
「さあてどこへ向かいましょうか。せっかくの昼下がりですからねぇ。いんすたとやらで流行りのカフェに行ってパフェの写真でも上げましょうか。もしくは、どこぞのギャンブラーのようにパチンコで身銭をすり減らすのもまた一興」
「あっはっは。オッモシロ〜イ! そしたらボクのアカウントでたっくさん拡散してあげるね!」
「ええ。まあ、嘘ですけど」

 のらりくらりの、嘘つきな小説家。
 それが彼が選んだ自分のアイデンティティだった。この街の、誰も彼もがそれが夢野幻太郎であると信じきっている。

「そういえばさっ。この前ボクたちで、もっと仲良くなるためにそれぞれのヒミツを共有しあおうって話したじゃん?」
「ええ」
「あのとき幻太郎が言ったことって、結局どーいう意味だったの?」

 愉快げな声をひいたまま、二つの瞳が彼を見上げた。口にくわえられた飴が、ガリ、と音を立てる。


『小生、実は夢野幻太郎≠カゃないんですよ』


「──意味なんてありませんよ。ええ、何も」

 額に手のひらをかざして、幻太郎はやおら空を見上げた。眩しい午後の陽射しが、シブヤの街と彼らを照らしている。




 What do you meaning for? Life is desire, not meaning.
 ──何のために意味なんて求めるんだ? 人生は願望だ、意味じゃない。




 Xという男、そして彼女の話をしようと思う。
 Xは若い男だった。性格はどちらかといえば明るい方ではなく、二つをゲージにして表すのなら消極的という言葉に針が偏っている。陽の下で体を動かすことよりも、静かに本を読むことを好むようなキャラクターだ。

 Xには双子の兄がいた。兄の名を夢野幻太郎という。
 兄──幻太郎は若くして小説家となり、あの四畳半の小さな部屋で作品を生み出し続けた。何事も形からといって書生のような服を身につけては、不自由を楽しむかのように涼しい顔をしてさらさらとペンを走らせる。昔から貧乏な暮らしの元で育った二人の家には捨てられそうになっていたところを譲り受けた古本が多く、活字は彼らにとって最も身近な存在だった。

 Xは兄のことを心から尊敬し、愛していた。その眉目も、重ね合わせた手のひらの大きさでさえも寸分の狂いもなくぴったりなことが、嬉しく思えるほどに。
 そんな彼らには共通の存在がいた。それが、彼女≠セ。
 元よりお互い以外のつながりが希薄な二人にとって、古くからの知り合いである彼女は唯一の存在だった。Xは彼女のことが好きだったが、兄もまた彼女を好いていることを彼は知っていた。問うたこともなければ、兄も何も言わなかったが、そのまなざしは何よりも雄弁だった。
 彼女はよく兄の作業場に訪れては、二人は同じ時間を過ごしていた。だからこそ、彼女もまた兄のことが好きなのだろうと彼は思っていた。
 ならば自分が身を引けばいい。そう考えるのに疑問は浮かばなかった。愛する兄と彼女が幸せでいることが自分の幸福であると何も疑わなかった。

 誰よりも兄を信頼している彼が、それでも兄にひみつにしていることがある。一つは、自分も彼女を好きなこと。それからもう一つは、彼もまたかつてから趣味で小説を書いているということ。もしかしたら聡明な兄はそのどちらにも気付いているのかもしれないけれど、とにかく彼はそれを自分から話したりはしなかった。それが兄に対する負い目なのかは分からない。それでも、自分が日の目を浴びずとも、夢野幻太郎≠ェいればそれでいいと、彼は心のどこかで思っていた。



 夏の足音。初夏の某日。夜の散歩がてらに彼女を近くまで送り届けたあと。

「長い調査になりそうだ」

 ため息のあと、幻太郎は椅子の背に首を預けて天をあおぎ、眉間に皺を寄せた。机には乱雑な文字で書かれた用紙が場を埋め尽くすようにしてひしめきあっている。Xは珈琲を二人分マグカップにドリップすると、そのうちの一つをそっとテーブルに置いた。軽く壁に身体を預けて、指先で瞼を揉む兄を見やる。

「兄さん。──言の葉党のこと、俺はまだ反対だけど」
「困りましたねぇ。お前が分かってくれないと、小生は一人ぼっちになってしまう」
「それでも」言葉は前のめりになって口から飛び出す。「これ以上は危険だ。兄さん。分かっているだろ」
「うーん。やっぱりお前の淹れた珈琲が一番美味しいね」
「兄さん! はぐらかすのはやめてくれ」

