罰
後悔はしなかった。しないはずだった。ずっと、そう言い聞かせてきた。
幼い頃に両親は離婚し、父親の顔は覚えていない。母親は彼女と病気の弟を棄て、再婚相手と共に姿を消した。二人きりになった世界で、ならば弟は自分が守ってみせると彼女は誓ったが、世の中はそんなに甘くはなかった。学生だった彼女は学校を辞め昼夜もなく働いたが、すぐに資金も底をつき、いよいよ弟に治療を受けさせるだけのお金もなくなった時。途方に暮れた彼女に与えられたのは、一つの選択肢だった。
弟の延命を約束する代わりに彼とも会えない場所で審神者となるか、弟の治療を諦めるか。
彼女は前者を選択した。最後まで離れたくないと弟は見えぬ姉の裾を引いていたが、その手を断腸の思いで解いた。そうして彼女はあるべきだった未来も、唯一の家族も何もかもを捨て、かの世界で審神者となった。すべてはたった一人の家族が生きていくために。
静かな本丸だった。これほど静かな空間はいつぶりだろうか。そんなことを思うほどに、気がつけば沢山の刀剣達に囲まれて生きていた。穏やかだった。幸せでもあった。そんな日常は、一瞬にして過去になった。
主の周りには、鶯丸を除いた本丸のすべての刀が本来の姿で横たわっていた。それを一つ一つを丁寧に並べて、彼女は両手の指を重ねて目を閉じる。たおやかなそれは祈りにも追悼にも、懺悔にも見えた。
一度にこれだけの数を刀解することは主にとっても相当の負担になったはずだ。身体と、心はもっとひどく。それでも、やらなければいけなかった。例えそれが、この身を引き裂くような辛苦でも。
現世には主が渡ったコードの記録が残っている。だからきっと、彼女の罪を知った誰かがこの場所に来る。そうしてその何者かが、彼女の本丸に危害を加えないとは限らない。誰かが捕えられるかもしれない。寿命のない彼らが、どれだけ長い間苦しめられるかも分からない。だから、痛みも何も感じないように刀に戻す必要があった。彼女と鶯丸が遺した赤い血溜まりは、それだけの罪だった。
それでも彼女は、最後まで鶯丸だけは解こうとしなかった。
ふらりと倒れるように、彼女は畳に寝そべる。それを支えようと反射的に伸ばした鶯丸の腕を引いて、二人で寝転がった。木枯らしが揺れて、薄らと冷えた風が本丸の中を吹き抜ける。風の音と、二人の呼吸。聞こえるのはそれだけで、あるのは二人分の体温だけだった。
寝転んだまま向かい合って、主の指がそっと鶯丸の頬に伸びる。細い指先が、瞼を撫でる。その手を甘受するように、鶯丸は「なんだ?」と優しく問うた。
政府の人間を切り殺したあの瞬間から、鶯丸の翡翠の目は主と同じ色に変わってしまった。それは反逆者の証であろうか。それでも彼は、それを主への忠誠の証だと捉えていた。
「私の悪い気持ちが、貴方に伝わってしまったのね」
それはいつか、彼女が恐れていたことだった。だんだん濁っていく自分の思いが、霊力を通して彼らにまで侵食してしまうのではないかと。
「主と揃いなんて粋じゃないか。これで名実共に君の刀になれた」
何でもないような、そんな鶯丸の言葉だったからこそ、胸が押しつぶされるように苦しかった。まるで喉に大きなしこりができたかのように。走馬灯でも見るように色んな思いが溢れて、溢れ出したそれはもう止まらなかった。
「あのとき……あの時、行かないでって言ったあの子の手を握っていたら、何かが変わっていたのかな」
それは何度も考えた、考えても仕方の無いことだった。後悔とは後から悔いること。よく出来た言葉だ。でもこうする以外には、もう他に方法はなかった。
「そうだな。過去に戻ってやり直してみるか?」
「ふふ。歴史を変えないように、と戦ってくれた貴方がそんなことを言うなんて」
「まあ、細かいことは気にするな」
「そうね……でもそれも、きっと悪くはないのかしらね……なんて言ったら、貴方達に怒られてしまうわ」
「怒らないさ。それが主の願いなら」
縁のある時代に送り、その手段を持ちながらも変えられない過去に何度も歯がゆい思いをさせただろう。だからこそ、それを強いた自分がそれを望んではいけないのだと、彼女は笑った。笑いながら、美しい涙を一筋流した。畳の上で跳ねた雫が、丸く浮かんでいた。
「ねえ、もうひとつ貴方に甘えてもいいかしら」
震える主の声に耳を傾ける。それは今にも消えてしまいそうな、儚い影だった。
「貴方を解いて、貴方という刀で私は死のうと思う」
