午後の消失点



 『先日の食事のお礼がしたいのですが』──そんな夢野さんからのメッセージを眺めて、どうするべきか、画面に乗せた親指を持て余していた。
 結局土曜日の夜に帰ってきた夫は、ゴルフのせいか少しだけ日に焼けていて、疲れたからと言って翌日は一日中家で寝ていた。夫は基本的には土日がお休みだから、私も週末はずっと家にいるようにしている。だから、夫がいる時に夢野さんから連絡がくると、必要以上にそわそわしてしまうのだ。
 お礼だなんて、気にしなくていいのに律儀な人だ。それでも、彼から連絡が届くことが嬉しくて、絵文字もないたった数行の文章がどうしようもなく愛おしかった。悩んでから、結局、月曜日になって夫が出社するのを見送ってからメッセージを返した。今日は私も仕事の日だ。


 作品ごとの売上の集計データを打ち込んでいると、デスクの上に伏せたスマホが震えた。また一瞬心臓がどくりとして、慌ててそれを手に取る。夢野さん、だ。

『今日は空いていますか?』

 少しの時間のあと、何度も文字を打っては消して、結局『仕事が終わってから少しなら』と返した。息をついて、携帯をまたデスクに伏せる。あの日の彼の目が、まだ焼き付いて離れない。


「──ええ。それでは頼みましたよ、一雨」

 インターホンを鳴らしてから扉を開けると、夢野さんはどうやら誰かと電話をしているようだった。タイミングが悪かったかしら──と少し申し訳なく思いながら中を伺うと、彼は「では」と直ぐに電話を切って、私を見て柔らかく微笑んだ。

「ごめんなさい。電話、大丈夫だった?」
「ええ。さして取り留めもない野暮用です。さて、貴方もお仕事お疲れ様でした。どうぞあがってください」

 中へと促されて、少し胸がぐらつく。この前のことがまだ思い出にもなり得ないまま、私はまたここに来てしまった。あまり音を立てないようにして扉を閉めると、彼はそっと私の手を引いた。ああ。また、振り解けない。

「会いたかった」

 リビングに入ってすぐに、向かい合って抱きしめられる。突然のことに、手に持った小さなハンドバッグがどさりと落ちた。少し身体が離れて、また上からキスが降りてくる。夢野さんは意外と身長が高くて、受け止めるために後ろに傾いた後頭部を彼の手が支えた。甘くて、怖い。キスだけで、頭の中がくらくらする。その熱が、私の中に残った小さな理性を溶かしていく。

「今日はあまり時間がないんでしたね」

 離れた唇が紡ぐ声はいつもよりずっと低くて、どくりと鼓動が跳ねた。

「夕方には、帰らないと……」
「ええ。分かっています。今日はどうしてもこれをお渡ししたくて。つまらないものですが、先日のお礼です」

 彼の指がテーブルに置いてあったショップバックを引っ掛ける。見覚えのある化粧ブランドの、サマーコフレの包みが顔を覗かせていた。

「え? やだ、すごく嬉しい……こんなに素敵なもの、いいの?」
「ええ。色々悩んだのですが、化粧品であれば貰い物であろうとご主人にもそうは分からないかと思ったので。善し悪しは分かりませんが、色味はきっと貴方に合うと思います」

 開けてみてくださいと促されて、ソファに座ってから丁寧に結ばれたリボンを解く。中に入っていたのは、夏らしく少し透け感のあるコンパクトミラーとリップだった。可愛らしいピンクの色に、嬉しくて思わず口を手で覆う。

「かわいい……私、このブランド大好きなの。ありがとう、夢野さん」
「喜んでいただけたようで何より。よかったら、付けてみてくれませんか」

 誰かに見られながら口紅を塗るのって、どうして緊張するのかしら。少し震える手でそれを唇に乗せると、魔法みたいに唇があざやかに色づいた。少し大人っぽさもあって、でもみずみずしい果実みたいにフレッシュで可愛い色。嬉しくて、ずっと見ていたくなるくらいだ。
 手鏡から「似合ってる?」と視線を向けた先の彼があまりにも愛おしそうな目をするから、胸が一つ高い音を立てる。