 ここ一年で、みるみるうちに力をつけてきた存在がある。言の葉党。所属するすべての人員が女性から成る政党。あまりの急成長ぶりに、反社会、もしくは非道徳的なことに手を掛けているのではないか──というのが一部の人間の見方だ。
 その隠されたストーリーが一人の男の心に火をつけた。作家にとって、知的探究心ほど制御不可で罪深いものはない。まるでアダムとイブにおける林檎だ。罪の果実に手を伸ばすことは甘美で、恐ろしい。
 その果実を齧るまで、滴り落ちる果汁を舌でなめずるまで、兄は止まらないつもりだろうか。
 えも言われぬような不安が、墨を垂らしたようにXの胸を敷いていた。

「そういえば、先日面白い男を見つけました」

 そんな彼の感情も他所に、幻太郎の指がくるりと万年筆を回す。頬杖をついて、どこか楽しそうに遠くを見つめた。

「今昔一雨という男で、探偵をしています。きっとお前の力にもなってくれるだろうから、今度紹介させてください」

 こんじゃくいちう。声には出さず繰り返す。ふざけた名前だと思った。きっとまともな人間ではない。兄はまた、自ら危険へと足を突っ込むつもりなのだろう。
 何も言わない彼に、幻太郎はくすりと笑んで手招きをした。ややおいて、不本意ながらも兄の掛ける椅子の傍らに立った彼の頭に手を伸ばして、優しく撫で付ける。

「そんな顔をしないで。俺は、大丈夫さ」

 喉元まで出かかった言葉は、後を引く珈琲の苦味と綯い交ぜになって喉の奥へと落ちた。自分と同じ色をした瞳の中に、ちっぽけな自分が映っている。



「こんにちは、夢野くん。今日もほんと暑いね」

 明くる日の昼下がり。家まで訪れた彼女を迎え入れながら、Xは少し罰の悪い気持ちでいた。
 今日、兄は取材のためにここにはいない。自分だけしかいないことに彼女はガッカリするだろうか──なんて想像は杞憂だったようで、彼女は兄の不在にも「あ、そうなんだ」とあっけらかんに笑って、手に持ったビニール袋の中から「はい、どうぞ」とアイスを差し出した。

「幻太郎の分は冷やしておくね。冷凍庫、あけちゃいます」

 思えば、彼女と二人きりになるのは久しぶりのことだった。和室の居間で二人、アイスを食べながら、今日一日にあったとりとめもないことを話す。話の種はいつも彼女が持っていて、それが彼女の口から楽しげに咲いていくのを見るのが好きだった。
 ひと通り話し終えた後、彼女はふと、「そう言えば」と思い出したかのように口を開いた。

「夢野くんはお話を書いたりはしないの?」

 言葉が詰まる。それこそが答えだった。「やっぱり」取り繕う間もなく、畳を滑るようにして彼女が嬉しそうに彼に近寄る。ずっと近くになった距離に、自分とは違うシャンプーの甘い香りがふわりと鼻を掠めた。不意をつかれて、テンポを踏み外したように鼓動が歪に高鳴る。

「ずっと、そうだったらいいなと思ってたの。幻太郎もそうだけど、夢野くんも普段からすごく綺麗な言葉をつかうから」

 よかったら、読んでみたいな──。
 さして豊かではない彼の表情が、困惑に変わる。あえて兄のいないところで話を持ちかけた彼女は、もしかして己の中のすべてを見透かしているのだろうか。彼は少しの間逡巡したのち、降参するかのようにやおら立ち上がった。

「別に、兄さんのものほど面白くはありませんが……」
「そんなことないよ。それに幻太郎は幻太郎で、夢野くんは夢野くんだから」

 背中に向かって掛けられた、事も無げな声に思わず息を飲んだ。──違う。必要とされているのは、俺じゃなくて夢野幻太郎≠スだ一人だけだ。
 それなのに。
 原稿用紙の束を渡した先の彼女があまりにも嬉しそうにして笑うから、どうにも不思議な気持ちだった。壁にもたれるようにして再び腰掛けたその隣、肩が触れ合うほどの距離で彼女が表紙の一枚を撫でる。動くにも動けずに、自分も何か持ってくるべきだったと彼はしずかに宙を眺めた。

「もしかして、私が夢野くんの小説読むの一番乗り?」
 はにかんで、隣から彼女が覗き込む。髪の一束がつられて揺れた。
「そうですね」
「そっか。嬉しいな。ありがとう、夢野くん」

 それが何に対してのお礼なのか、彼には分からなかった。期待はしないでくださいね、と心の中で呟いたが、すぐにはらりと原稿用紙がめくられる音がして、行き場もなく口を閉ざす。何度も見た彼女の横顔。整った鼻筋のかたち。少しの気恥しさと嬉しさ。ああ、兄はいつもこんな気持ちで彼女を見ていたのか、と独りごちる。
 やがてしずかになった彼女の隣で、風に揺れて形を変える庭先の木漏れ日の影をぼんやりと眺めた。目を閉じると、さやさやと葉が擦れ合う音がした。それから、彼女のかすかな呼吸の音が。
 夏が来る。




