あの夏
ざらついた砂が頬にめり込んだ。地面に這いつくばった拍子に舞った砂埃が器官に入り、身体はそれを吐き出そうと反射的に咳をする。真夏の陽に照らされた地面はじりじりと陽炎を作っていて、さながら熱い鉄板の上に手のひらを押し付けているようだった。
じくりと痛む身体は熱いのに、されど幻太郎の心の中は、ひどくつめたく、そして冷静だった。当事者にあらず、校舎の窓からただ眺めているだけの落ち着きがあった。物事を俯瞰する、誰でもないただの一人として。
そんな彼の澄んだ顔つきが気に食わなかったのだろう。やり場のないいら立ちをただぶつけたような足が、幻太郎の肩を蹴った。
じりじりと音を立てるような天に向けた耳の、一メートル六十センチ上で、息を吸う声がする。
吐き出される声は、もうすでに分かっていた。
「お前、気持ち悪いんだよ。捨てられた子のくせに」
◆
──くるしさは、忍従の夜。あきらめの朝。この世とは、あきらめの努めか。わびしさの堪えか──
何度も繰り返し読んだ太宰の一文を、それでもまた目で追う。文庫本を掴んだ手のひらが、汗で少ししっとりとしていた。
夕焼けの色をした夏はまだ茹だるような熱をひいていた。落ちてくる汗を拭う。頬の傷口に染みて、針で刺すような痛みが走る。気にする素振りを見せず、幻太郎はページをめくった。慣れが、彼をそうさせた。
学校から二つ離れたバス停で、三十分先のバスを待つ。学校の誰とも会わずに済むこのルートが幻太郎のいつもの帰り道だった。
細かい砂のついた制服のズボンが薄く白んでいる。舌に貼りついた血の味の余韻が広がっても、構わずにページをめくりつづけた。
その時だった。隣に誰かが来る気配に、幻太郎は帰り道の間で初めて顔を持ち上げた。
同じ制服を着た女子生徒だ。セーラー服が、水の道筋を描くように不自然に濡れている。中心部は肌に張り付くほどに濡れているのに、左右の裾は紙のように白いままだった。頬を伝ったのは、汗か、濡れた髪から滴る水か。それが自分でやったのか、あるいは誰かにされたのかどうか。判断をつけるのはそう難しくなかった。
その姿に、見覚えは──あった。彼女もまた、幻太郎と同じ意味で目立っていたからだ。
幻太郎の生きる田舎町は、家庭の環境が驚く程に周囲の反応を左右する。彼のようなもらい子であったり、彼女のように新興宗教に嵌った親を持つ者など──少しでも変わった環境にあるものは、まるで魔女裁判かのごとく同級生に火炙りにされる。
それの何が悪い。
それがお前たちに何の関係がある。
余計なお世話だと、心の底から思った。祖父と祖母のことは心から尊敬しているが、本音を言うならば、彼は早くこの街から出たかった。
いつもならば、彼の視線はまた本に戻っていたに違いない。だから今こうして、鞄の中からハンカチを取り出して彼女に差し出しているのは、彼にとっても予定外のことだった。
「どうぞ」彼女の瞳が、二回、まばたきをする。想像よりもずっと、綺麗な色をしていた。
「──ありがとう……夢野くん」
彼女もまた、自分のことを知っていたのだろう。あれだけ執拗に虐げられているのだから、当たり前かとひとりごちる。
じっくり見るのもどうかと思い、彼はまた手の中の文庫本に視線を落とした。少しのあと、「あの」と声がして、また彼女を見やる。
先程見たときよりも、目が赤かった。少しだけ充血した瞳にうっすらと膜がはっている。
泣いたのか、とふと思った。それが自分のせいでなければいいが。
「これ、また洗ってから返してもいい?」
断る理由もなく、頷いた。その後で、また会うことなどあるのだろうかとふと思った。
「ありがとう。それじゃあこれ、お礼に」
彼女の手がスクールバックをおもむろに漁る。その腕の傍らで、折れた教科書が見え隠れする。
「はいどうぞ」取り出されたのは、小さな絆創膏が二枚。手を伸ばす。小さな長方形の端と端に、お互いの親指がかかっている。
「優しいんだね、夢野くん」
優しい。そんな言葉を言われたのは初めてだった。そもそも、この街でこんな風に声をかけてくれるのは家族を除いて彼女しかいない。
それは彼女にとっても、同じだったのだろうか。
「また喋ってもいい?」
ややおいて、幻太郎は頷いた。それから文庫本を膝の上において、彼女を見据える。その後ろの夕陽が、車のひとつも通らない田舎道を照らしている。