「ええ、とても似合ってます。可愛い」

 夢野さんはいつも私をときめかせるのが上手だ。歳下なのに、私なんかよりもずっと大人っぽくて。私、今初恋みたいにドキドキしてる。

 彼ともっと早く出会えていたら──。唇が重なるまでに考えたのはそんなことだった。出会いの時を変えられないのなら、せめて時を止めて、今がずっと続けばいいのに。
 目を閉じた。唇が重なって、そのままソファに押し倒される。
 溺れてしまう。ううん。私、もうとっくに彼に溺れてる。


 ◆


 電子レンジの調子がおかしいことを告げると、夫は嫌々といった態度を隠すことも無く、それでも何とか車を出してくれた。昔はドライブだってよくしていたのに、もう思い出せないくらいずっと昔のことみたいだ。去年くらいまではお出かけだって提案してみたけれど、休みくらいは寝かせてくれよ、と言われてしまえば口を噤むしかない。そのうち、自分から声をかけることもやめてしまった。

 夜は久しぶりに二人で外食をして、帰宅してからの彼は、明日も早いからと早々に寝室に入ってしまった。今日一日気を張っていたからか、気持ちだけがどっと疲れていた。それでも何となく眠る気になれなくて、独りきりのリビングでダイニングチェアーに身体を丸めるようにして膝をついて、ぼんやりと消音のテレビを眺めた。内容なんて何も入ってこないけれど、今はただ、ぼんやりするだけの理由が欲しかった。

 ──私たち、どうして結婚したのかな。

 いつから、彼といることにこんなにも気を遣うようになったんだろう。昔はもっと楽しかったのに。でも、昔っていつのこと? 彼が結婚して初めて浮気をするまで? 知らないジュエリーのレシートをゴミ箱で見つけるまで? 愛されているのは分かるけど、大事にされていないと気づいてしまったあの日まで?
 なんて、考えても仕方の無いことだ。それでも動けなかった。淡々と過ぎる時間だけが、私を置き去りにして進んでいく。
 もう寝よう。明日はまた月曜日だから仕事だ──と時計を見て、ふと、何か足りない気がして手首に触れた。そういえば、腕時計がない。今日は間違いなくつけていたはずなのに。
 頭の中で記憶を辿って、夫の車の中で日焼け止めを塗ったことを思い出した。きっとあの時に、外してそのままにしてきてしまったんだろう。仕事では絶対に必要なものだから、今のうちに取りに行かなきゃ。

 携帯と、壁にかかった車の鍵を取って家を出る。エントランスから外に出ると、しんとした夜は、もうすっかりと夏の匂いがした。
 助手席のドアを開いて、携帯のライトを頼りに座席付近を探す。置くとしたらレバー付近のポケットに入れるはずだけど──と座席の真下に手を伸ばすと、何かが手に触れた。金属の手触りと、あともう一つ。

「……え?」

 手繰り寄せたのは、私の腕時計と、見知らぬ口紅だった。絶対に私のなんかじゃない。だとしたら、きっと。ああ。そっか。

 この場所で、口紅を塗り直さなきゃいけないようなこと、してたのね。

 湧き出てきたのは涙でも怒りでもなくて、ただ乾いた笑いだった。口紅をまた同じ場所に投げ入れて、勢いよくドアを閉める。それから、崩れるようにしてその場所にうずくまった。
 両手で顔を覆って、天を仰ぐ。悲しいのは、これを見つけたからじゃなくて、見つけたのに何も思わない自分に気づいてしまったからだ。それは、私だって夢野さんと同じことをしているから? ──ううん。違う。でも今やっと、分かった気がする。
 私、きっともう夫を愛していない。

 少しの時間のあと、親指が携帯の画面をなぞる。祈るような気持ちで、それを耳に当てた。

「……もしもし?」

 少し驚いたような声。彼は今、何をしていたのだろう。電話に出てくれた。それだけで、こんなにも嬉しくて、悲しい。

「もしもし。夢野です。聞こえていますか」
「……ごめんね、突然。……っ忙しかったら、切っていいから」
「──泣いているのですか? 今、どこにいます?」
「ごめんなさい。……ただ、声が、聞きたかったの」

