うつくしいさよならの仕方を教えてほしい



「私がまだお前くらいの歳だった頃だ。当時上官だった家畜にも劣るクソジジイが、いつも汚らわしい目で舐め回すように私の胸を見ていた」

 カツン──。彼女が手にした杖の先が硬い地面を叩く。この世の全てを従わせんばかりの音だった。音は、波紋のように部屋に残響する。
 ダイヤモンドを模した柄を握る手は百合のように白く、薔薇のような強さがあった。視線はそのまま上から下へと杖をなぞる。その先で、針ほどに細いピンヒールが、驚くほどに力強く身体を支えていた。
 内閣総理大臣補佐官及び警視庁警視総監、行政監察局局長──勘解由小路無花果の執務室はどこか機械的な様相でそこに佇んでいる。花瓶のひとつもない部屋だ。圧倒的な彼女の存在感だけが、その中で唯一岩のように鎮座している。

「女の身でそんな若さで出世するなど有り得ん。さては身体でも売ったのか──とニヤついたその面を見て、いつか地に這いつくばらせてやると何度も思ったものだ。それが今や、下から数えた方が早い階級で、私に媚びへつらいながら生きている。フン、いいザマだ」

 そうは思わないか──と無花果は目の前で人形のように立つ彼女を見た。どう返すべきか、彼女は思案していた。ゆっくりと開いた唇は、されど何も残すことなく閉じられる。
 さして気に留める様子もなく、無花果は続けた。

「来るディビジョンラップバトルのことはお前も知っているな」
「はい。先日頂戴した概要には一通り目を通しました」
「よろしい」無花果は右側の口角を持ち上げた。次いで、試すような目付きを携える。
「我々がどうしてディビジョンラップバトルを執り行うか、分かるか」
「……国家の収益のため、でしょうか」
「悪くない答えだ。ただし良くて七十点だな。我々の真の目的は、また別のところにある」

 無花果は振り返り、デスク上のキーボードをタイプした。ややおいて、部屋にいくつも並べられたスクリーンの上に、山田一郎、碧棺左馬刻、神宮寺寂雷──彼女もよく知る人物のプロファイルが、一様に顔を覗かせる。

「言の葉党が最も恐れるべきもの──それは政府の転覆だ」
 静かな部屋で、その声はよく響いた。

「中王区外の男達──その個々の力などアリとなんら変わりはない。しかし、極わずかに存在する圧倒的な力を持った者共が結束すれば、多少は面倒なことになるのは免れない。The Dirty Dawgはその最たる例だ。──ならば力を持つ存在を戦いの場で見極め、結束する前に引き離せばいい。ゝhe Dirty Dawgがその後どうなったかは、お前もよく知っているだろう?」

 まさか、と彼女はやおら口を開いた。
 中王区以外の領土を制圧し、一時は世界を揺るがす存在になると言われていたThe Dirty Dawg。傍目から見れば互いを信頼し合っていた彼らは突如として解散し、その仲は目を覆うほどに険悪なものとなった。
 それが、まさか仕組まれたものだったなんて。
 驚く彼女を後目に、無花果はその鋭い目をすがめた。

「ディビジョンラップバトルは三人一組の制度を設けることとする。表向きは自分たちで自由にチームを組むことになっているが──お前にやってもらうのは、シブヤディビジョンで我々が目をつけている者の調査だ」

 スクリーンが変わる。どこかで見覚えのある著者近影が、その一面に映し出された。

「作家、夢野幻太郎。この男の調査がお前の任務だ。隠された経歴、アビリティ、トラウマに至るまで──こいつを調べて分かることをすべて報告しろ」

 彼女は深く頷いた。「了解しました」敬礼をひとつして、またその手を腰に戻す。
 それから、再びスクリーンに映るその男をまじまじと見つめた。こちらを見つめるその瞳の真意は見えない。なにひとつも。
 無花果が杖を打ち鳴らす。その音で、彼女は再度視線を戻した。
 目の前に立つ上官の後ろで、墨を垂らしたような曇り空が覗いている。