それが彼女と出会った、はじめての夏だった。
◆
──恋をしたのだ。そんなことは、全くはじめてであった──
擦り切れるほど読んだ太宰の一文は、薄い紙がさらに薄くなっているような気がした。
同じバス停でハンカチを返された日から、彼女とはほぼ毎日のようにバス停で話すようになった。クラスは違ったが、学年は同じだった。部活動にも入らず、終業と同時に逃げるように校舎出るのだから決まって同じ時間になるのだろう。
返されたハンカチはずっとカバンの中にある。彼女の制服と同じ、柔軟剤のいい香りがした。
「あーあ、早くこの街から出たいな」
相変わらず眼のすずしい女だった。幻太郎はふと、家の縁側の風鈴の音を思い出した。
ふたり、拳ひとつ分をあけるのが限界なほどの小さなバス停のベンチに座って、彼女はため息のようにそう言った。
「出たら、どうしたいんですか?」
相槌のように返す。それは自分にも言えることだ。
「うーん……分かんないけど。とりあえずここから出て、いつかお金持ちでカッコよくてわたしを大切にしてくれる人と結婚したい」
まさに中学生の時分である者が描くような、随分漠然とした夢物語だった。「ふむ」と幻太郎はごちて、文庫本を閉じた。最近は、本を読むよりも彼女と話してる方が楽しいと思う。
もうすぐ地獄のような中学生活は終わる。先日の頬の痣はもうすっかり地肌と馴染みかけていた。あと季節をふたつやり過ごせば、ここから開放されるのだ。
「夢野くんは高校、どうする?」
「さぁ──まだ分かりませんが、少なくとも、この近くには行かないつもりですね」
そもそも、制服を買うことすら一苦労だった祖父母にそこまでのゆとりがあるかは分からない。これ以上迷惑をかけたくはないし、毎日囚人のような気持ちで学校へ向かう生活に意味があるとも思えない。
幻太郎は、朝の新聞配達のバイトで少し微睡みかけた瞼を擦った。あくびを口の中で細かく刻む。
「そうだね。わたしも、誰もわたしを知らないところに行きたい」
開放されたい──と彼女は小さく唇を動かした。夏風に攫われそうな小さな声だった。
彼女のこころはまだ、冷たい陰口に痛むのだろうか。当たり前だ。自分を殺す、そんな処世術なんて身につけない方がいい。
この頃、何故かは分からないが、彼女には自分が知る誰よりもうんと幸せになって欲しいと思っていた。それは同情なのか、はたまた自分と同じ立場に身を置く者との傷の舐め合いのようなものなのか。
分からない。
「でも、夢野くんと離れるのは、寂しいな」
スロウに揺れる彼女の髪の先を、幻太郎は目で追いかけた。
向こう側からバスがくる。
自分も、という言葉を幻太郎はついぞ告げられなかった。
あれからいくつかの日が過ぎて、学校内でも少しずつ話すようになった二人に、周囲はより一層に悪口をはやし立てた。
贔屓目でなくても、彼女は器量がよかった。幻太郎も、祖母から『おまえのお母は、よほど美人さんだったんだろうねぇ──』と常日頃言われるほどには顔立ちが整っている。
虐められっ子の二人は、果たしてよく思われなかったのだろう。少し話すだけで、やれ付き合っているのか、調子に乗るなと声を掛けられる。されどそれを歯牙にもかけない強さが幻太郎にはあって、そしてきっとそれが良くなかったんだろう。
誰もいない教室でふたり話していたところに、数人の男たちが入ってきた。黄ばんだ歯を覗かせて、嫌な笑みを浮かべている。
咄嗟に彼女の前に立った幻太郎の腕を引きずって、頭を丸く刈り上げた野球部員の拳が幻太郎の頬を殴った。地面へとよろける幻太郎に、「夢野くん!」と彼女は悲鳴のような声をあげた。駆け寄った彼女を、別の男が力づくで教室の地面に押さえつける。
「やめろ!」虐げられる中で、幻太郎が声を出したのは初めてだった。
それがよほど面白かったのだろうか。彼らは手を叩いて笑い、ひゅう、と口笛を吹く。
何が面白いのか、幻太郎には毛ほども分からなかった。
男がうつむいた彼女の髪をぐっと引っ張る。「いっ、」と声を上げて、今にも泣きそうな彼女の充血した瞳があらわになる。さっと血の引く音がした。彼女は虐められてはいたが、その過半数は附子な女達によるものだった。自分に関わらなければ、彼女がこんな目に合うことはなかったはずだ。
