午後の消失点



 眩しいような恋をしていた。



 寝室からリビングに出ると、手のつけられていない一人分の晩御飯が静かに息を潜めていた。ベッドに就いてからも音がしなかったから、昨夜夫が帰ってこなかったことも分かっている。副菜のラップをはずして、メインのお皿をレンジで温め直す。その間にケトルでお湯を沸かして、鍋の味噌汁に火をかけた。
 夫が帰ってこないのはなにも珍しいことじゃない。いつも午前様になっては仕事だという彼に、私はあと何回騙されなければいけないのだろうと思う。
 惰性でつけた朝のテレビ番組を眺めて、小さなダイニングテーブルでひとり、彼の好きなものを食べる。最後に向かい合って食事をしたのはいつだっただろう。ひとりごちて、それもすぐにやめてしまった。きんぴらを咀嚼する音が、こめかみの奥で小さく響いている。


 夫と出会ったのは高校の時で、私が大学を出てからすぐに結婚した。それから、四年になる。
 彼の浮気癖は結局その頃から治らなかった。私はたくさん傷ついて、そうしたらいつの日か傷付くのにも慣れてしまって、それでもその度に彼が私を愛してるというからその言葉に縋るようにして結婚を決めた。彼が子どもはいらないというから、ここ何年かは身体を重ねたりもしていない。たまに帰ってくる夫からお酒の匂いに混じって知らない香水のかおりがしても、必要以上に悲しむこともなくなってしまった。気まぐれな優しさと、プラチナの結婚指輪が、形式的に私をこの場所に繋ぎ止めている。ただ、それだけ。

 ダイニングテーブルを立ち上がってからは流れるように家事をして、最近はすっかり買わなくなってしまったコスメをいくつか並べて化粧をした。お気に入りのDiorのパレットを瞼にのせて、ビューラーで睫毛をあげて、最後に唇にシャネルを引いて出来上がり。化粧は好きだ。普段家にいる時は夫から手を抜くなと怒られないための化粧しかしないけれど、外に出るときくらいはやっぱり自分の好きな化粧をしたいと思う。
 夫に『仕事をしたい』と言った時、彼はそれに対してひどく消極的だった。確かに二つ上の彼は同年代と比べて収入が多い方だと思うし、実際に今までは彼の稼ぎだけで十分にやっていけたのだから絶対に必要かと問われればそうではないのかもしれない。ただ私は、誰とも話さず家の中でずっと閉じこもるのはどうしても嫌で、彼と交渉をして週に三度だけパートとして働くことになった。条件は、必ず夕方までには家に戻るということ。ろくに家に帰ってこないくせに、帰ってきた時に私がいないと嫌だと言うのだから勝手なものだ。彼はきっと、そうすることが私への愛情であると信じている。本当に、勝手な人。

 街を歩きながら、すれ違う人にふと思いを馳せることがある。アイスコーヒーのプラスチックの容器を掴む綺麗な指先のネイルだとか、好きな色のヘアカラーだとか、ビジネススーツを着こなす女性だとか、彼女たちにあって、私にはないものたち。結婚をしなければああいう風になれたとは思えないけれど、それでもやっぱり羨んでしまう。自分の好きに人生を生きられる彼女たちを。


 新しく見つけた職場は大手の編集社の事務だった。新卒で働いていた時も事務をしていたから、パートとして雇われるのもそう難しくはなかった。
 仕事の内容は、売上データの打ち込みや来客の対応にお茶出し──そういった極々一般的な事務作業だ。編集者が足りない時は、ごく稀に作家さんの家にお伺いをして原稿を取りに行ったりもする。この編集社は抱える作家の数が多く、一人の編集者が数人の作家をハンドルしている状態だ。当たり前かもしれないけれど作家さんは本当に十人十色で、それぞれの人によって全く個性が違うのだから面白い。そんなことを言うと、本職の方に失礼かもしれないけれど。