 鼻の奥がツンとして、思わず顔を持ち上げると涙が頬に流れた。優しい彼のことが、ただ今は、どうしようもないくらいに愛おしい。

「それならいくらでも付き合いましょう。職業柄か、幸い、話し続けることは得意です。貴方が聞きたいと言うならばどんな話でも紡いでみせますし、貴方が望むのなら、どこへだって迎えに行く」
「……ねえ。夢野さんって、どうして、こんなに私に優しいの……?」

ずっと、聞けなかったことだった。聞いてしまえば、何もかもが変わってしまう気がして。だから私の髪を梳く手の優しさも、いつも交わる視線も、気づかない振りをした。
 でも、今は。

「貴方のことが好きだからです」

 真っ直ぐに紡がれた言葉に、思わず手で口を覆った。少し先の街灯の光が、じわりと滲んでいく。

「貴方が誰であれ、小生は貴方のことを愛しています。だから、何かあればいくらでも頼ってください。小生はいつだって、貴方の力になりたい」

 どこまでも優しい人。私を大事にしてくれる人。私を愛してくれる人。どうして。どうして私は、今になって彼と出逢ってしまったのだろう。
 今すぐ彼に会いたい。会って、もう何も考えられないくらい強く抱き締めて欲しい。
 でも私には、愛さなければいけない人がいる。

「っごめんなさい。……気持ちが揺れて、苦しいの……」

 泣きじゃくるようにして、手のひらで涙を拭う。今はただ、他の誰でもない彼の声を聞いていたかった。


 ◆


 平日の夜九時に夫が帰ってくるなんて滅多にないことだった。リビングに入るなりソファにどさりと座って、気分が優れないのか、腕を額にあてて天井を見上げている。慌ててグラスに水を注いで彼に差し出すと、何も言わずにそれを取って一息に煽った。悪いのは気分じゃなくて機嫌だったのだろうか。懇意にしてる女の子に、何か言われたとか。
 お酒に酔った夫は大抵機嫌が良すぎるか、悪くなる。今日は後者だったみたいだ。こんな日は突然怒鳴りだしたりするから、少し構えて、「お風呂、沸かしてるから入ってきたら?」とお酒と煙草の匂いが染み付いた身体を揺らす。
 そうして、気付いてしまった。

「ねえ。あなた、指輪は?」

 夫は緩慢な動きで手のひらを見つめると、「ああ──」と何かを取り繕うかのように何も無い薬指を撫でた。

「酒飲んだら浮腫んで外れなくなるから取ったんだよ。別に、いいだろ」

 嘘だ、と直感する。だって、今まではわざわざそんなことをしたりはしなかった。きっと、もっと別の理由で外したに違いない。おそらくは、その方が都合が良かったから。

「なんだよ。怒ってるのか?」

 夫の手が、私の手首を掴んだ。その瞬間、えも言われぬような感情が湧き上がる。どうしてだろう。夢野さんに手を掴まれた時は、ただ嬉しかっただけなのに。熱に帯びたその手のひらは、ただただ嫌な気持ちになって心に落ちる。どうして。相手は夫なのに。

「怒ってないわ。ね、疲れてるでしょ。お風呂、先に入ってきたら」
「まあそう怒るなって。そういえば、最近構ってやれなかったもんなぁ」

 空いた手のひらがウエストのあたりを撫でて、一瞬で肌が粟田った。はなして、と手を動かすけれど、跡が残るほど強く掴まれた腕はびくりともしない。

 これまでは──ううん、きっと夢野さんに出会うまでは、夫に求められることに嬉しさを感じていた。でも今は違う。トップスをかい潜る手のひらが、ただ気持ち悪くて、怖い。
 だって、これは夢野さんの手じゃない。
 そう思ってしまった自分に気づいて、ひたりと息を飲んだ。私。今、なにを。

「ほら、脱げよ。たまにはいいだろ、な」
「待って。いや、やだ──」

 必死に身体をよじらせる。これ以上、夫にとって都合のいい女になりたくない。私は今、誰の代わりなの。あなたが外した指輪をつけ忘れるほど好きな人に、私はもうなれない。

「やめて!」

 捕らわれた手首を押して、ドン、と身体を突き放す。その瞬間、はっと我に返った。「なに?」と見る見るうちに悪くなっていく彼の機嫌に、慌てて言葉を重ねる。

「ごめ……今日は、生理なの。だから、また今度に、」
「あっそ。ならいいわ。あー頭いてぇ。明日の朝なんかフルーツ系のジュース飲みたいから、後で買ってきといて」
「分かったわ。お風呂はいってからでもいい?」
「お前、すっぴんでコンビニ行くの?」