「ああ、それから──接触するにあたって、お前が中王区の者だということは決して口を漏らすなよ」


 ◆


 言の葉党が政権を握り始めてから、世の中には様々な変化があった。
 家庭内暴力や性被害はH歴以前から六割の減少。すべての車両に全体の約三割の女性専用車両の義務付け。ミサンドリーな思考を持つ人間は増え、仕事における男性の活躍は次第に狭き門となった。それにより、見合わない激務を課せられた男性の自殺率は約二割の上昇。
 やっぱり男って。男はすぐに武力に頼る。これだから男は──。
 誰もがそんな言葉を口にする。同意を求められる時、その度に歯がゆくなる自分は、きっとここに居るべきではないのだろうなと彼女は思っていた。

 父のことが好きだった。
 政府への就職が決まった時、誰よりも喜んでくれた父だ。これから自分が携わることが父を一層苦しめるかもしれないのに、それでも涙を流すほどに喜んでくれた。
 夢が叶うことと幸せになることは、どうして別なのだろう。


 ◆


 シブヤディビジョンの一角、とある喫茶店にて。

 席に通されて、すぐにお冷が出される。シンプルなメニューの中で目に付いたホットコーヒーを注文してから、彼女はすぐに夢野幻太郎に関する資料を開けた。
 プロフィールや経歴、現在の活動状況に目を通してからプロファイリングを始める。作品のジャンルは純文学風からミステリ、はたまたSFと幅広く、何人もの編集者がついているようだった。彼が作家になったのはその類稀なる才能ゆえか、それとも──。

「おや、このような写真が撮られているとは気付きませんでした。有名税というやつでしょうか。おちおち街も歩けませんねぇ」

 突如として後ろから掛けられた言葉に、彼女は慌てて書類を伏せて振り向いた。
 そこに立っていたのは、資料の中で涼しい目をしていた彼──『夢野幻太郎』そのものだった。
 まさか、こんなところで彼に出会うなんて。
 それに、見られてしまった。
 心臓が氷を当てられたように冷えていく。写真の中よりもずっと綺麗な緑色の瞳がこちらに向けられている。

「ところで、貴方は?」

 息を飲んだ。ややおいて、彼女は口を開く。

「──編集社の者です。次に担当するのが夢野幻太郎……先生でしたので、先生に関する資料を見ていました。まさか、お会い出来るなんて」

「ほう。このご時世に女性様≠ェ某のような男作家の小間使いなど、変わっていますねぇ」

 座っても? と聞かれて、「もちろんです」と前の席に促す。合間に、資料を雑にカバンの中に詰めんだ。
 ぶくぶくと気泡を立てそうなほどに熱い何かが、身体の隅々までを駆け巡っていた。幻太郎はすぐ側で様子を伺っていたウェイトレスに彼女と同じホットコーヒーを注文すると、流れるような動作で腕を組んで片方の手を口元に添えた。

「この喫茶店は小生のお気に入りでして。普段はよくこちらで執筆をしております」
「そう、だったんですね。……その、騒がしくて集中できなかったりはしないんでしょうか?」純粋な疑問だった。作家といえば、静かな場所で黙々と作業をするのが彼女のイメージだ。
「道行く人には様々なエピソードがありますから。その会話を拾い上げて、ストーリーに組み込むもまた一興。勿論締切が近い時はそうもいきませんが」

 そうでないと、貴方たちが大変厳しくせっつくものですから──。
 彼の言葉に、彼女は愛想笑いを浮かべた。それから、ここに来る前に夢野幻太郎を担当する編集者と話をした折に、その仕事内容のひとつでも聞いておくべきだったとひどく後悔した。
 汗ばんだ手のひらを握りしめる。彼は目の前に差し出されたコーヒーを一口含んで、夏の日の木漏れ日を思わせるような瞳を彼女に向けた。

「時に、貴方はどうして編集者に? このご時世ですから、もっといい仕事もあったでしょう」

 試されているのか、と思った。握りしめた手のひらに爪がくい込む。

「──父が、本が好きだったので」

 紛れもない真実だった。コーヒーに映る自分を見つめて、彼女はぽつりと降り始めた雨のように言葉を紡ぐ。

「父はH歴より前の戦争で負傷し身体が不自由になりました。だから、これからは争いだって武器ではなく言葉の力で解決すれば、もう誰も傷つくことは無いと思って──」ハッと目が覚める。これではまるで中王区への入党理由を語っているようじゃないか、と彼女は顔を持ち上げた。

「だから、言葉だけで人を楽しませることが出来る本の力ってすごいと思って、あの……」

 デクレッシェンドのようにしぼむ言葉じりに、取り繕うようにして「夢野先生の作品、大好きなんです。だからこうやってお話することができて良かったなって」と微笑む。冷や汗がこめかみを伝っていた。