 お昼を少し過ぎた頃だった。ふと名前を呼ばれて、振り返る。たまに見かける編集者の人だった。

「ちょっといいかな? この前代わりに行ってもらった夢野先生なんだけど、これからの原稿の受け取りで君をご指名でさ。申し訳ないんだけど、今回も行ってもらえないかな」

 夢野先生──と頭の中で記憶を手繰り寄せて、ああ、と思い当たる。
 最近どこかしこで人気の随分とお若い作家さんだ。確か、私よりも若かったと思う。
 先日、原稿の回収で伺ったときは本当にお疲れのようで、オートロックと玄関を開けてくれたことが奇跡とすら思えたくらいだ。そこからお茶の場所だけ教えられて、「お構いは出来ませんが、好きに寛いでください」の言葉を最後にふらふらとまた別室の机に戻っていってしまった。てっきりすぐに原稿を頂けるものと思っていたから、私は自分の家よりもずっと新しいリビングで待ちぼうけをして、そうしたらシンクに溜まった洗い物だとかチルドやカップ麺のゴミが気になって、失礼を承知で全部片付けさせてもらったのだ。何度か部屋とゴミ捨て場を行き来して、そうして様子を伺ったら机の上に突っ伏すようにして眠っていらしたから、メモと近くのコンビニで買ったお惣菜を残して家を出てしまった。結局原稿は回収できなかったから、どうしようと悩んだ挙句、担当の方には『先生はご不在でした』とだけお伝えしたんだっけ。

 もしかして、勝手に掃除をしてしまったのが気に食わなかったのかも──。そんなことを思いつつ、急いでいるのか、少し早口で話す編集者の彼に圧されて了承してしまった。支度をしながら、これからのことを頭の中でシミュレートする。まずは謝罪をして、今度こそは玄関口で原稿を受け取って、それから直ぐに帰ろう。ああ、怒っていないといいけれど。



「こんにちは。お待ちしていました。どうぞお入りください」

 そんな私の懸念も他所に、作家・夢野幻太郎先生は穏やかな声で私を中まで招き入れた。先日とは打って変わってなその様子に、喉のふもとまで出ていた謝罪の言葉はすっかりと落ちてしまって、風鈴みたいな涼やかな声に招かれてリビングへと進む。
 改めてお伺いしてみると、随分と立派なマンションだなと思う。エントランスには綺麗に整備された水場とソファがあって、駐車場だって完備されている。売れっ子の作家さんってこんなにも裕福な暮らしができるものなのかしら──なんて邪推めいた考えを抱いてしまったほどだ。
 それから、彼も、こうして見るととても顔の整った好青年だなと思う。先日のぐったりしていたような様子は影もなく、イケメンというかは、綺麗だとか美しいと形容したくなる顔は、二十四歳だという年齢よりも少し大人びて見えた。

「先日はろくにお構いもできず申し訳ありませんでした。珈琲と、それから紅茶とお茶がありますがどれがお好きですか?」
「そんな、先生にそんなこと。あの、私がやります」
「いえ。貴方には大変お世話になりましたので、今回は小生が。どうぞ掛けられてください」

 柔和な笑みに、相反して少し身体が硬直してしまう。それから、さっきは出せなかった言葉を振り絞った。

「あの、夢野先生。──先日は、勝手なことをしてしまってすみませんでした。すごく疲れていたようにみえて、それで、先生が心配で……」

 謝罪というよりかは、言い訳のような言葉だった。小さく呼吸をして、何が来ても耐えれるようにと身体を縮こませる。人の機嫌を伺ったり、すぐに構えてしまうのはもはや癖のようなものだった。余計なことをして、もしかしたら罵倒されるんじゃないか、なんて。先生は、夫とは違うのに。
 夢野先生は少し驚いたように私を見て、それから、ふわりと花開くようにしてまた微笑んだ。

「駄目な作家だと罵られるどころか、まさか貴方から謝られるとは思いませんでした。今日貴方をお呼びしたのは、先日は色々とお手伝いを頂いてしまったようなので、そのお礼をと」

 ありがとうございます、と優しく動く唇に戸惑ってしまう。感謝されることなんて何もしていないのに──なんて卑屈な自分の考えに気付いて、返すようにして無理やり笑った。私はいつから、こんな風になってしまったのだろう。
 結局ブラックのコーヒーを選んで、二人でダイニングテーブルに腰掛ける。ふと、誰かとこうして食卓を囲むのは久しぶりだなと思った。ここは私の家でもなければ、向かい合うのは夫でもないけれど。

「ああ、原稿なら出来てますのでご安心を。先日は手ぶらで帰してしまって申し訳ありませんでした」
「いえ。先生は不在でした──なんて嘘ついちゃったから、怒られはしませんでした」