Everything you can imagine is real.
 ──想像できることはすべて現実である。




 一週間ほど行方をくらましていた兄は、帰ってくるなり文字通り机に齧り付くようにして筆を取った。それが一晩・二晩と繰り返され、三日目の朝。東の空が青く色づいて来た頃に幻太郎はようやく四畳半の部屋から姿を見せた。手には二センチほどの分厚さの原稿用紙の束が握られている。
 ろくな食事も摂ってないであろう彼のために、白湯と一口大にカットした林檎を差し出す。幻太郎は久しぶりに見る弟の姿にいくつか世辞を述べると、白湯をひと息に飲み込んだ。徹夜には慣れているからか、あるいはまだ興奮が収まりきらぬのか、それからも幻太郎は流暢に言葉を紡いだ。

「ようやく奴らの尻尾を掴みました。贈収賄に談合、偽造に横領。数え切れないほどの悪事に、生命倫理学も真っ青の人体実験──これがその告発原稿だ」

 ばさり、とXの前に原稿が置かれる。「人体実験」と彼は意図せず復唱した。

「奴らの金の流れを見ていると、どうも桁違いに金が動いているところがありました。その動きを辿るに、どうやら既存の武器に変わる新たな武器に多額の出資をしているようだ。『ヒプノシスマイク』と呼称されていましたが、どうやらそれは従来のように身体的な傷を与えるものではなく、人の精神に干渉して攻撃、あるいは洗脳を行うことができるもののようです。その効能の精度や使用したことによるリターンは、今もなお人を使って実験、実証されている」

 これによって、間違いなく戦争は変わる。
 幻太郎はそっと目をすがめた。鋭くなったそれに、ぎらつくような光が灯っている。

「洗脳──。武器一つで相手を自分の意のままに操ることが出来るなんて、人の道から外れているとは思わないか。しかし、そこまでの効果を出すには使用者へのリターンも大きく、多くは自我を保てずに生命活動が難しくなってしまうケースばかりだった。奴らは、これをどうするつもりか──」

 白い指がテーブルの上の林檎に伸びる。奇しくもそれは、禁断の知恵の果実──決して手に取ってはならぬと神が囁いたものだった。幻太郎はそれを手に取って、しゃく、と齧る。その腕にじりじりと蛇が巻き付いているような、嫌な幻覚を見た気がした。

「   」

 不意に名前を呼ばれて、跳ねるようにして頭を持ち上げる。朝のしずかの中、見つめた兄のまなざしはもうすっかりと優しいものに変わっていた。

「お前は思慮深くて、誰よりも賢く優しい子です。きっと小生なんかよりもずっと上手く生きていける。だから、もっと自分に自信を持って」
「兄さん? 何を突然……」
「理由なんてないさ。ただ覚えておいて。他の誰でもない、お前を大切にする人がいるってことを」

 朝の陽射しに照らされた兄はひどく優しい顔をしていた。困惑と、忍び寄る焦燥感にも似た何かが目まぐるしく立ち位置を変える。

 ──幻太郎は幻太郎で、夢野くんは夢野くんだから。

 どうしてか、いつかの彼女の声が記憶の中で揺り動かされた。いつまで経っても誰かの影でいようとする自分を、明るいところへ引きずり出すかのように。
「さて」何も言えないままの彼に気にする素振りも見せず、幻太郎は椅子から立ち上がった。それからぞんざいに髪をかきあげて、鏡写しのようによく似た横顔を覗かせて笑った。「流石に疲れました。風呂でも頂戴して、それから一眠りするとします。おやすみ」



 非通知からの着信に、少し逡巡してから画面を押す。訝しげに耳に押し当てると、聞き馴染みのない声がスピーカーの奥で震えた。

「もしもし。先生の弟さんか」
「貴方は──今昔一雨? どうして俺の番号を」
「おいおい、探偵に野暮なことを聞かないでくれよ。それよりもアンタ、今すぐS病院に来た方がいい。四階の西棟だ」
「なにを」

 余程急いでいるのか、一雨は以前兄と交えて会った時よりもやや早口にまくし立てると、Xの言葉も待たずして電話を切った。「クソッ」身支度もそこそこに家を出て、駆け込むようにしてタクシーを呼び止める。
 あんなペテン師の言うことなど信じる義理はない。それでも今は、第六感とも呼べる何かが嫌に胸をざわつかせていた。兄は、朝に出かけてから姿を見ていない。

 彼の言う通りにして四階の西棟へ向かうと、ナースステーションにいた看護婦は目を見開いて、声をかけるよりも先に彼を呼び止めた。「あなた、ご親族の方でしょう。困っていたの。彼、身分証明書も携帯も何も持ってなかったから──」