 ──接触するにあたって、お前が中王区の者だということは決して口を漏らすなよ──

 先日の上官の言葉が頭痛のように頭に鳴り響く。
 はたして自分は今、上手く笑えているのだろうか。

「そうでしたか。小生の作品が他者に何かしらの影響を与えているのだと思うと、悪い気はしませんね」

 カップを片手に涼しげに微笑む彼の姿に、少しずつ氷が溶けていくような安心感を覚えた。
 彼は飄々としていて、どこか掴みどころがなくて、そしてきっと世間が言う男≠ニは違うのだろうなと思う。
 ああ、これが任務じゃなければ──とふと過ぎった言葉に驚いた。その続きは出てこない。

「小生はよく此方におります。時間は……そうですねぇ。大体昼頃からは珈琲一杯で長居する迷惑な客をしております。作家と編集者はお互いのことを知るのが第一ですから、良かったらまたいらして下さい」

 小生も、貴方という人がもう少し知りたくなってきました。
 掛けられた言葉に、鼓動がひとつ高い音を立てた。古い店内で、壁に掛かった時計が正午の鐘を鳴らしている。



 その邂逅に意味はあったのだろう。
 あの日から、幻太郎と彼女はこの喫茶店で頻繁に会うようになった。任務としてはこれ以上なく上々で、けどそれだけではない何か≠ェ彼女の胸の中で静かに灯火を残していた。
 鞄に入れた盗聴器で、彼との会話を何度も繰り返し聞く。嘘か真実か分からない言葉の中で、彼の思いの欠片を引っ掛けるように、何度も。

 そして彼もまた、彼女との時間にある種の心地良さを感じていた。喫茶店でペンを走らせながら、句点のあとで、入口のベルの音で、ふと顔を上げた瞬間に彼女を探している自分に自嘲する。

 ──彼女は何かを隠している。

 それは彼の中で確信めいた思いだった。ただそれを解き明かしてしまえば、彼女はもう二度と自分の前には現れない気がして、幻太郎は突き詰めるのを止めた。
 「夢野さん」と彼女の声がして、ふと顔を上げた時に見える彼女の笑み。前に掛けたときにふわりと漂う、彼女には意外などこかスパイシーな香水の香り。

 ──この時間が、ずっと続けばいいのに。

 らしくもない思いが、ひとつ。
 次第に騒がしさが増していく街で、それでも変わらないものを探している。



「意外な香水をつけてらっしゃいますよね、貴方」

 彼の言葉に、彼女はふと目を何度か瞬かせた。それから、自分の肩口にすん、と鼻を立てる。

「いえ、貴方のイメージよりもずっと大人びた香りでしたので。もちろん悪い意味ではありませんよ」

「確かに、私も最初はそう思ったかも。これ、上か──上司から頂いたんです。スパイシーだし、ちょっと大人っぽすぎるかなぁって思ってたけど、付けてるうちにあんまり気にならなくなっちゃって」
「そうですか。よくお似合いですよ。この香りがする度に、貴方のことを思い出します」

 見開いた目の下で、白い頬に少しの朱がさす。ああ、確かにこれは口説いているようだ──と幻太郎は苦笑を珈琲に溶かして飲み込んだ。
 瞬間。落ち着いた店の中まで聞こえて来るような外からの怒号に、彼女はびくりと身体を震わせた。慌てて入口の方へ首を向けて、また戻してカップを両手で包み込む。

「最近、こんなのばっかですよね」

 The Dirty Dawgが解散した今、支配者を失い宙ぶらりんになった各ディビジョンでは連日その争いが繰り広げられている。間もなくディビジョンラップバトルが告知されれば、少しはマシになるだろうか──という言葉を、彼女は静かに飲み込んだ。これはまだ、中王区の一部の人間しか知らないことだ。

「ええ、本当に。貴方もお独りで街を歩くのは些か恐怖に思うこともあるでしょう」
「そう、ですね」言葉半分で、頷く。実際は鞄の中に入れた中王区の証明書を出せば、彼らの様な雑兵など取るにも足らないのだが。
「──今日は、近くまでお送りしますよ」
「えっ。いいんですか?」
「ええ。最近は目に見えて治安が悪化していますし、女性が一人で歩くのも色々と不安でしょう」