 ふふ、と夢野先生が吹き出す。それに合わせて、さらりと少し長めの前髪が揺れた。本当に、綺麗な人だ。

「それから、わざわざ食事までありがとうございました。別に自炊は嫌いではないのですが、原稿に追われていると中々手が回らないんです。徹夜続きとなれば、外に出るのも億劫でして」
「そう、ですよね……先生はまだ若いし、栄養のこととか考えると本当は何か作ったりしたかったんだけど、さすがに人のお家でそれをするのもと思っちゃって」
「おや。それは有難いですねぇ。誰かの手料理なんて、長らく食べてませんから」
「それなら、言ってもらえれば私がいつでも作りますよ。そんなに凝ったものは作れないけど、それでもよければ」

 すらすらと口から出た言葉に驚いた。そこに他意はなくて、ただ、自分よりも二つも年下の人があれだけ疲れているのを見て、純粋に彼のために何かをしてあげたいと思った。ただそれだけで、そこにそれ以上の気持ちはない──はずだったのに。
 コーヒーカップを片手に、嬉しそうに目をすがめる彼に視線を奪われた。周りから音が消えて、世界はスロウになって、ただ目の前にいる彼をずっと見ていたくなるような、そんな感覚。
 瞬きをすると、魔法が溶けたようにして、くすりと笑う彼の吐息が聞こえた。

「ふふ、これは僥倖。それが社交辞令で無いことを祈りましょう」
「ええ。絶対、作ります。今日は──そろそろ帰らないといけないけれど。次は、絶対」
「残念です。何か予定でも?」
「そうじゃないんだけど……夕方までに家に帰らなきゃ、仕事に行かせてもらえないから」

 彼の視線が、一瞬、私の薬指の指輪をとらえた。視線の先が、氷を当てられたようにひやりとして、すぐに離れていく。ごくりと嚥下したコーヒーの苦さが、やけに後をひいた。

「そうですか。それではまた今度」
「よかったら、次もまた私を呼んでくれますか? 来る前に材料を買っていくわ」
「そうしましょう。ふむ、それなら連絡先を聞いてもいいですか?」

 ふと、夫の顔が思い浮かんだ。同時に這い上がってきた罪悪感をすぐにかき消して、鞄の中から携帯を取り出す。たかが連絡先を交換するくらい、バチだって当たらないはずだ。悪く思う必要もない。だって、夫はもっとひどいことをしているのに。

「ありがとうございます。また、連絡します」

 どこか嬉しそうな表情に、不意に胸が締め付けられる。
 彼を見る度に、心の中に降り積もっていく名前のない感情。それが何なのか、私はまだ分からずにいたかった。このどうしようもない苦しさを、私はもうずっと知らない。


 ◆


 意外にも、彼からはすぐに連絡が来た。原稿はいつも手書きだし、服装も相まってかあまりSNSを使うような人には見えなかったから、挨拶を兼ねた丁寧なメッセージが届いた時は少し驚いた。
 隠すことでもないから、私は夫がいることと、週に三回ほど編集社で働いていることを伝えた。代わりに私が知ったのは、彼がいくつもの出版社で連載を抱えていることと、スイカが好きだということ。今度見かけたら買っていくわ、と送って、その今度が早く来るようにと願った。

 あの日から──彼と出会ってから、まるで世界が新しく生まれ変わったみたいだった。
 家事をしながら、彼は元気だろうかと思いを馳せることが増えて、仕事に行く日が楽しみで仕方なくなった。携帯が震える度に胸が高鳴るようになって、でも彼の返事はそこまで早くはないから、それに合わせた方がいいかしら、なんて学生みたいな試行錯誤をして。美容院の帰りに、暫く見ることもなかったデパートで、新しいルージュを買った。それで何かが変わるわけではないけど、確かに私の世界は、彼に出会ったことで変わったのだ。

 夫は今朝、「今日は飲み会だから」と告げて早々に家を出た。金曜だから、きっと今夜も帰っては来ないだろう。確か明日はゴルフに行くと言っていたから、おそらく帰ってくるのは明日の夜になるかもしれない。
 少し丁寧に施した化粧にも、新しく買った口紅にも、カットした髪にも何一つ気付くことなく夫は家を出た。分かってる。だから、寂しいとももはや思わない。今さらその感情を詰め込むには、私の心はすでに虚しさで溢れ返っている。