 嘲笑するような声に、「ごめん。ちゃんと、買いに行くから……」とはだけた衣服を整える。長いため息をついて、夫はそれ以上何も言わずに、靴下を脱ぎ捨てて浴室へ向かっていった。

 赤く指の跡がついた手首が震えている。そっとソファに掛けると、じわじわと目の周りが熱くなるのが分かった。だめだ。堪えないと。泣いているのが見つかれば、また面倒くさいって怒られてしまう。

 夫のことを支えなくちゃいけないと思っていた。だって、彼のおかげで、なに不自由のない暮らしをさせて貰えているんだから。だから、何度酷い言葉を言われても、乱暴な扱いをされても、それは彼のことを上手く支えてあげられない自分が悪いんだって、そう思ってずっと生きてきた。これからも、そうして生きていこうと思っていた。

 でも、もう限界だった。
 ごめんなさい。私はこれ以上夫を愛せない。

 シャワーの音を聞きながら、鞄を持って外に出た。そこで初めて、溢れてきた涙がぽたりと地面に落ちる。指先で何度拭っても止まらなくて、ひくひくと過呼吸みたいに息をする。
 きっともう夫の心の中に私はいない。わかってる。わかってた。でも、私だって一緒だ。気付いてしまったの。今、私の心にいる人は──。
 縋るように携帯のボタンを押した。すぐに、声が聞こえてくる。

「夢野さん……──会いたい……」



 眩しいような恋をしていた。夫が教えてくれなかった愛を知ってしまった。ずっと見ないふりをした。気付かないふりをした。でももう、誤魔化すことはできない。

 私は、夢野さんを好きになってしまった。

 彼は急いで車から降りて、蹲る私を抱きとめた。ふわりと漂う香りを、離さないようにと強く抱きしめ返す。彼の声で名前を呼ばれると、氷みたいに不安が溶けて、また、涙の気配がした。
 泣き腫らしたせいできっと化粧もぐちゃぐちゃで、それでも夢野さんは、ただ優しくキスをしてくれた。触れて、名残を惜しむように離れて。求めるようにつま先を立てて、何度も繰り返す。

 見つめあって、彼は潤んだ私の瞳を親指でなぞった。その指に、すらりと涙が伝う。

「──失礼を承知の上で、知り合いの探偵に頼んで貴方のご主人のことを調べさせていただきました。たった数日で、これだけのボロが出るとは驚きましたが。……きっと、貴方も気付いていたのではないですか?」

 言葉がつまって、声にならない。溢れた涙はとまらなくて、きっとそれが答えだった。

「ずっと、貴方が幸せならそれでいいと思っていました。でももう、彼には貴方を幸せにする資格はない」

 微睡むような優しい声とは違う、力強い声だった。滲んだ先の瞳から、目が逸らせない。

「お願いです」
 彼の指が、しっとりと頬を包む。
「小生を、選んで」

 今までずっと、自分は幸せなんだって言い聞かせるようにして生きてきた。そうすることでしか、自分を保てなかったから。
 でも今なら分かる。幸せって、こんな気持ちだったのね。

「夢野さん……好き」

 彼の目が、驚いたようにして見開いた。溢れ出した言葉は、もう止まらなかった。

「好きなの。ずっと、一緒にいて。おねがい──」

 話しきる間もないまま、彼に深く抱きとめられる。ああ、私、もうずっと夢にいるみたい。幸せすぎて、私もう死んでもいい。なんて言うと、「おや、早速小生を置いていく気ですか? ひどい人だ」と彼は笑った。
 明日には覚めてしまう夢かもしれない。それでも、そんな不安をかき消すように重なる夢野さんの唇の熱だけが、現実で、本物だった。
 ああ。私、もう迷わない。


 ◆


「離婚しましょう」

 判の押された一枚の紙に、プラチナの指輪。彼はまだ、唖然としている。

「は? なんの冗談?」

 とぼけるような彼に、私はもう笑わなかった。ただ真っ直ぐに彼を見て、ひとつひとつ、確かな言葉を紡いでいく。

「心当たりなら、たくさんあるでしょう?」
「何それ。ちゃんと食わせてやったしそれなりに贅沢もできたはずだけど、不満だった?」
「とぼけるのね。ちゃんと証拠を見ないと、納得できない?」