「お前らってさぁ、もしかして付き合ってんの?」幻太郎の髪が上に引かれ、ぎりと歯を噛み締める。
「おもしれー。なぁ、ちょっとキスしてみて」
キース、キース、と乾いた声が響く。引きずられて、彼女の顔が迫る。教室の床の埃が彼女の白い頬を汚して、ふざけるな、と幻太郎は舌を噛んだ。もはやこの男たちが生きている価値なんてないとすら思った。
あと二センチ、一センチ。それから。
夕暮れ前の教室に、一際大きな歓声が上がる。
死んでしまえと、幻太郎は強く手を握りしめた。
真夏の通り雨が降っていた。傘を叩きつけるような雨の中、ふたりでいつものバス停に向かう。
道中は無言だった。何に対しての謝罪からすればいいのか分からなかった。それでも一緒にいた。降りしきる雨の音が、静寂を破ってくれるのが救いだった。
「ねえ」いつも通りの彼女の声だった。一拍置いて、幻太郎は振り返る。
「ちょっと雨が強いから、あそこで雨宿りしてから行かない?」
彼女が指をさしたのは古びた神社だった。縁側くらいのスペースが本堂を囲むように一周していて、古い木の屋根が頼りなく、それでも確かに雨を凌いでいる。
どちらでも構わなかった。正直、こんな気持ちの中、傘だって差さなくたって構わないと思ったが、幻太郎は首肯した。
生い茂った木をかき分けて、本堂の、入口から見えない後ろ側に座る。背中には誰もいない本堂の壁が、目の前にはうっそりとした森が続いていて、誰にも見つかることはなさそうなところだった。折りたたみ傘を閉じて、腰掛けた隣に置く。大粒の水滴がいくつも付いていた。
目の前に立ち並ぶ杉の木を眺めて、それでも何も話さなかった。彼女の方すら見れなかった。もしまた泣きそうな赤い目をしていたら。そう思うと、俯いた視線を持ち上げることすらむつかしかった。
だから不意に、彼女のつめたい手のひらが幻太郎の手に重なって、ひどく驚いた。ややおいて、彼女の方を見やる。髪はしとりと濡れて、白い肌は、雨のつめたさに濡れてさらに白くなって、唇だけが、百日紅の花のように赤かった。
「ごめんね」
その赤が、彼が言えなかった言葉を紡いだ。その瞬間、言うべきだったと酷く後悔した。
「謝るのは俺の方だ!」自分でも驚くほどに大きな声が出た。彼女の下がった眉がこちらを見る。いつもと変わらない、澄んだ瞳だった。
重なった手のひらが、そっと握られる。
「じゃあ、もうこれで謝りあうのはおしまい」彼女の薄い唇の端が、きゅっと持ち上がった。
「──わたし、別にいやじゃなかったよ」
言葉が出ずに、瞬きを繰り返した。彼女の身体が、ぽすり、と幻太郎の肩に預けられる。
「いやじゃなかったんだよ」彼女は繰り返す。赤くなっていたのは、瞳じゃなくて頬だったのだと、そこで初めて気がついた。
幻太郎は、そのまま引き寄せられるように彼女に口付けた。「ん……」と甘い声がもれて、ついぞ、抑えが効かなくなる。
何度も口付けて、彼女をゆっくりと押し倒した。濡れた制服から、インナーが少し透けている。
「いいよ」細い手が、幻太郎の手を掴んで、その中へとくぐらせた。「キスだけであんなに喜ぶなんて馬鹿みたい。もっと、悪いことしよう」
中を進むと、彼女のブラジャーに手が触れた。いけないことをしている、と思った。それから、悪いことがステータスだと思っている、自分たちを虐める猿どもの、そのうち何人がここまでしたことがあるのだろうとくだらないことを考えた。
されどその感情が、ぞくりと彼を粟立たせた。彼女が自分のことをどう思っていたのだろうかなんて、そんな勘ぐりも消えた。
だからそこからは、何も考えずに彼女に触れた。誰も見てやしない。高く鳴る彼女の声だって、この大雨でどうせ誰にも聞こえはしない。
スカートがだらしなく腹の上に乗っている。下着は、ハイソックスに引っかかったままだった。通り雨に冷えたはずのお互いの身体は、もうすっかり熱を持っていた。
「あっ、やぁ、ゆめの、くん──」
彼女の背が弓なりに反る。いびつに重なった手のひらを、握りしめる。もう一度キスをした。それからむしゃぶるように、何度も。
あの日、僕達は同じひみつを持った。
そうして時が過ぎ、卒業してから、彼女には二度と会わなくなった。