 『今日は、お仕事ですか?』家事をしている合間に届いたメッセージに、慌てて既読をつける。その後で、返す内容を考えてからにすればよかったとひどく後悔した。
 少し悩んでから、正直に『お休み。でも暇してる』と返す。仕事だといえば、彼は誘ってくれた? そんな邪な考えが浮かんで、いけないと頭を振る。だめだ。彼が私と話しているのは仕事だからなのに、近頃の私は、ずっと何かに期待している。
 興味もない知り合いのインスタを見たりして返信を待ったけど、既読がついてからも返ってくる気配はない。行き場のないやるせなさだけが胸に沈んで、それを振り払うべく家事を続けようとした時だった。
 電話が鳴った。慌てて画面を見る。ディスプレイに表示された名前を見て、息を飲んだ。震える親指で、応答画面を押した。

「……もしもし」
「もしもし。夢野です。すみません、すぐに返そうと思ったんですが、あまり携帯で文字を打つのは得意でないので」

 やっぱり──なんてくすりと笑う。それでも最初にあれだけ丁寧に打ってくれた彼のことを考えると、愛おしさにも似た何かがまた心に積もった。
 ずっと聞きたかったその声が、今ここにある。それだけで、口もとが自然とゆるんでしまう。わざわざ電話を掛けてくれた彼の意図の先がはやく知りたくて、「どうしたの?」と続きをせがんだ。

「請け負っていた諸々が一段落つきそうなので、もし貴方のお時間があれば、先日出来なかった食事でも──と思ったのですが」

 胸の奥がぎゅっとして、思わず目を閉じる。嬉しい。どうして。なんで、こんなに。

「お伺いするわ。何か食べたいものはある?」
「よかった。それでは、貴方の得意なものをお願いできますか」
「それでいいの? 何でもオーダーしてくれていいのに」
「貴方のことが知りたいんです。鍵は開けておきますから、どうぞお気をつけてお越しください。では、またあとで」
「あっ……わ、わかった。それじゃあ、あとで」
「ええ。それでは」

 少しの余韻を持たせて、それでも彼が切る気配がなかったから私から終話ボタンを押した。まだ切りたくないな──なんて思いが浮かぶだけの、ほんの一瞬の、余韻。それはきっと、夢野さんなりの気遣いだろう。夫から電話が来た時は、いつも用件が終わればすぐに切られていたから、このたった三秒の隙間が、むず痒くて、嬉しい。

 それでも、ふと、無意識に夢野さんと夫を比べている自分に気づいて、焦りにも似た感情が血管の中を這い廻った。うつむいた視線の先で、左手の指輪が光を反射する。
 息をつく。浮かび上がる心と対照的に、沈んでいく身体がひどく重かった。違う。そんなんじゃないの。久しぶりに人に優しくされて、少し嬉しかっただけ。分かってる。
 出会いの順番は、今更選べない。



「おや、髪を切られたんですか?」

 開口一番、夢野先生は私を見てやおら微笑んだ。少し汗をかいた身体が、心地よいくらいの室内の涼しさにすっと馴染んで冷えていく。

「少し雰囲気が変わりましたね。似合っていますよ」

 彼の指が、私の髪のひと束を掬う。宝石みたいな緑の色が、やわくとろけて、私を見ている。
「ありがとう」かろうじて言えた声は震えていた。頬に熱があつまる前に、「食材、とりあえず冷蔵庫に入れるわ」と彼からすり抜ける。素っ気なく思われてしまったかも。でも、こんな風に優しくされると、私、どうしていいか分からない。

「外は暑いと思って冷房をつけておきましたが、寒くはないですか? 今日はずっと家におりましたので、外気の感覚が掴めておりませんゆえ」
「うん。汗かいたから、ちょうどいいくらい。気遣ってくれてありがとう」
「いえ、これくらいは。まさか本当に来て下さるとは思わなかったので」

 思わず冷蔵庫から振り返ると、彼は口角を持ち上げて、こちらを見て目をすがめた。確かに私、どうしてここに来たんだろう。だって今日は仕事でもなくて、本当なら、夢野さんと会う理由だってないはずなのに。
 どくり、と高鳴る鼓動に知らないふりをする。視線が絡め取られて離せなくなる前に、また袋の中から食材を手に取った。

「お仕事は落ち着いた?」
「ええ、ちょうど先程脱稿したところです。これで少しは羽が伸ばせそうだ。慣れたとはいえ、同じ姿勢をずっと続けていたので少し肩がこりました」
「よかった。お疲れさま。今日は何作ろうか迷って……でもこの前のお食事みたいな内容が続いてたなら野菜不足かなと思ったから、とりあえず夏野菜をたくさん買ってきたの。それから、やっぱりお肉も食べた方がいいからハンバーグでも作ろうかなって。食材は少し多めに買ってきたから、また一人でいるときにも使って」
「ああ、ありがとうございます。本当に。貴方の料理をいただくのが楽しみです」
「そんなに大層なものじゃないわ。別に作ってる間に散歩したり運動しにいったり、眠かったら寝ててもいいからね。きっと、疲れてるだろうから」
「いえ、ここで見ています。貴方と一緒にいたいので」