鶯丸は思わず目を開いた。主、と引き止めるような、縋るような声が出ていた。主はゆっくりと瞬きして、そうしてまた彼を見つめた。誰もが大切にするような、そんな白い陶器の肌を、透明な雫が滑り落ちていく。
「怖くないわ。それは私の背負うべき罰だから」
「どうして主が死ぬ必要がある? 死ぬべきだったのは、君の弟君を殺したあいつらじゃないか」
「……あの人たちが言った言葉を覚えてる? 審神者と刀剣が交わって子を成せるのか。彼らに捕らえれた私が受けるのは、きっとそういう罰よ」
はっと息を飲んだ。その時に感じたものと同じ熱が、全身の血の中で駆け回る。
「……やつらから逃げようとは、思わないか」
「そうね、それも素敵ね」
まるで面白いあらすじを聞いた時のように、主は笑う。どこかの絵画のような美しい笑みだった。彼女が望むならどこへだって、例えそれが地獄の果てだろうと、共に行く覚悟はあった。されど彼女にその意志がないということを、鶯丸は感じていた。
「ごめんね、鶯丸。でも私、あの子に会いたい」
畳に寝かせられた細い手が、彼女の顔の前でしずかに震えていた。彼女の罪も、受けるべき罰も、自分が持っていくはずだった。それでもその思いだけは、彼女から奪い取れはしない。
自らの命を奪うことでさえ、彼女が選んだのは鶯丸だった。たった一人の家族も、穏やかな居場所も、これからの未来も。全てを失った彼女が、それでもいまこうして居られるのは、鶯丸が隣に居てくれたからこそで。
されど、素人が自分で死のうと手をかけるのは、あまりにも無意味な苦痛を伴うものだ。下手をすれば致命傷になりきれず、死ねない場合もある。そうなれば彼女は生きたまま捕えられて、これ以上の使役を働かされるのだろう。彼の、いない世界で。彼が、守ることもできない世界で。鶯丸の罪でさえ、全部背負って。
果たしてそれを、彼は許せるのだろうか。
永遠にも思えるような静寂を、二人以外の誰かの声が切り裂いた。足音を伴って、近づいてくる。それでも、まるで時計の針が止まってしまったように、動けないでいた。いっそこのまま世界を切り取って、ずっと時間を止めてしまいたかった。
最初に動いたのは彼女だった。彼を解くための優しい指先が、鶯丸の頬を撫でる。人差し指。中指。
目を閉じる。
「ありがとう。──私、貴方が好きだったわ」
その言葉に、鶯丸がはっと目を開いた。
その刹那、鶯丸の刀が彼女の胸を貫いていた。心臓の、ちょうど真ん中。それが致命傷になるように。彼女が苦しむ時間を、限りなく少なくするかのように。
「うぐいす、ま…………? だめ、──あなたを、解いて……わたし、が、ぜん ぶ」
「悪いがそうはさせない。言っただろう? 君の罪も全て持っていくと」
彼女は何かを言おうと唇を動かしたが、声にはならなかった。ぐったりと枝垂れた身体から、赤い血が溢れた。溢れて、それは畳の上に流れて、彼女が零した涙の粒でさえ飲み込んでいく。
そうして彼女が事切れた瞬間、鶯丸の心に大きな空洞ができた。彼の世界は止まって、もう回らなくなった。昨日は失くなって、明日はもう来ない。ぽっかりと空いたその穴は、もう二度と塞がらない。
それでも、彼はそうすることを選択した。
血の気を失ったその瞼をそっと閉ざす。その瞳は、もう開くことはない。もう二度とその綺麗な色を見せることは無い。されど、彼はもうそれと同じ色の瞳を持っている。
それは彼が忠実な彼女の刀である、何よりの証だった。
鶯丸は主に口付けをひとつ落とした。永遠にも思えた一瞬のあと、彼は立ち上がった。
不規則な足音が、ピタリと止まる。誰かが息を呑む音が聞こえた。鶯丸は振り返り、静かに嗤った。
「ああ──待ちくたびれたぞ。俺は鶯丸。お前達政府と、主を殺した大罪人の名だ」
第 一八五六零本丸
個体識別番号 七零二 鶯丸
現世にて政府の役人十三人を虐殺。その後、本丸にて個体識別番号 一零八九番 審神者を刺殺。刃渡り、傷口、付着した血液共に一致。個体識別番号 七零二 鶯丸の供述によると、歴史の改変を咎められたことにより無差別に政府にて殺傷を行い、それに気付いた個体識別番号 一零八九番 審神者が彼の謀反を危惧し本丸で全ての刀剣を刀解していたことにより、自らの刀解を恐れ審神者を刺殺。現場は二十二振りの刀剣が刀の状態で遺されていた。これにより、個体識別番号 一零八九番 審神者を殉職のため二階級特進とする。
個体識別番号 七零二 鶯丸を刀解とする。