 嫌な予感が、鋭い針の先になって彼の胸を突き刺した。なりふり構わず、連れられた先の個室の扉を開ける。

 白いベッドの上に兄がいた。口元に酸素の吸引器をつけられたまま、目を閉じている。
「兄さん」返事はない。彼の着ていた書生服が、壁のハンガーに掛けられている。「兄さん」返事はない。繋がれた先で、心電図の機械がただ無機質な音を刻んでいる。「兄さん」身分を証明するものをあえて持たなかったのは、こうなる危険性を理解していたからじゃないのか。「兄さん」「兄さん」「兄さん!」

「昼過ぎに、路地で倒れているところを発見されたの。外傷もなければ心電図の異常もないのに、ただ目だけが覚めなくて。今は、脳波の検査の結果を待っています」

 ナースの言葉に、Xはハッと息を飲んだ。精神だけに左右する武器。その存在を、彼は知っていた。
 言の葉党。ヒプノシスマイク。非道徳的な精神干渉。その隠された秘密を暴こうとしていた兄。
 すべてのピースが繋がって、震える自身の手を握りしめた。爪の先が肉にくい込む。震えの正体は怒りであり、憎しみだった。すべては兄をこんな風にした奴らへの、殺してやりたいほどの、憎悪。

「でもよかった。これで患者さんのことが分かるわ。まずはあなたの名前と、彼との関係を教えて貰えるかしら」

「俺は」言いかけた口を閉ざして、目を伏せる。それから、凛とした兄の声を思い出した。

 きっと兄さんはもう目を覚まさない。そう言ったのは他でもない彼自身だ。兄さんが命を懸けてたどり着いた未知なる武器。知らなくては。戦わなくては。自分はもう蚊帳の外ではない。兄に守られて生きてきた今までの自分じゃいられない。そして兄さんをこんな目にあわせた奴らを、ぶっ壊してやる。
 俺の手で、必ず。
 彼は再び目を開いた。どこかで、何か大切なものがこぼれおちていく。

「──小生の名前は夢野幻太郎。そしてここにいるのは、小生の双子の兄弟です」



 病院のエントランスを出た彼を、拒むようにして夕陽が刺した。逆光。さして構わず幻太郎≠ヘ歩みを進める。生まれて初めて着た兄の服は、まるで初めから自分のものであったかのようにしっくりと馴染んだ。
 この服に袖を通した瞬間、今までの自分はいなくなって、夢野幻太郎≠ェ出来上がる。
 これでいい。
 初めから、これでよかったんだ。
 今までだってずっと思っていたことだった。この世界には、夢野幻太郎一人いれば十分だ。日陰者の双子の片割れがいなくなったところで、どうせ誰も気付きはしない。

 自分が自分たるまでの間、最後に思い出したのは彼女のことだった。事も無げに掛けられたあの時の言葉。庭先に吹いた初夏の風と、紙とインクの匂い。それから少しだけ触れ合った肩の温もりを。

「──幻太郎?」

 声がした。足を止める。カンカン帽を目深に被り直して、前を見た。

「……あ、れ……? どうして。夢野くん? 夢野くん、でしょう。ねえ……」

 やはり、彼女だけは欺けない。その事実がどうしようもなく胸に突き刺さる。不思議な気持ちだった。今更それを、嬉しく思うなど。

「電話が来たの。すぐに切れちゃってよく分からなかったけど、ここに来たら分かるって……。ねぇ、何があったの? 幻太郎はどうしたの? 夢野くん、どうして幻太郎の真似なんてしてるの」

 彼女の声が震えている。開かれた手のひらが、ゆっくりと閉じられて、強く握られるのを見ていた。

「大丈夫──あなたの好きな『夢野幻太郎』は、俺が守ります」

 すれ違うまでの間際、硝子のような彼女の瞳が、大きく見開かれるのを見た。薄く張った涙の膜がゆらゆらと揺れて、でもその先はもう分からない。背中から泣き叫ぶような彼女の嗚咽が聞こえた。それは遠くなって、やがて見えなくなって。

 一人きりの家に帰る。いつも兄さんがしていたように、涼しい顔をして帽子をポールハンガーに掛けた。
 四畳半の部屋。机の上に散らばったいくつかの原稿用紙を見て、衝動のままに床に投げ捨てた。「あああああ!!」堰を切ったように、獣のような叫びを上げる。拳で何度も机を叩いて、そこに顔を伏せた。
 どれくらいの間、そうしていただろうか。
 ふらりとリビングに戻ると、そういえば、いつか彼女が幻太郎へと残したアイスのことを伝え忘れていたのを思い出した。冷凍庫を開けて、包み紙を破る。口につけて、ぼんやりと暮れなずむ空を眺めた。

 記憶の中で、名前を呼ぶ声がする。あの日、何かを悟っていたかのようないつかの兄の言葉は、心の奥底に閉じ込めて見ないふりをした。
 
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