 また、だ。一瞬手がとまる。そんな私を、彼が見ていないようにとただ祈った。
 どうして、彼はこんなに優しい言葉ばかり言うんだろう。どうして、こんなに優しい目で私を見るんだろう。ただからかっているだけ? それとも、他の人に対してもそうなのかしら。ああ。それならいっそやめてほしい。
 だって、勘違いしてしまいそうになる。


 BGM代わりに昼下がりのニュースをつけて、夢野さんとたくさんの話をした。彼はやっぱり考え方も大人びていて、ついぽろりとこぼしてしまった「二つしか離れてないのに」の言葉に、彼はまた目をやわめて私を見た。どういう意図かは、分からないけれど。夫からもガキみたいって言われたことがあるけど、やっぱり歳上っぽくなかったのかしら。

「今のご時世では、なかなかお若くして結婚されたんですね」

 不意にその話が出てきて、きゅうりを刻む手が止まった。何でもない振りをして、続ける。

「そうね。若かったと思う。大学を卒業してすぐだったから。それまでも夫しか知らなかったし、他の人と一緒にいる自分の未来が見えなかったから」
 それに、あの頃はまだ、夫だって私のことを愛してくれていたと思う。よく夜も求められたし、休みの日に二人で出かけることもあった。今ではもう、上手く思い出せない。
「ご主人は今日もお仕事ですか?」
「ええ。でもきっと、いつもみたいに帰ってこないと思う。華金だし」

 言ってから、しまったと唇を引き結んだ。「──いつも、そうなんですか?」何かを探るみたいな、どこか思慮深い声が落ちてくる。私は、どうして余計なことを。いつもみたいに、適当な嘘をつけばよかったのに。

「そうね。いつも終電だったり、帰ってこなかったり。忙しい人なの。今日は晩ご飯も要らないっていってたから、ちょうど良かった」
「そうですか」

 しん、と落ちた沈黙に、やっぱり言わなければよかった──と後悔した。こんなこと、仲のいい友人にだって言ったことはない。夫との結婚生活について聞かれた時も、いつも曖昧に濁しては、うまくやり過ごしていたことだった。本当のことを話して、愛されてないんじゃないかって、誰かから思われることが、怖い。

 流れてきたCMソングに不器用な鼻歌をのせて、その場をやり過ごそうとする。たとえそれが空回りだとしても構わない。だって、ずっとそうして気にしない振りをしてきたから。
 大丈夫。夫は悪い人じゃないから。だから私たち、まだやっていける。


 できあがる頃にはもうすっかり夕時になっていた。この時期は六時を過ぎたって外が明るいから、話に夢中になると時間の経過に気づかなくなるものだ。

「ごめんなさい。たくさん作ってたらすっかり遅くなっちゃったわ。いくつかのおかずは冷蔵しとくから、また明日にでも食べてね」
「すごいですね。これだけの品数をすぐに作ってしまうなんて。ありがとうございます。大事にいただきます」

 カウンターキッチンの台に並べた料理を、彼は少し驚いたように興味深く眺めている。嬉しくて、少し胸がこそばゆい。ああ、せっかくだから彼が食べてるところも見たかったな──なんて思いつつ、ニュースの左上の時刻を眺めた。もう、帰らなきゃ。もしまだ帰ってないことが見つかってしまえば、もう夢野さんに会えなくなる。

「それじゃあ、私は帰るわね。またいつでも作りに来るから──」

 言いかけたその言葉は、私の手首を掴んだ彼の手のひらによって遮られた。長い指が一周して、私のよりもほんの少しだけ冷たい体温が、触れたところから伝わってくる。

「──帰るんですか?」
「うん。……だって、もう夕方だから……帰らないと、夫が」
「ご主人は帰ってこないのに?」

 息を飲んだ。明度を落としたような彼の声が響く。夫はきっと帰ってこない。そんなこと、分かってる。なら私は、一体何に縛られているんだろう。

「もう少し、一緒にいてはくれませんか」

 だって、私もまだ彼と一緒にいたい。



 外がだんだん暗くなっていくのを、自分の家以外で眺めるのはいつぶりだっただろう。夏の初めの空はもうすっかりと暗くなって、開いた窓からカーテンを揺らす風は、心地いいくらいの温度になっていた。
 洗い物を済ませて、食後のティーを傍らにリビングの広いソファに腰掛ける。二人の間の、少しの隙間に投げ出した手のひらが触れることが怖くて、膝の上にそっと丸めていた。指と指を重ね合わせて、意味もなく無造作に動かす。そんな手遊びが、私の胸の高鳴りをなんとか押さえつけていた。