 言外から滲み出てくる彼の優しさに、また胸が締め付けられる。彼にとって、自分がそれだけの存在であることが何よりも嬉しかった。鞄の中の中王区の証明書と自分に課せられた義務を、破り捨ててしまいたいくらいに。

 喫茶店から出て、まだ明るいシブヤの街を並んで歩く。肩と手の甲が擦れそうなほどの距離に、胸がどくりと音を立てていた。
 まるで恋人同士のデートみたいだ、と思って、彼女はふと思いを馳せた。
 もし。もしも世界がこんな風じゃなければ、あるいは自分が中王区の人間でなければ、彼とこうして歩く未来もあったのだろうか。
 なんて、考えても仕方のないことだった。彼女を取り巻く環境も、その事実も、今更何一つ変えられやしないのだから。

 中王区に住む彼女にとっては、シブヤは馴染みのない街だ。表通りはとにかく騒がしくて、上からも横からも絶えず色んな音が鳴っている。彼の書生のような変わった服も、この街ではどこか馴染んでいた。
 ──駅前でお別れすれば怪しまれないかな。
 そんなことを考えながらぼんやりと高いビルを眺めていた、その時。
 路地で、高い悲鳴が聞こえた。振り向けば、如何にもガラの悪そうな男たちが二人の女性を囲んでいる。言の葉党が政権の支配を宣言してすぐはよく見た光景だった。
「あの人たちっ」反射的に一歩前に出た彼女の肩に、幻太郎がそっと手を置いた。

「小生の後ろに下がっていてください」

 そうして隣をすり抜けて前に立つ彼が、ふと、彼女に振り返る。

「つまらない見栄でも、張らないのであれば塵箱に捨ててしまった方がいい。小生も男ですから、貴方の前で格好を付けたいときだってあるんですよ」

 ふわりとした笑みと、その言葉が、どうしようもなく胸を打った。
 少なくとも目の前に立つ彼は、つまらない男だと馬鹿にされていい人じゃない。闇雲に武器を取って誰かを傷付けるような人じゃない。
 それを、知ってしまったのだ。こんなにも、深く。

「こんにちは。その方、どうにも怯えているようです。手を離していただいても?」
「アァ? 誰だお前。やんのかコラ」
「はぁ。やはり落ち着いて話を聞いてはもらえませんか。残念ですが、仕方ありません」

 すぐさまマイクを構えた男たちにため息をついて、幻太郎が静かにヒプノシスマイクを起動させる。

 ──隠された経歴、アビリティ、トラウマに至るまで──こいつを調べて分かることをすべて報告しろ──

 彼女ははっと何かに気付いたようにして、鞄の中の盗聴器を握りしめた。今まで表立って見せることのなかった彼のラップが、今こうして表に出される時が来たのだ。
 はたして、彼のラップアビリティは凄まじいものだった。紡がれる幻想的で文学的なリリックは美しさと強さを兼ね揃えていて、もののワンバースで男たちは戦闘不能となり、地面に倒れ伏した。
 中王区が目につけていただけの、いや、きっとそれ以上の才能が彼にはあった。彼は、間違いなくシブヤディビジョンの代表になるべき人だ──と唾を飲む。

 そうして頭を下げた女性二人が去っていくのを眺めて、彼がふとひと息ついたとき。
 気が付けば、数人もの輩たちに周り囲まれていた。大方彼のラップを聞いて、そのマイクを奪いにでも来たのだろうか。

「おやおや、これは……まさに四面楚歌とはこのことですねぇ」

 彼女の前に立って、幻太郎はひっそりと眉を顰めた。多勢に無勢。彼女を守りながら戦うには余りにも数が多すぎる。されど、退路は既に塞がれている。
 ならば、やるしかないだろう。それが、彼女を守るための唯一の手段ならば。
 幻太郎は息を飲んだ。こめかみを冷たい汗が伝う。
 その後ろで、彼女は高鳴る胸を抑えるように、ただ静かに、ひっそりと呼吸をした。