 鞄の中から白い封筒を取り出す。彼の前に差し出して、そっと目を背けた。
 あの後、『あまり気分のいいものではないと思いますが──』と夢野さんが渡してくれた、彼の不倫の証拠写真。無理して見る必要はない、と彼は心配してくれたけれど、私はそのすべてに目を通した。知らない女性とラブホテルに入っていくところ。車の中でキスをするところ。私にはずっと向けられなかった、優しい彼の表情。

「──ごめん」

 その一部に目を通して、彼はか細い声を出した。それから、必死になって声を上げる。

「本気じゃなかったんだ、全部。もう別れたから。だから考え直してくれ。ごめんな。俺、お前のことが大事なんだ」

 これまでにも何度も聞いた言葉だった。信じられないのに、でもどうしても信じたくて。その度に私は、全部忘れて、もう一度彼と頑張っていこうって言い聞かせてきた。
 でも、もう無理だ。

「お金はいらない。この家も私が出ていくから。だから、サインをして」
「なあ。悪かったよ。謝るから、怒らないでくれよ。お前のことが必要なんだ。分かるだろ?」

 一瞬。かつての日々が頭の中を駆け巡った。瞳の中のオートフォーカスがずれて、必死に引き止める夫が、ずっと遠くに離れていく。

 ねえ。私たちって、いつもこうだったね。私がもっと強ければ、もっと自分の意志を伝えられたら、私たち、上手くいったのかな。

「……私、今までずっと、あなたの機嫌を伺いながら過ごしてきた」

 縋るようにして彼が私を見る。ああ、この人って、こんなに頼りなく見えたっけ。馬鹿だな。私、どうしてあんなに怯えてたんだろう。

「あなたの浮気も知ってたのに、何も言えなかった。言ってしまったら、全部壊れるんじゃないかって怖かったから。でも私、もうこれ以上自分の気持ちに嘘をつきたくないの。だからあなたも、あなたの人生を歩んで」

 鞄を持って立ち上がる。紙を指で押し滑らせて、「受け入れられないなら、弁護士を通すわ」と彼を見下ろした。視線が合うのは、これでもう、最後。

「──さようなら。もう二度と会わない」

 大丈夫。私はもう、私の足で歩いていける。


 ◆


 彼が仕事の間にスーツケースに荷物を詰めてから、四年間使った鍵をポストに入れた。太陽の位置は高くて、じりじりとした日差しがアスファルトを照らしている。吸い込まれそうな青い空と、白い入道雲。ふりしきる蝉の声に、公園を走りまわる子供たち。はしゃぎながら、自転車で通り過ぎる学生のカップル。上手く言えないけど、全部、素敵だと思う。今までは、街を歩けば自分と違う人を羨むばかりだったのに。
 その先に見慣れた姿を見つけて、スーツケースを引く足がぴたりと止まった。──もう。どうして分かったのかな。私、何も言ってなかったのに。

「お疲れ様でした。さよならは出来ましたか?」
「……うん。台所とか、ピカピカにしてきたわ。何だかんだ、ずっと使ってた場所だったから」

 夢野さんはクスリと笑って、私のスーツケースを手に取った。それから、なにもない私の手を。少し冷たい手のひらが、重なって、ひとつになる。

 私はこれから、彼と一緒に暮らす。好きな時に好きな仕事をして、それから、夜は二人で眠る。お休みが被った日はどこかに出かけて、でも家にいたい気分のときはゆっくりして──そんな普通の生活を、彼と、生きていく。
 私を愛してくれる、世界で一番大切な人と。

「ねえ。どこかでスイカ、買って帰ろっか」

 少し前に乗り出して、彼に笑いかける。夢野さんはまたふわりと笑って、流れた私の髪を耳にかけた。木漏れ日みたいに綺麗な色をした瞳に、私が映っている。
 引き寄せられるようにして、目を閉じた。そうして何も見えなくなっても、あの日彼が教えてくれた私の恋は、きっとずっと、眩しいまま。
 
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