「久しぶりに温かみのあるものを食べました。本当に、ありがとうございます」

 少し上半身を前に傾けて、夢野さんは隣から私の顔を覗き込んだ。食べている間も、作家さんの語彙力って無尽蔵なのかしら──と感心するほどに一つ一つに対して全部コメントしてくれるから、本当に作りがいがあったというものだ。

「いいえ。あれだけ喜んでくれて、こちらこそ嬉しかった。誰かと食卓を囲むのも久しぶりだったし──」

 また、だ。私はまた、要らないことを言ってしまう。今はもう、それを誤魔化すためのテレビだってついていないのに。
 どうしようもなく、また俯いて膝を見る私の名前を夢野さんが呼んだ。名前で呼ばれたのは、初めてだった。見上げると、昼間よりも深い二つの緑がこちらを見ている。そこで初めて気がついた。ああ。夢野さんって、私が彼を見る時、彼もまた絶対に私のことを見ていてくれる。

「夢野、さん」

 ゆらりと色を変える彼の瞳から目が離せなかった。彼の手が、私の髪を撫でる。帰らなきゃ。もう、こんな時間なのに。私の中の一部分が頭の中で警鐘を鳴らす。それでもずっと、離せない。
 そのまま指先が耳から頬に触れて、彼の顔が近付いてくる。だめ。逃げなきゃ。帰らなきゃ。
 あと、三センチ。

「……だめ」

 すんでのところで、顔を横にそらして彼から逃げる。もうずっとドキドキしている鼓動につられて、指先が震えていた。

「──本当に、駄目ですか?」

 彼の唇が、そのまま逸らした首筋に触れる。それだけで、身体がびくりと跳ねた。

「だめ。だめよ。本当に。……私には、」
「ええ。貴方は何も悪くない。だから、全部小生のせいにすればいい」

 そのまま囁かれて、彼の吐息が耳元にかかる。そのくすぐったさに耐えきれなくて、ぎゅっと目を閉じた。ミシ、と革張りのソファが音を立てて、彼とソファの間に閉じ込められたことを知る。
 全部、なんて本当に優しい人。分かってて、帰らなかったのは、私の方だ。
 もう一度、彼が名前を呼んだ。声はこわいくらいに甘くて、ずるい。ゆっくりと視線を彼へと戻すと、蜂蜜みたいにどろりとした視線に捕らえられる。こんなの、馬鹿みたいだ。ねえ。私、ばかになってしまう。

「だから、今は全部忘れて。大丈夫。貴方は何も悪くないのですから」

 彼の手が頭の後ろに回って、そのままかぶりつくようにキスをした。
 ああ。私たち、もう元には戻れない。



 無理やりのくせに、彼の手はどこまでも優しかった。いけないことだと分かっているのに、私もほとんど抵抗はしなかった。他の子にも同じことをしているんじゃないか、なんて勘ぐるには彼は私に優しすぎて。だから、私も夢中で彼に応じた。
 内股はまだぬるりと濡れているけれど、シャワーは浴びずに帰ることにした。彼は「車で送ります」と私を助手席に乗せて、降りる間際に、「また、連絡します」と言って名残惜しそうに手を離した。

 家について、誰もいないことにひどく安堵した。壁にかかった時計はもう、十時を過ぎている。
 荷物を下ろすと同時に、電気をつける間もなく床に膝をつく。両手で顔を覆って、湧き上がる嗚咽を飲み込んだ。

 ──彼に抱かれている間、幸せだと思ってしまった。
 こんな感情を、私は知らない。知ってはいけない。でも、知ってしまった。こんなにも、深く。

 ──ええ。貴方は何も悪くない。だから、全部小生のせいにすればいい。
 どうしてそんなことを言うの。どうしてあなたはそんなに私に優しいの。分からない。もう、何も考えたくない。早くお風呂に入って、全部流してしまおう。まだ残っている彼の温もりも、唇の感触も、全部。

 夫は今夜も、帰ってこない。
 
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