 ──接触するにあたって、お前が中王区の者だということは決して口を漏らすなよ──

 頭の中で響くのは、かつての無花果の声だ。
 彼がそのひみつを知ってしまえば、きっともう二度と彼には会えないのだろう。
 それでも。


 鞄の中でそれ≠手繰り寄せるまでの間、彼と過ごした少しの日々が、まるで走馬灯のように頭を駆け巡った。

 原稿に敷き詰められた、綺麗で、少しだけ癖のある彼の字を。
 陽射しが照らした彼の長い睫毛を。
 自分を見つめる、柔らかな緑の色を。
 目を閉じて、もう一度大きく息を吸う。それから上官の、毅然とした強い声を思い浮かべた。

「そこまでだ。全員マイクを下ろせ」

 ゆっくりと彼の前に立つ。見開いた目が、隣をすり抜けた彼女の背中を追った。
 白い手が、この国で最も権力を持つその証明書をかざす。

「中王区です。乱闘の容疑であなた達を全員検挙する」


 ◆


「──おや、小生のことは検挙しなくて良いのですか?」

 日暮れの騒がしい街で、似つかわしくないような静かな声が響いた。
 うなだれるようにして、彼女は頭を下げる。

「ずっと、騙していてごめんなさい。私は、あなたを……」

 言葉が告げないまま、彼女はぐっと手のひらを握りしめる。喉元までせり上がった否定の言葉を、ただ彼女は望まない気がして、幻太郎は静かにそれを飲み込んだ。

「どうしてでしょうか。漠然と、いつかこうなる日がくるのではないかと思っていました」

 その言葉に彼女は頭を持ち上げた。潤んだ瞳の縁に、目を引くような鮮やかな朱が差している。

「──もう、貴方とは会えませんか」

 彼女は唇を噛んだ。喉の奥からせりあがるような何かを、無理矢理やり過ごしているようにも見えた。

「はい」

 そうしてすべてを飲み込んで、静かな肯定を、ひとつ。

 ──さようなら。もうお目にかかりません。でもすこしだけ、誰かのものになれてうれしかった──

 彼の横を通り過ぎる間際、父が好きだった小説の、ワンフレーズが浮かび上がった。記憶のふちで何度もなぞって、そうして彼に背中を向けた瞬間、堪えていた涙がいくつもこぼれ落ちる。

 さようなら。
 さようなら。私、きっとあなたが好きでした。

 残り香を残して、去っていく彼女の姿が見えなくなるまで、幻太郎はただ静かにそれを眺めていた。それからついぞ告げられなかった言葉を、声もなくひとり呟いた。
 

 ◆


 ──ディビジョンラップバトル、中王区内にて。

「だーッ! 控え室ってどこにあんだよ。扉が多すぎて分かんねー!」
「うーん、あっちじゃないかなぁ〜。あっ、向こうにオネーさんたちがたくさんいるよ! ねぇねぇ、聞いてみるぅ?」
「壁の案内からすると向こう側に──と、行ってしまいましたねぇ。手当たり次第に声を掛けてるようですし、あの調子ではしばらく戻ってこないでしょう」
「はァー!? ふざけんなよ。俺はさっさと休みてぇんだよ。幻太郎、あんな奴ほっといて先に行こーぜ」
「おや、帝統はもうお疲れですか? せっかく入れた中王区ですし、わっちはあと五周ほどは出来そうでありんすが」
「興味ねーよそんなモン。俺は先に行くからなー。んじゃっ、中にいい賭場があったら教えてくれよな!」

 各々それぞれ別のところに進んでいく様に、まるで自由という文字を表しているようだと幻太郎はくすりと笑む。刹那の友は、どうやら時と場合を選ぶらしい。
 さすれば小説のネタにでもなりそうだと、幻太郎は一人でその中を歩き始めた。ここ中王区の中は、そう易々と入れるところではない。彼らのようにディビジョンラップバトルの参加券を勝ち取ってこそ、ようやく足を踏み入れるのを許される場所だ。
 中王区。その言葉に、どこか懐かしさにも似た感情が記憶の縁をなぞる。あれからもう一年近く経つというのに、いつまで経っても記憶の中で鮮明な光を放つ存在だった。

 ──馬鹿だな。会えるはずなんてないのに。

 何かを期待したような自分に深く息を吐く。それから踵を返そうとした瞬間、どこか懐かしい香りが彼の鼻をくすぐった。
 それは、いつか誰かが残した、スパイシーな香水の匂い。
 自分には少し大人びていると、笑ったあの日の女の姿を思い出す。
 その先で、見慣れた後ろ姿を見とめて、鼓動がどくりと音を立てた。
 手を掴む。
 振り向いた、その表情は。
 
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